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電気看板の神経(でんきかんばんのしんけい)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 12:48:14  点击:  切换到繁體中文

底本: 海野十三全集 第1巻 遺言状放送
出版社: 三一書房
初版発行日: 1990(平成2)年10月15日
入力に使用: 1990(平成2)年10月15日第1版第1刷
校正に使用: 1990(平成2)年10月15日第1版第1刷

 

冒頭ぼうとうに一応ことわっておくがね、この話では、登場人物が次から次へとジャンジャン死ぬることになっている――というよりも「殺戮さつりくされる」ことになっているといった方がいいかも知れない。そういう点において「グリーン惨劇さんげき」以来、血に乾いている探偵小説の読者には、きっと受けることだろうと思うんだ。しかし小説ならばかく、いやしくも実話であるこの物語に於て――たとえそれが秘話ひわの一つとして大事にしまって置かれてあるものにせよ――あまりにも、次から次へと死ぬ奴がでてくるもんで、馬鹿馬鹿しいモダンチャンバラ劇をみているような気がしないのでもないのだ。だが、そんな気で、この秘話を聞き、今日の世相を甘く見ていると、飛んでもない間違まちがいが起ろうというものだ。たとえば今日こんにちアメリカにける自動車事故による惨死者ざんししゃの数字をみるがいい。一年に三万人の生霊せいれいが、この便利な機械文明にわれてしまっている。日本に於ても浜尾子爵閣下はまおししゃくかっかが「自動車轢殺れきさつ取締とりしまりをもっと峻厳しゅんげんにせよ」と叫んで居られる。機械文明だけではない。あらゆる科学文明は人類に生活の「便宜コンビニエンス」を与えると同時に、殺人の「便宜」までを景品としてえることを忘れはしなかった。これまでの日本人には大変科学知識が欠けていたし、今でも科学知識の摂取せっしゅを非常に苦しがっている。だが、若い日本人には、科学知識の豊富なものが随分と沢山できてきた。少年少女の理科知識に驚かされることが、しばしばある。若い男子や女子で、工場で科学器械のお守りをしながら飯を食っているというのがたいへん多くなってきたようだ。若い人々にとって科学知識は武器である。彼等はなにか事があったときに、その科学知識を善用ぜんようもするであろうが、同時にまた悪用あくよう魅力みりょくにも打ち勝つことができないであろう。実際彼等のあるものから見れば殺人なんて、それこそ赤ン坊の手をねじるより楽なことなのだ。しかし彼等のそうした科学的殺人事件が、あまり世間に報導ほうどうせられないわけは、一つには彼等は殺人の容易よういなることは知っていても、殺人の興味がないし、その味をも知らないことに原因する。また二つにはその方法処置が完全で、犯行の全然判らない点もあるし、たとえ判ったにしても犯人たるの証拠が全然残されていないことにも原因するのだ。……
 いや、莫迦ばかに「論文エッセイ」を述べたてちまったが、実は、この論文の要旨ようしは、僕の頭の中に浮びあがる以前に、これから話そうという「電気恐怖病患者でんききょうふびょうかんじゃ」の岡安巳太郎おかやすみたろう君が述べたてたものなんで、その聴手ききてだった僕は、爾来じらい大いに共鳴きょうめいし、この論説の普及ふきゅうにつとめているわけなんだが、全くその岡安巳太郎という男は、科学的殺人が便宜べんぎになった現代に相応ふさわしい一つの存在だった。岡安はいまも言うとおり、今日人殺しなんて容易に出来る、ところが自分は小学校時代から算術と理科がきらいで、中学生時代には代数だいすう平面幾何へいめんきか立体りったい幾何、三角法と物理化学に過度の神経消耗しんけいしょうもうをやり、遂にK大学の理財科りざいかを今から三年前に出た「お坊ちゃん」なのだ。科学知識とはまるで正反対の側に立っているという人間で、科学をのろうこととてもはなはだしく、科学的殺人の便宜を指摘する夫子ふうし自身じしんはいつか屹度きっとこの「便宜コンビニエンス」の材料に使われて、自分はきっと天寿てんじゅつ迄もなく殺害さつがいせられてしまうに決っていると確信しているのだから、実に困ったものだ。この先生は、機械文明にも一応恐怖心を表明しているが、更に始末しまつのわるいのは電気文明に対する絶対的の恐怖心である。