謎の手帖
彼は、黒木博士の世話で、目黒区にある黄風荘というアパートに入った。
彼は、親には早く死にわかれ、兄弟もなければ妻子もなく、天涯孤独の身の上だった。財産だけは、親譲りで相当のものが残されていた。毎月の末になると、某信託会社から使者が来て、規定どおり五百円の金をおいてゆくのだった。
入院費や手術費とは別に、多額の金が、その信託会社から支払われたそうである。だから黒木博士も病院も、彼の面倒を十二分にみることができたのである。
黄風荘の彼の借りている部屋は、三間もある広々とした上等のところだった。
見覚えのある彼の持ち物や調度が、室内にきちんと並んでいた。
「ふーん、悪くない気持だて」
彼は悦に入って、頤のさきを指でひねりまわしながら、室内を見まわした。セザンヌが描いた南フランス風景の額がかかっている。南洋でとれためずらしい貝殻の置き物がある。本箱には、ぎっしりと小説本が並んでおり、机のうえには杉材でこしらえた大きな硯箱がある。すべて見覚えのある品物だった。
彼は、懐しげに、一つ一つの品物をとりあげては撫でてまわった。
そのうちに、彼の手は、机のひきだしにのびた。ひきだしを明けて、中の品物をかきまわしているうちに、彼は青い革で表を貼ったりっぱな手帖に注意をひかれた。
「おや、こんな手帖が入っている。見覚えのない品物だが……」
なぜ自分の所有ではない青い手帖が、ひきだしの中に入っているのか? 誰かが引越のとき間違えて、このひきだしの中へ入れたのであろうと思いながら、彼はその手帖をひらいてみた。とたんに、彼は思わず大きなおどろきの声をあげた。
なぜといって、その手帖にこまかく書きこんである文字は、たしかに彼の筆蹟だったのであるから。
「ふーむ、これはたしかに自分の筆蹟にちがいない。だが、この手帖は、さらに見覚えのない品物だ。一体どうしたというんだろう」
彼は、すっかり気持がわるくなった。
たしかに自分の筆蹟にちがいないのに、その手帖には見覚えがない。こんなふしぎなことがあろうか。
その疑問を解くために、彼はつとめて気を鎮めながら、手帖に書かれた文句をよみはじめた。
こんなことが書いてあった。
「五月××日。天気がいいので、堀切の菖蒲園へいってみる。かえりに、浅草へ出て、映画見物。家へかえったのは午後十一時半だった。部屋の鍵をあけたとたんに、背後から声をかけられた。ぷーんと髪の香がした。Yだ。Yが立っている。しかたがないので、部屋へ入れる。かえれといったがかえらない。無理やりに泊ってゆく。困ったやつだ」
彼は、これを読んで、溜息をついた。そして首をふった。
「へえ、どうしたというんだろう。一向に覚えがないが……」
この日記によると、Yという女が、夜おそくまで、部屋の外に立って、主人公のかえりを待っていたというのだ。女は主人公が部屋の錠をあけたときに、声をかけた。そして無理やりに泊っていったという。これでみると、Yという女は、気の毒にも主人公から冷淡にあつかわれている。Yという女の姿が見えるようで、たいへんいじらしくなった。
それでいて、この日記の主人公なる者が、一体誰なんだか分らないのだった。
その主人公こそは、彼――宮川宇多郎なのであろうか。
「いや、断じて、自分ではない。自分には、そんな記憶がない」
記憶がないから、自分ではないと思ったものの、この手帖は自分の机のひきだしの中に入っていたことといい、その日記の筆蹟が、たしかに自分のものであることといい、じつに気持のわるいことに覚えた。一体、どうしたというのだろう。
彼は、さらにその手帖の頁をくって、先を読んだ。
「五月××日。Y、夕方暗くなって、かえってゆく。もうこれでお別れだという。もう諦めたともいう。どうかあやしいものだ。いつもその手をつかう。かえったあとで、座蒲団を片づけると、下から私の写真がでてきた。その写真は、ずたずたにひき裂いてあった。さっき私の写真を一枚くれと熱心に頼んだものだから、つい与えたのだが、Yのやつ、持ってゆかないで、こんなひどいことをしやがった」
Yという女が、奮然と主人公の写真をやぶくところが、目の前に見えるようだ。だがこのくだりも、彼には全然記憶のないことであった。彼は、なんだか気持がへんになってきた。じっと部屋にいるのが、いやになった。持ち物をとりあげて懐しがる気も、もうどこかへいってしまった。彼は気をかえるために、着ながしのまま、ぶらりと外へ出た。
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