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……筆勢あまって嚇し文句を連ねてはみたが、ここで金博士が、間髪を容れず、顔にあたった大蜘蛛を払いのけ、きゃあとかすうとかいってくれれば、作者も張合があるのであるが、当の博士は、別に愕きもなにもしない。甚だ張合いのない次第であった。
愕くどころか、博士は、矢庭に手をのばして、その大蜘蛛の胴中をつかんだものである。
すると、ガラガラと、ラジオの雑音のようなものが聞えた。
金博士は、つかまえた大蜘蛛を口のところへ持って行き、声を一段と低くして、
「おい醤買石、今すぐわしは、お前の居る屋上へ上っていくから、すこし待って居てくれ。しかしお前も、こんどというこんどは余程懲りたと見え、屋上から、蜘蛛に見まがうような擬装のマイクと高声器をつり下げて、わしに話しかけるなんて、中々機械化してきたじゃないか、はははは」
「いや、ちとばかりソノ……」
「しかし、この無細工な蜘蛛を屋上からこの人通りの多い通りに吊り下ろすなんて、やっぱりお前は、垢ぬけのしないこと夥しい。この次からは、もっといい智慧を働かすがいい」
褒められたと思った醤は、とたんにぺちゃんこにやっつけられた。
さて、ここは屋上である。例の洋酒店のあるビルの屋上であった。
のっそりと、非常梯子からあがってきたのが金博士であった。非常梯子の上り口に立って、うやうやしく挙手の礼をして立っている二人の白いターバンに黒眼鏡に太い髭の印度人巡警! 脊の高い瘠せた方が醤買石で、脊が低く、ずんぐり肥っている方が、醤が特選して連れてきた前途有望な瓦斯師長燻精であった。二人は、まるで舷門から上って来た司令官を迎えるように、極めて厳たる礼をもって金博士に敬意を表した。
博士は、几帳面に礼をかえすどころか、いきなり醤の瘠せた肩をどんと叩いて、
「おい、ウィスキーにペパミントの約束、あれはまちがいないじゃろうな。一本が五百元もするぜ。お前そんなに金を持っとるか」
と、無遠慮な問いを発した。
「や、それはもう大丈夫です。御承知のとおり、昔からイギリスと深い関係がありますものですから、武力こそ瘠せ細っていますが、黄金であろうとダイヤモンドであろうとウィスキーであろうと、そんなものは、うんとストックがあります」
「ほ、ん、と、ですか」
「もちろん本当です。国破れて洋酒ありです。尤も早いところストックにして置いたのですがね……しかし博士、毒瓦斯の方のことですが……」
「うん、毒瓦斯なんて、他愛もないものじゃ。ウィスキーになると、そうはいかん」
「いや博士、ウィスキーなんて浴びるほどあります。毒瓦斯の研究となると、そうはいかん」
「よろしい、バーター・システムで取引しよう。一体どんな毒瓦斯が入用か。フォスゲン、ピクリンサン、ジフェニルクロルアルシン、イペリット、カーボンモノキサイド、どれが欲しいかね」
下は人工灯の海、上は星月夜、そして屋上は真暗だった。その真暗な屋上に立って、金博士は大きく両手をひろげる。
「そんなものは、どれも欲しくありません」
醤は人一倍大きな頭を左右に振る。
「ほう、これじゃ気に入らんのか」
「博士。余――いや私の欲しいものは、そんな従来から知れている毒瓦斯ではありません。そんな毒瓦斯は、吸着剤の活性炭と中和剤の曹達石灰とを通せば遮られるし、ゴム衣ゴム手袋ゴム靴で結構避けられます。そういう防毒手段のわかっている毒瓦斯は、今じゃどこへ持っていって撒いても、効目がありません。もっとよく効く、目新らしいものがいいですなあ」
南京虫退治の新剤を探しているようなことをいう。
博士は、別段困った顔もせずに肯き、
「わしのところには、どんなものでもあるよ。今お前のいった防毒面をどんどん通して、今までの防毒面じゃ役に立たない毒瓦斯があるがこれはどうじゃ」
「それはいいですなあ。しかしそれは○○○、○○○○○じゃないのですか」
「ほう、それを知っているか。この種のものはドイツと○○だけが持っているので、従来の防毒面ではまるで防ぐ力がない」
「しかし博士、それも駄目ですよ。なぜといって、他の国には無いかもしれないが、ドイツなどには、その超毒瓦斯を防ぐ仕掛をちゃんと持っている。そういう防ぐ手段のあるものは全然駄目です。私は、全然防ぐ用意のない毒瓦斯が欲しいのです。博士、ぜひお力をお貸しねがいたい」
醤は、熱心を面にあらわしていった。
「ほうほう、だいぶん熱心じゃが、それもあるにはある。しかしこれを教えるには、大分高価につくが、いいかね。まずウィスキーならダース入の函単位でないと取引が出来ないが……」
「ダース函でも何でも提供しますとも」
「ほい、お前にも似合わん、えらく気が大きいじゃないかい」
「博士、わしの報復成るかどうかという瀬戸際なんです。あに真剣にならざるを得んやです」
「そうか。なら、よろしい。ちょっとここに出してみようか」
「あ、待ってください。それはあぶない。ここで出されたんでは、私が死んでしまうじゃないですか。そればかりは遠慮します」
「なにをうろたえとるか。出すといっても、本当の毒瓦斯を出すとはいっておらん。こういう毒瓦斯があるという話をしようかという意味でいったのじゃ」
「ああ、そうでしたか。やれやれ安心しました。とにかく博士と来たら、興が乗れば、敵と味方との区別なんかもう滅茶苦茶で、科学の力を残酷に発揮せられますからなあ。これまでに私は、博士のそのやり方で、ずいぶんにがい体験を経て来たもんです」
「醤よ、科学は残酷なものじゃよ。わしはそう思っとる。だから人間は出来るだけ早く科学を征服しなければならないのじゃ。ドイツに於ては――」
「博士、ドイツの話はもう沢山です。それで私のお願いは、ここに立っている腹心の部下で、新たに毒瓦斯発明官に任じました燻精を一週間だけお預けいたしますから、その期間にこの男に対し、新毒瓦斯研究の方針とか企画とか設備とか経費とか、ありとあらゆることを吹きこんでいただきたい。私は、この男の帰還を待って、早速全世界覆滅の毒瓦斯を発明する鬼と化して、全力をあげ全財産を抛げうって発明官と一緒にやるつもりです」
醤は、満天の星を吸いこもうとするのではないかと思われるような大口をあいて、芝居気たっぷりに、途方もない重大決意を喚き散らしたのであった。
「ええ加減にしろ。大言よりは、ウィスキーじゃ。ペパミントじゃ」
金博士が、醤に負けないような大きな声を出し、怒った蟷螂のような恰好で、拳固で天をつきあげた。
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