第三話 動かぬ蠅
好き者の目賀野千吉は、或る秘密の映画観賞会員の一人だった。
一体そうした秘密映画というものは、一と通りの仕草を撮ってしまうと、あとは千辺一律で、一向新鮮な面白味をもたらすものではない。そこで会主は、会員の減少をおそれて一つの計画を樹てた。それは会員たちから、いろいろの注文を聞き、それに従って、映画の新鮮な味を失うまいと心懸けた。果してそれは大成功だった。会主の狭い頭脳から出るものよりも、同好者の天才的頭脳を沢山に借りあつめることが、いかに素晴らしい映画を後から後へと作りあげたか、云うまでもない。目賀野千吉は、その方面での、第一功労者にあげねばならない人物だった。
会は大変儲かった。会は彼の功労を非常に多とし、遂に千五百円を投げ出して、新邸宅を建てて彼に贈った。
「ほほう。あんな方面の労務出資が、こんなに明るい新築の邸宅になるなんて、世の中は面白いものだナ」
彼は満足そうに独言を云って、白い壁にめぐらされた洋風間に持ちこんだベッドの上に長々と伸びた。真白な天井だった。新しいというのは、まことに気持がいいものだ。蠅が一匹止まっている。それさえ何となく、ホーム・スウィート・ホームで、明朗さを与えるもののように思われた。蠅のやつも、恐らく伸び伸びと、この麗かな部屋に逆様になって睡っていることであろう。
彼はうららかな生活をしみじみと味わって、幸福感に浸った。いままでの変態的な気持がだんだん取れてくるように感じた。もうあの夜の映画観賞会には、なるべく出ないようにしようとさえ考えた。明るい生活がだんだんと、彼の心を正しい道にひき戻していったのだった。
しかしそれと共に、彼はなんだか非常に頼りなさを感じていった。淋しさというものかも知れなかった。血の通っている身体でありながら、まるで鉱石で作った身体をもっているような気がして来た。なにが物足りないのだ。なにが淋しいのだ。
「そうだ、妻君を貰おう!」
彼は、このスウィート・ホームに欠けている第一番のものに、よくも今まで気がつかなかったものだと感心したくらいだった。
目賀野千吉は、彼の決心を早速会主に伝達した。
「ああ、お嫁さんなの……」
と会主は大きく肯いてみせた。
「いいのがあるワ。あたしの遠縁の娘だけれど。丸ぽちゃで、色が白くって、そりゃ綺麗な子よ」
「へえ! それを僕にくれますか」
「まあ、くれるなんて。貰っていただくんだわ。ほほほほ」
と会主は吃驚するような大きな顔で笑った。
そんなわけで、彼は間もなく、新邸の中にまたもう一つ新しく素晴らしいものを加えた。それは生々しい新妻であることは云うまでもあるまい。
新世帯というのを持ったものは誰でも覚えがあるように、三ヶ月というものは夢のように過ぎた。妻君は一向子供を生みそうもなかった代りに、ますます美しくなっていった。やがて一年の歳月が流れた。その間、彼はあらゆる角度から、妻君という女を味わってしまった。そのあとに来たものは、かねて唱えられている窒息しそうな倦怠だった。彼の過去の精神酷使が、倦怠期を迎えるに至る期限をたいへん縮めたことは無論である。彼はひたすら、刺戟に乾いた。なにか、彼を昂奮させてくれるものはないか。彼は妻君が寝台の上に睡ってしまった後も、一人で安楽椅子によりながら、考えこんだ。白い天井を見上げると、黒い蠅が一匹、絵に書いたように止まっていた。それをボンヤリ眺ているうちに、彼は思いがけないことに気がついた。
「あの蠅というやつは、もう先にも、あすこに止まっていたではないか。それが今も尚、あすこに止まっている。あれは、先の蠅と同じ蠅かしら。違うかしら。もし同じ蠅だとしたら生きているのか死んでいるのか」
彼は不図そんなことを思った。しかしそれだけでは、一向彼を昂奮に導くには足りなかった。
「なにものか、自分を昂奮させてくれるものよ、出て来い!」
彼はなおも執拗に、心の中で叫んだ。
「そうだ。あれしかない。古い手だが、暫く見ない。あれをまたすこし見れば、なんとかすこしは刺戟があるだろう」
彼は昔の秘密の映画観賞会のことを思い出したのだった。
(三ヶ月ぶりだ。……)
そう思いながら、彼は或るブローカーから切符を買うと、秘密の映画観賞会のある会合へ、こっそりと忍びこんだ。会主にも表向き会わないで、昂奮だけをソッと一人で持ってかえりたいと思ったからである。
映画はスクリーンの上に、羞らいを捨てて、妖しく躍りだした。大勢の会員たちが自然に発する気味のわるい満悦の声が、ひどく耳ざわりだった。しかし間もなく、心臓をギュッと握られたときの駭きに譬えたいものが彼を待っていようなどとは、気がつかなかった。ああ、突然の駭き。それはどこからうつしたものか、彼と妻君との戯れが長尺物になって、スクリーンの上にうつし出されたではないか!
