禁断の女
ひとりになった宮川は、あらためて戦慄の復習をやった。
なんというおそろしい男だろう。
一旦自分の脳を売っておきながら、その金で相場をやって、儲かればその金で、自分の脳を買い戻そうというのだった。
買い戻すといっても、彼の脳は、いまはちゃんと他人の脳室に入っているのである。いくら金を積んでも、いやだといったら、彼矢部は一体どうするつもりだろうか。
暴力か? あの権幕では、腕ずくで、持ってゆくかもしれない。暴力ならば、たとえ金がなくても実行ができるのだ。
(これはたいへんなことになった!)
と、宮川はぶるぶるとふるえた。
彼は、もう立ってもいてもいられなかった。そこで街をとおりかかるタクシーを呼びとめると、助けを乞うために、黒木博士の病院にとかけつけた。
「なあんだ、そのことですか。別に心配することはないですよ」
博士は、すこぶる落付いたものであった。
「ねえ、宮川さん。こういうことを考えたらいいではありませんか。たとえ矢部という男が百万の金を儂の前に積んだとしても、儂が手術を断れば、それでどうにも仕方がないではないですか」
「それは本当ですか、博士」と宮川はおもわず博士の手を握りしめたが、「だが、あの男は暴力でもって、私の頭蓋骨をひらいて脳をとりかえすかもしれません」
「いくら暴力をふるおうと、脳の手術の出来るのは、自慢でいうじゃないが、この儂一人なんだから、儂がいやだといえば、矢部がいくら騒いでも何にもならんではないですか」
「そうですね。それでは、本当に安心していて、いいわけですね」
宮川は、はじめて気が落付くのを感じた。
その後、矢部はちょくちょく宮川のところへやって来た。そしてそのたびに、五十円だとか六十円だとかを、せびっていった。金さえもらえば、矢部は案外おだやかな人物であった。宮川は、ようやく本当に矢部に出会以来の落付をとりもどすことが出来たのだった。
宮川が、矢部事件による緊張から解放されると、こんどは生活が急に退屈になってきた。彼は女の友達が欲しくなった。
彼は思い出して、机のひきだしの奥から、例の青い革表紙の手帖をとりだして、にやりにやりと笑いながら、いくども読みかえした。大したことも書いてないながら、その簡単な日記文に現れるYという女のことが、妙に懐しがられてくるのだった。
このYという女は、その後どうしたろう。この手帖の主人公と別れてしまったようだが、その後どうしているのであろうか。とにかく、このYという女は、手帖の主人公をたいへん恋い慕っているのだ。その主人公の筆蹟が、彼の筆蹟とおなじであるのは、一体どうしたわけであるか。
この疑問をとくため、彼は或る日博士をたずねて、この問題を出した。
「えっ、そんなものがあったかね」
「ありますとも。ここに持ってきました」
彼は青い手帖をとりだした。
博士は、深刻な顔をして、手帖の頁をくっていたが、俄に笑いだした。
「ああ、これは儂のところの助手で谷口という男の手帖ですよ」
「でも、その手帖は、私の机の中にあったんです」
「そ、それですよ。じつは、谷口を、君のアパートの引越のとき、手伝いにつれていったんです。そのときポケットからとりおとしたのを、他の誰かが拾って、宮川さんのものだと思って、机の中に入れたのでしょう。いや、それにちがいありません」
「それはおかしいですね。筆蹟が、私のにそっくりなんです」
「こういう字体は、よくあるですよ。なんなら谷口をよんでもいいが、いま生憎郷里へかえっているのでね」
「私は、そのYという女に会いたくてしかたがないのです」
「えっ、それは駄目だ」と博士は目をむいていった。
「駄目です、駄目です。他人の女にかかりあってはいけない」
「本当に、そのYというのは、谷口さんの愛人なんですかね」
「そうです。それにちがいありません」
博士はひどくせきこんで、なるべく早く宮川を納得させようとしている。
このとき宮川はいった。
「博士。私はちかごろになって気がついたんですが、いろいろな記憶を失っているんです。どうも気持がわるくてなりません。博士、どうぞ教えてください。あの黄風荘というアパートにいた前、私はどこに住んでいたのでしょうか。どうか、その前住居を教えてください」
博士は、首を大きく左右にふって、
「ねえ宮川さん。あんたはつまらんことを気にしていけないですよ。脳の手術はもうすんだが、まだ養生期だということを忘れてはいけないです。もうすこし落付くと、きっと記憶は元のように戻ってきます。それまでは、辛かろうが、一つしんぼうするのですな」
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