第二話 極左の蠅
その頃、不思議な病気が流行った。
一日に五六十人の市民が、パタリパタリと死んだ。第十八世に一度姿を現わしたという「赤き死の仮面」が再び姿をかえて入りこんだのではないかと、都大路は上を下への大騒動だった。
「きょうはこれで……六十三人目かナ」
死屍室から出て来た伝染病科長は、廊下に据付けの桃色の昇汞水の入った手洗の中に両手を漬けながら独り言を云った。そこへ細菌科長が通りかかった。
「おい、どうだ。ワクチンは出来たか」
「おお」と細菌科長は苦笑いをしながら足を停めた。「駄目、駄目、ワクチンどころか、まだ培養できやせん」
「困ったな。今日は息を引取ったのが、これで六十……」
と云おうとしたところへ、肥っちょの看護婦がアタフタ駈けてきた。
「先生、すぐ第二十九号室へお願いします。脈が急に不整えになりまして……」
「よオし。すぐ行く」といって再び細菌科長の方を振りかえり、「今日はレコード破りだぞ。こんどが六十四人目だ」
「……」
二人は反対の方角に、急ぎ足で立ち去った。
入れかわりに、廊下をパタパタ草履を鳴らしながら、警視庁の大江山捜査課長と帆村探偵とが、肩を並べながら歩いて来た。
「……だから、こいつはどうしても犯罪だと思うのですよ、課長さん」
「そういう考えも、悪いとは云わない。しかし考えすぎとりゃせんかナ」
「それは先刻から何度も云っていますとおり、私の自信から来ているのです。なにしろ、病人の出た場所を順序だてて調べてごらんなさい。それが普通の伝染病か、そうでないかということが、すぐ解りますよ。普通の伝染病なら、あんな風に、一つ町内に出ると、あとはもう出ないということはありません」
「しかし伝染地区が拡がってゆくところは、伝染病の特性がよく出ていると思う」
「伝染病であることは勿論ですが、ただ普通じゃないというところが面白いのですよ」
二人の論争が、そこでハタと停った。彼の歩調も緩んだ。丁度二人が目的の部屋の前に来たからである。黒い漆をぬった札の表には、白墨で「病理室」と書いてあった。
ノックをして、二人は部屋の扉を押した。
「やあ――」
と暗い室内から声をかけたのは、花山医学士だった。彼は待ちかねたという面持で、二人を大きな卓子の方へ案内した。そこには硝子蓋のついた重ね箱が積んであった。
「このとおりです。みんな調べてみました」
硝子箱の中には、沢山の白い短冊型の紙がピンで刺してあった。そして大部分は独逸文字で書き埋められてあったが、一部の余白みたいなところには、アラビア・ゴムで小さい真黒な昆虫が附着していた。どの短冊もそうであった。
それは蠅以外の何物でもなかった。
「結果は如何でした」
と帆村探偵が、頬を染めながら訊いた。
「大体を申しますと、この蠅の多くは、家蠅ではなくて、刺蠅というやつです。人間を刺す力を備えているたった一種の蠅です。普通は牛小屋や馬小屋にいるのですが、こいつはそれとはすこし違うところを発見しました。つまり、この蠅は、自然に発生したものではなくて、飼育されたものから孵ったのだということが出来ます」
「すると、人の手によって孵されたものだというのですね」と帆村が訊きかえした。
「そういうところです。なぜそれが断言できるかというと、この蠅どもには、普通の蠅に見受けるような黴菌を持っていない。極めて黴菌の種類が少い。大抵なら十四五種は持っているべきを、たった一種しか持っていない。これは大いに不思議です。深窓に育った蠅だといってよろしい」
「深窓に育った蠅か? あッはッはッはッ」と捜査課長が謹厳な顔を崩して笑い出した。
「その一種の黴菌とは、一体どんなものですか」と帆村は笑わない。
「それが――それがどうも、珍らしい菌ばかりでしてナ」
「珍らしい黴菌ですって」
「そうです。似ているものといえば、まずマラリア菌ですかね。とにかく、まだ日本で発見されたことがない」
「マラリアに似ているといえば、おお、あいつだ」と帆村はサッと蒼ざめた。「いま大流行の奇病の病原菌もマラリアに似ているというじゃないですか。最初はマラリアだと思ったので、マラリアの手当をして今に癒ると予定をつけていたが、どうしてどうして癒るどころか、癒らにゃならぬ日には、その病人の息の根が止まっていた。では、あの蠅の持っている黴菌というのが、あの奇病を起させたのじゃないですか」
医学士は黙っていた。その答えは彼の領分ではなかったから。
大江山捜査課長も黙っていた。目の前に現われた事実が、帆村の予言したところと、あまりによく一致して来たので。
「さあ大江山さん」と帆村は捜査課長を促した。「これから、あの蠅を採取した地区を探してみるのです。もっと大胆な推定を下すならば、犯人は沢山の蠅を飼育し、その一匹一匹に病原菌を持たせて、市民に移していったのです。犯人は、あの奇病の流行した地区の幾何学的中心附近に必ず住んでいるに違いありません。さあ行きましょう。行って、その間接の殺人魔を捉えるのです」
二人は病理学研究室を飛び出すと、すぐに自動車を拾った。いわゆる奇病発生地区の幾何学的中心地が、帆村の手で苦もなく探し出された。
二人が、チンドン屋の寅太郎という、いつも手甲脚絆に大石良雄を気取って歩く男を捉えたのは、それから間もなくの出来ごとだった。その寅太郎の遂に自白したところによると、彼こそ正しくその犯人だった。極左の一人として残る医学士の彼が、蠅に黴菌を背負わして、この恐ろしい犯行を続けていたことが明かになった。ねじけた彼にとって、市民をやっつけることは、またとない悦びだったのだ。彼が丹精して飼育したその毒蠅は、チンドンと鳴らして歩くその太鼓の中にウジャウジャ発見された。彼が右手にもった桴で太鼓の皮をドーンと叩くと、胴の上に設けられてある小さい孔から、蠅が一匹ずつ、外へ飛び出す仕掛けになっていた。
彼の検挙によって、例の奇病が跡を絶ったのは云うまでもない。
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