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脳の中の麗人(のうのなかのれいじん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 15:53:52  点击:  切换到繁體中文


   矢部の愛人


 宮川の生活は、それ以来さらに退屈を加えたようであった。
 或る日、例の青年矢部が金をもらいにやってきたとき、彼はいつになく、手をとらんばかりにして矢部を室内にしょうれた。
「よく来たね。矢部君。きょうは君に八十円ばかり用達ようたしをしてもいいと思っていたところだ」
「ほんとですか」
 矢部は、すぐれない顔色に、微笑をうかべていった。
「ほんとだとも。そのかわり、僕のどんな質問に対しても、君は正直にこたえるんだよ。いいかね」
「ははあ、交換条件ですか。ようございます。八十円いただけますなら、当分栄養をとるのに事かきませんから。なんですか、質問というのは」
 それを聞くと、宮川はにやりと笑い、
「大いによろしい。いや、質問といっても、大したことじゃないんだ。君はちかごろ、美枝子みえこさんというひとに会うかね」
「美枝子にですか。いや、会いません。こんなあさましいやつかたで会えば、愛想あいそうをつかされるだけのことですからねえ」
「それはへんだね。そんなに永く美枝子さんに会わないでいられるとは、おかしいじゃないか。君の愛情が冷えたのではないか」
「そういわれると、すこしへんですがね。第一ちかごろ健康状態もよくないことも、原因しているのでしょう。質問というのはそんなことですか」
「いや、もう一つあるんだ。その美枝子さんというのは、丸顔のひとで、唇が小さく、そして両頬にくぼのふかいひとじゃないかね」
「ああ、そのとおりです。あなたは、どうしてそれを知っているんですか」
「いや、この前いつだか君から話をきいたことがあったじゃないか」
 と、宮川は嘘言うそをついた。美枝子のことをなぜ宮川が知っているか。それをいえば、矢部はきっとびっくりするに相違ない。
「どうだい、矢部君。これから二人して、美枝子さんがどうしているか、その様子をそっと見にいってみようじゃないか」
「そ、そんなことを……」
 と、矢部は尻ごみしたが、宮川はおっかけいろいろといい含めて、ついに矢部をひっぱり出すことに成功したのだった。
 矢部の案内で、宮川は丸の内の或るビルの前へいった。
 宮川は、新調の背広に赤いネクタイをむすんで、とびきり豪奢ごうしゃな恰好をしているのに対し、矢部は例によって、くたびれきった服に身体をつつんでいた。
 やがて時刻とみえて、ビルの横合よこあいの出口から、若い男や女が、ぞろぞろと出てきた。
 それを見ると、矢部はすっかり怯気おじけづいて、逃げてゆこうとした。宮川は、その手をしっかと握って、自分の傍にひきつけて放さなかった。
 宮川は、ビルの中から出てくるおびただしい女たちの顔を、いちいち首実験していたが、そのうちに、矢部の手をぐっと強く握って、
「おい、あの女だろう。空色のジャンバーを着て、赤い細いリボンをまいた黒い帽子をかぶっているあの女――ほら、いまハンドバッグを持ちかえた女だ」
「そうです、美枝子ですよ。宮川さん、放してください。僕は美枝子に会うのはいやだ」
「そんな気の弱いことでどうするんだ。ほら、美枝子さんは、こっちへ来る」
 そういっているとき、美枝子の視線が二人の男の方に向いた。そしてはっとした様子で、足早あしばやにちかよってくる。矢部は、宮川の手を力一杯ふりきって、逃げてしまった。
 後に宮川はひとりで立っていた。彼の眼は、いきいきと輝いていた。まるでゲーテが、久方ひさかたぶりで街で愛人ベアトリッチェに行きあったような恰好であった。
「ああ美枝子さん」
「まあ、どなたですの」といって女は宮川につかまれた手をふりほどきながら、「ああ、あの人をつかまえてください、矢部さんを」と身体をもだえた。
「ああ、矢部君のことですか。彼はあなたに会うのがはずかしいといって逃げたんです。だが、私にまかせて置きなさい。わるいようにはしない」
「まあ、あなたは一体どなたですの。矢部さんのお友だち? ――ちょっと、皆がみていますわ。手をはなしてくださらない」
 宮川は、いつの間にか、女を両腕の中に抱いていたのだ。彼女に注意されて、びっくりして腕をいた。なぜ彼は、そんなに昂奮こうふんしたのか、彼自身にもふしぎなくらいだった。
「ねえ、美枝子さん。私はぜひあなたに会いたいと思って、矢部君に案内してもらったんですよ。どうです、これからどこかで御飯でもたべながら、ゆっくりお話をしようじゃありませんか」
 宮川の唇から、すらすらとこんな言葉がでてきた。これもふしぎであった。
「まあ、はじめてお目にかかったのに、ずいぶん積極的ね。――でもいいわ、御馳走になりますわ。あなた、ほんとにすばらしい方ね」
 そういって美枝子は、宮川のすんなりとした身体を背広のうえから撫でた。

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