海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊 |
三一書房 |
1991(平成3)年5月31日 |
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷 |
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷 |
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蒸し暑い或る夜のこと、発明王金博士は、袖のながい白服に、大きなヘルメットをかぶって、飾窓をのぞきこんでいた。
南京路の雑沓は、今が真盛りであった。
金博士の視線は、さっきから、飾窓の小棚にのせられてある洋酒の群像に釘づけになっている。いや、正しくいえば、その洋酒の壜にぶら下げられた値段札の数字に釘づけになっていたという方がいいだろう。
「あはは……」
博士がとつぜん声をあげた。これは決して博士が笑ったのではない。実は大歎息をしたのである、あははと……。およそ歎息というものは、感極まってその窮極に達すればあたかも笑声のような音を発するものである。嘘だと思ったら、読者は御自分で験してみられるがよろしかろう。
「あはは、あの味のわるいウィスキーが一壜五百元とは、べら棒な値段じゃ。その昔、重慶相場というのがあったがその上をいく暴価じゃ。同じ五百元でも、こっちのペパミントがいい。こいつを、氷の中に叩きこんで、きゅっきゅっとやると、この殺人的暑さは嵐にあった毒瓦斯の如く逃げてしまうことじゃろうが、それにしても五百元とは高い、今のわしの財政ではなあ」
金博士は、このごろアルコールに不自由をしている上に、金にも困っていると見え、さてこそ極限歎息の次第と相成ったらしい。
丁度そのときであった。金博士の頭を目がけて、一匹の近海蟹のようによく肥えた大蜘蛛が、長い糸をひいてするすると下りてきた。そして、もうすこしで、金博士のヘルメットにぶつかりそうになって、ようよう下るのを停めた。おそるべき大蜘蛛だ。こんなやつに頸のあたりを喰いつかれ、生血をちゅっちゅっ吸われたら、いかな頑固爺の金博士であろうと、ひとたまりもなかろうと思われた。
「もしもし金博士、おなつかしゅうございますなあ」
とつぜん、その大蜘蛛が金博士に言葉をかけたのだった。冗談じゃない……。
「うん」
博士の鼓膜に、その声が入ったのか、博士は生返事をした。生返事をしただけで、彼はなおも飾窓の青いペパミントの値段札に全身の注意力を集めている。
「博士は、いつに変らず御壮健で、おめでとうございます。この前、金博士にお別れをしてから、もうかれこれ五六年になりますなあ」
その化け物のような大蜘蛛は、しきりに金博士をなつかしむのだった。これを横から眺めていると、博士も亦、蜘蛛の化け物じゃないかという疑いが湧いてくる。そういえば「新青年」誌上にのっている金博士の顔は、蜘蛛の精じみた風貌をもっているよ。
閑話休題、金博士は、ようやく注意力の二割がたを、蜘蛛の声に向けて割いた。
「おう、そういうお前は醤買石じゃな。お前はまだ生きていたんか」
醤買石といえば、あの有名なる抗日遷都将軍の名である。すると醤買石も、ついに人間の皮を被っては遷都する先がなくなって、遂に大蜘蛛に化けたのであるか。それとも、彼はオーストラリヤで戦車にのし烏賊られて絶命し、魂魄なおもこの地球に停って大蜘蛛と化したのであるか。
「あれ、金博士。醤はそう簡単に死にませんよ。しかしとにかく、博士にお目にかかりたいばかりに、部下もつれずに単身、きびしい監視網をくぐって、ようやくここまで参りました。そしてとうとう博士に行き会いまして、こんな嬉しいことはございません。ふふふふ」
ふふふふは、醤の笑い声ではない。感激の泣き声である。泣き声がその極致に達すれば笑い声に似たる――ああもうその解説はよろしいか。なるほど前にも鳥渡書きましたなあ。
「泣くなよ、醤。お前は小便小僧時代から泣きべそじゃったな。東に楠の泣き男あり、西に醤買石ありで、ともに泣きの一手で名をあげたものじゃ。で、わしに会いに来たというのでは、また何か大それた無心じゃろう」
金博士は、やっぱり前跼みになって、飾窓の中をのぞきこみながら口を動かした。博士は、まさか頭の上に忍びよったる大蜘蛛と話をしているのだとは気がついていない様子に見えた。
「やあ、そのとおり、それが図星でございますよ。余――いや小生はこのたびぜひとも博士にお願いをして、毒瓦斯をマスターいたしたいと決心しまして、そのことで遥々南海の孤島からやって参りました」
「毒瓦斯の研究か。そんなむずかしい金のかかるものは、お前の柄じゃないぞ」
「いえ博士、そう仰有らないで、是非にお願いいたします。今こそ孤島に小さくなっていますが、昔日の太陽を呼び戻すには、猛毒瓦斯を発明し、その力によってやるのでないと全く見込みなしとの結論に達し、博士にお縋りに参りました。ぜひともこの醤を哀れと思召し……その代り、お礼の方はうんときばり、博士のお好みのものなれば、ウィスキーであろうとペパミントであろうと……」
「そうか。それは本当じゃな。男の言葉に二言はないな――というて相手がお前じゃ仕様がないが……」
といいながら、博士は飾窓から顔を放して腰を真直にのばしたものだから、さっきから垂れ下っていた大蜘蛛が一揺れ揺れると、博士の顔へぴしゃと当った。さあたいへん、危いかな博士の一命! 生かまたは死か?
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