海野十三全集 第7巻 地球要塞 |
株式会社三一書房 |
1990(平成2)年4月30日発行 |
奇異の患者
「ねえ、博士。宮川さんは、いよいよ明日、退院させるのでございますか」
「そうだ、明日退院だ。それがどうかしたというのかね、婦長」
「あんな状態で、退院させてもいいものでございましょうかしら」
「どうも仕方がないさ。いつまで病院にいても、おなじことだよ。とにかく傷も癒ったし、元気もついたし、それにあのとおり退院したがって暴れたりするくらいだから、退院させてやった方がいいと思う」
「そうでしょうか。わたくしは気がかりでなりませんのよ」
「婦長。君は儂のやった大脳移植手術を信用しないというのかね」
「いえ、そんなことはございませんけれど……」
「ございませんけれど? ございませんが、どうしたというのかね」
「いいえ、どうもいたしませんが、ただなんとなく、宮川さんを病院の外に出すことが心配なんですの。なにかこう、予想もしなかったような恐ろしい事が起りそうで」
「じゃやっぱり君は、儂の手術を信用しとらんのじゃないか。まあそれはそれとしておいて、とにかく儂は宮川氏を退院させたからといって、後は知らないというのじゃない。一週間に一度は、宮川氏を診察することになっているのだ」
「まあ、そうでございましたか。博士が今後も診察をおつづけになるのなら、わたくしの心配もたいへん減ります。ですけれど、いまお話の今後の診察の件については、わたくし、まだちっとも伺っておりませんでした」
「それはそのはずだ。診察をするといっても、患者を診察室によびいれて診察するのではない。宮川氏は、診察されるのは大きらいなんだ。逆らえば、せっかく手術した大脳に、よくない影響を与えるだろう。逆らうことが、あの手術の予後を一等わるくするのだ。だから儂は、すくなくとも毎週一度は、宮川氏の様子を遠方から、それとなく観察するつもりだ。それが儂のいまいった診察なんだ。このことは当人宮川氏にも、また病院内の誰彼にも話してない秘密なんだから、そのつもりでいるように」
黒木博士と看護婦長との会話にあらわれた問題の患者宮川宇多郎氏は、わが身の上にこんな気がかりな話があるとはしるよしもなく、病室内を動物園の狼のように歩きまわっている。
彼は今朝、病院内の理髪屋で、のびきった髪を短く刈り、蓬々の髭をきれいに剃りおとし、すっかり若がえった。だが、鏡に顔をうつしていると、久しく陽に当らなかったせいか、妙に蒼ぶくれているのが気になった。それにひきかえ、後頭部の手術の痕は、ほとんど見えない。これは手術に電気メスを使うようになって、厚い皮膚でも、逞しい肉塊でも、それからまた硬い骨でも、まるでナイフで紙を裂くように簡単に切開できるせいだった。よく気をつけてみると、毛髪の下の皮膚が、うすく襞状になっているのが見えないこともないが、それが見えたとて、誰もそれを傷痕と思う者がないであろう。じつにおどろくべき手術の進歩だ。
そのように手術の痕は至極単純であるのにもかかわらず、彼はこの病院に一年ちかく入っていたのだ。
「おお、明日からは、自由の身になれる。うれしいなあ」
と、彼は子供のようにぴょんぴょん室内をとびあるいていた。そうかと思うと、急にむずかしい顔をして、ぶつぶつつぶやきながら動物園の狼になりきってしまう。
「想い出しても、おそろしい一年だった。いや、一年の月日がたったことは本当だが、自分は一年というものをすっかり覚えていないのだ。正気づいたときは、すでに半年あまりの月日がたっていたのだからなあ。その間自分は、全く無我夢中で、生死の間を彷徨していたのだと後になって聞かされた。それからこっちも、ときどき変な気持に襲われた。なんだか、五体がばらばらに裂けてしまうような実に不快な気持に陥ったのだ。なにしろ、物を考える機関である大脳の手術をやったのだというのだから、恢復までに、どうしてもそうした不安定な過渡期をとるのだと黒木博士が説明してくれたが、そんなものかもしれない」
今も昂奮と憂鬱とが、かわるがわる彼を襲ってくるのだった。彼は、手術のことについて、博士に聞きただしたいたくさんの事柄をもっていた。だが博士は、元来無口な人で、患者が自分の病気について深入りした質問を発するのが大嫌いのように見えた。
「なんでもいい。とにかくこのとおり元気になって、退院できるのだから」と、彼は諦め顔にいって、「さあ、いよいよ明日から、自分の好きなところへ行って、好きなことができるんだぞ。うれしいなあ。さて、明日病院の門を出たら、第一番になにをしようかなあ」
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