4
南国の孤島において、醤委員長は、あいかわらずの裸身で、事務を執っていた。例の太い附け髭はもう見えない。
そこへ燻精が戻ってきた。
「おお帰ってきたか。して、金博士から、すばらしいネタを引き出したか」
「はい、持久性の神経瓦斯……」
「叱ッ。これ、声が高い!」
醤は、手の舞い足の踏むところを知らずといった喜び方であった。彼は、燻精の手をとらんばかりにして、彼を砂地の上に立つ古城へ連れていった。
「さあ、ここが毒瓦斯発明院だ。看板も、余が直々筆をふるって書いておいた」
なるほど、あちこち崩れている城門に、毒瓦斯発明院の立て看板が懸っていた。
「発明場は、すっかり用意をしておいたつもりじゃ。余自ら案内をしよう」
衛兵の敬礼をうけつつ、御両人は城内に入った。
「敵空軍の目をのがれるため、外観は出来るだけ荒れ果てたままにしておいた。しかし、あの煙突だけは、仕方なく建てた」
太い煙突が古城の上にぬっと首をつきだしている。
「あれは何ですか、あの煙突は」
「試作の毒瓦斯が空高く飛び去るためだ」
「毒瓦斯は元来空気より重きをよしとするのでありまするぞ。煙突から飛び立つような軽い毒瓦斯てぇのはありません」
「いや、その重い毒瓦斯の逃げ路も作っておいた。向うに見える太い鉄管は、海面すれすれまで下りている。重い毒瓦斯は、あの方へ排気するんだ。風下はベンガル湾だ。海亀とインド鰐とが、ちかごろ身体の調子がへんだわいといいだすかもしれんが……」
醤が毒瓦斯発明院に対して肩の入れ方は、非常なものだった。燻精は、彼の信頼に十分報いることが出来ようと自信たっぷりだった。
発明院長に燻精が就任して、百三十五名の発明官が、その下に仕事を始めることになった。まず設備を作るのに、三ヶ月かかった。それから燻精の講義が三ヶ月つづいた。
燻精の講義は全くすばらしかった。ときどき傍聴に来る醤買石は、その都度、頤の先をつねって恐悦した。
「ふふふ、洋酒百四十函が、こんなにすばらしい効目があろうとは、すこし気の毒だったなあ」
燻精の指導ぶりは、目のさめるようであった。
原動機は廻転し、ベルトはふるえ、軸は油をなめまわし、攪拌機はかきまわし、加熱炉は赤く焔え、湯気は白く噴き出し、えらい騒ぎが毎日のように続いた。
そうなると、醤は落ちついていられなくなって、毎日のようにここに足を運んだ。
「おい燻精。まだ例の神経瓦斯は出来ないか。出来たら、余に早く見せてくれ」
「醤委員長よ。今度こそすばらしいものが出来ますぞ。瓦斯密度が一・六〇〇〇四です。理想的な密度です。おどろいたでしょう」
「一・六〇〇〇四? よくわからないねえ」
「精密なること、金博士の製品を凌駕しています。かかる精密なる毒瓦斯は……」
「精密よりも、効目の方が大切だぞ」
「いや、この精密度なくして、あの忍耐力のつよい敵兵を斃すことは出来ん。あ、また霊感が湧いた。おおそうか、この毒瓦斯に芳香をつけるのだ。鰻のかば焼のような芳香をつけるのだ。無臭瓦斯よりもこの方がいい。敵は鼻をくんくんならして、この瓦斯を余計に吸い込むだろう。ああなんというすばらしい着想点だろう! 鰻のかば焼の外に焼き鳥の匂い、天ぷらの匂い、それからライスカレーの匂い等々、およそ敵兵のすきな香を、この毒瓦斯につけてやろう。なんと醤委員長、すばらしい発明ではないですか」
「なるほど、積極的吸入性のある毒瓦斯じゃな」
醤は、にやりと笑って、燻精院長の手をしっかと握った。
この新製毒瓦斯が、予定の数量だけ出来上ったのは、その年の夏だった。
醤は燻を帯同し、その毒瓦斯をもって、突如戦線に現れた。
そして朝から時間割を決め、午前七時には鰻の匂いのする神経瓦斯を、午前九時には水蜜桃の匂いのする神経瓦斯を、午前十一時には、ライスカレーの匂いのする神経瓦斯をと、用意周到な順序で次々に瓦斯弾を、敵軍戦線へ向けて撃ちだしたのであった。
その結果は、どうであったか。
醤買石は、生命からがら、怒濤のような敵の重囲を切りぬけて、ビルマ・ルートへ逃げこむという騒ぎを演じた。
燻精の作った新製の毒瓦斯は、悉く無力であった。いや、うまそうな匂いをもって、反って敵兵をふるい立たしめるという反効果があったくらいであった。燻精は、その戦場において捕虜となり、やがて病院に入れられた。
この顛末を聞いて、からからと笑ったのは余人ならぬ金博士であった。
彼は唐箋をのべて、醤買石宛に手紙を書いた。
“謹呈。どうだ、持久性神経瓦斯の効目は。燻精は、わしのところから出ていくとき、特設の通路内で無味無臭無色無反応の持久性神経瓦斯を吸って戻ったのだ。だから、そちらの陣営に帰りついたころから彼はそろそろ、脳細胞の或る個所が変になりはじめたはずだ。彼の発明製造した毒瓦斯なんか、どうして信用がおけようぞ。おい醤よ、これに懲りて、今後を慎めよ”
なるほど、そうだったか。肝腎の毒瓦斯発明院長の燻精が、金博士のところを辞去するとき、瓦斯通路を歩かされ、すっかり瓦斯患者とされてしまったのを、当人はもちろん醤も気がつかなかったのだ。
この手紙を受け取った醤は、たいへん口惜しがって、豆のような涙をぽろぽろ机の上におとしながら、博士に向って抗議文を書いた。その要旨は、
“金博士よ。バーター・システムの取引を承知しておきながら、かの燻精を変質させて送りかえすとは、片手落ちも甚だしい。われに確乎たる決意あり。しっかり説明文をよこされよ”
すると、金博士が折りかえし返事して曰く、
“醤よ。身から出た錆という諺を知らぬか。燻精を変質させて送りかえしたのは、お前がわしに、表のレッテルとはちがう変質インチキ酒を贈ってよこしたからだ。つまり変質に対する変質の応酬である。わしは、バーター・システムの約を忠実に果したつもりである。質的のバーター・システムをね。あのインチキ・ウィスキーは悉く黄浦江へ流してしまったよ。以後お前とは絶交じゃ”
と、博士は手紙の端に黒々と句読点をうったのであった。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] [3] [4] 尾页