「呀ッ。――」
と彼は一言叫んだなりに、呆然としてしまった。
(何故だろう。何故だろう)
彼は憤るよりも前に、まず駭き、羞らい、懼れ、転がるように会場から脱け出でた。そして自分の部屋に帰って来て、安楽椅子の上に身を抛げだした。そしてやっとすこし気を取り直したのだった。
(何故だろう。あの怪映画は、自分たちの楽しい遊戯を上の方から見下ろすように撮ってあった。一体どこから撮ったものだろう。撮るといって、どこからも撮れるようなものはないのに……)
と、彼はいぶかしげに、頭の上を見上げた。そこには、依然として真新しい白壁の天井があるっきりだった。別にどこという窓も明いている風に見えなかった。ただ一つ、気になるといえば気になるのは、前から相も変らず、同じ場所にポツンと止まっている黒い大きい蠅が一匹であった。
「どうしてもあの蠅だ。なぜあの蠅だか知らないが、あれより外に怪しい材料が見当らないのだ!」
そう叫んだ彼は、セオリーを超越して、梯子を持ってきた。それから危い腰付でそれに上ると、天井へ手を伸ばした。蠅は何の苦もなくたちまち彼の指先に、捕えられた。しかしなんだか手触りがガサガサであって、生きている蠅のようでなかった。
「おや。――」
彼は掌を上に蠅を転がして、仔細に看た。ああ、なんということであろう。それは本当の蠅ではなかった。薄い黒紗で作った作り物の蠅だった。天井にへばりついていたために、下からは本当の蠅としか見えなかったのだ。だが誰が天井にへばりついている一匹の蠅を、真物か偽物かと疑うものがあろうか。
(誰が、なんの目的で、こんな偽蠅を天井に止まらせていったのだろう!)
彼は再び天井を仰いでみた。
「おや、まだ変なものがある!」
よく見ると、それは蠅の止まっていたと同じ場所に明いている小さな孔だった。どうして孔が明いているのだろう!
その瞬間、彼はハッと気がついた。
「畜生!」
そう叫ぶと彼は、押入の扉を荒々しく左右に開いた。そして天井裏へ潜りこんだ。そこで彼は不可解だった謎をとくことが出来た。あの孔の奥には、巧妙な映画の撮影機が隠されていた。目賀野千吉と新夫人との生活はあの孔からすっかり撮影され、彼が入った秘密映画会に映写されていたのであった。会主が家をくれたのも、その映画をうつさんがために外ならなかった。なんとなれば、およそ彼ほどの好き者は、会主の知っている範囲では見当らなかったのだ。会主は彼が本気で実演してくれれば、どんなにか会員を喜ばせる映画が出来るか、それを知っていたのだ。むろん彼女は、新宅の建築費の十倍に近い金を既にあの映画によって儲けていたのだった。
蠅は? 蠅は単に小さい孔を隠す楯にすぎなかった。薄い黒紗で出来ている蠅の身体はよく透けて見えるので、撮影に当ってレンズの能力を大して損うものではなかったのである。
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