機械文明の方は自動車にしても、汽車にしても、トロッコにしても(彼は一度郊外こうがいで、赤土あかつちを一杯積んだトロッコにかれそこなったことがある)、音響なり、速度のある車体の運動なりが、一応耳なり眼なりの感覚に危険を訴えて呉れるから、比較的安全だ。それに反して、電気文明の方は、電気の流れていることが、眼にも見えなければ、耳にも聞えやしない。そして誤って触れると、ビリビリッと来て、それでおしまいである。電気の来ていることが判った次の瞬間には、感電死で、自分の心臓はもうハタと停っている。一度停った心臓は時計とちがって二度と動いてくれない。電気を意識したときには、既におのれ生命せいめいは絶たれている。これほど、人情のない惨酷な存在が外にあろうか。しかも警視庁は、電気の来ていることについて何等の表示手段をとっていない。電線なんてものは皆ねずみ色かくろ色で、どうびた色とあまりちがわない。こうした眼に立たない色だから、つい気がつかないで電線を握っちまったり、トタンべい帯電たいでんさせたりするのだ。その危険きわまる電線が生命の唯一の安全地帯である住家いえの中まで、蜘蛛くものように縦横無尽じゅうおうむじんにひっぱりまわされてある。スタンドだ、ヒーターだ、コーヒーわかしだ、シガレット・ライターだ、電気行火あんかだ、電気こてだと、電気が巣喰っている道具ばかりが出来て殺人の危険は、いよいよ増加してきた。それに最も戦慄せんりつを禁じ得ないのは、そうした電気器具がほとんど全部といっていいほど、金属で出来ていることだ。金属ほど電気をよく伝えるものはない。それになにをわざわざ、危険きわまる金属を選んで使用するのであるか、警視庁の保安課なんて、一体どんな仕事をやっているのかと言いたくなる。――岡安巳太郎は、色蒼ざめた顔を上下にふりながら、よく憤慨ふんがいしたものさ。
 岡安の電気恐怖病症状については、この上述べると際限さいげんがないので、この辺でよしたい。「俺は電気に殺されるに違いないんだ」と彼は口癖くちぐせのように言っていたもんだ。そのたびに春ちゃん――これが例のカフェ・ネオンの女給で「カフェ・ネオンの惨劇マーダー・ケース」の一花形はながたであるわけだが――から「またオーさんのお十八番はこ[#「お十八番はこよ」は底本では「お十八はこ番よ」]。そんなに心配になるんなら、岩田の京ぼんに頼んで、いっそと思いに、感電殺かんでんころしをやってもらえばいいじゃないの、オーさんッ」と、尻上りの黄色い声を浴びせかけられていたものさ。この岩田の京ぼん本名ほんみょう京四郎というのは、カフェ・ネオンから一丁ほど先にある電気商の若主人で、ネオンの新築当時、電燈や電熱器の配線工事をやった関係があって、それからこっち、客になってはウイスキーをめに来たり、また出入でいりの電気屋として配電の拡張かくちょう工事や、問題のネオン・サインの電気看板の取付けにやって来たりなどして、どっちかと言うとカフェ・ネオンの特別客というわけだった。もっとも若い男のことだから、美しい女給の誰かにお思召ぼしめしのあったらしいことは言うだけ野暮やぼである。話がどうやら脱線の模様だが、京ぼんに電気で殺して貰えなどと言われると、岡安先生は眼を一ぱい見開いたまま、一同から身を遠ざけるために、隅っこの羽目板はめいたへペタンと身体をへばりつけてしまう。そのとき春ちゃんが「ホラ懐中電燈! ホラ、電気よ!」と言って岡安の横腹を、ちょいとっつくと彼はキャッと言うような声をあげて三尺ばかり飛び上る、その恰好がとても面白いというので、春ちゃんが、退屈さましにときどき用いる。ほかの女給も人の悪いのばかりで、めいめいの客をほったらかして置いてわざわざこれを見に来るという騒ぎさ。その騒ぎが大きくなりすぎたと思われる頃になると、鈴江という半玉はんぎょくみたいな女給が青い顔をして皆のところへやって来る。「あたい、気味がわるいから、キャッキャッ言わせるの、よしてよ」そういうと春ちゃんが、鈴江をぎゅっとにらんで、何か呶鳴どなりたいらしいんだが、そいつをモグモグと口の中に押しかえして黙っちまう。この気配けはいに一同もくさっちゃってそれぞれ元の客席へ退散という段取りになるのが例だった。この光景を、見ていて見ていないふりをしている奴に、カウンター兼給仕長の圭さんというのが居る。これは本名を鳥居圭三とりいけいぞうという三十五にもなる男でカフェ・ネオンの現業員げんぎょういんの中でも最年長者なのだ。こいつは、内々ないない春ちゃんに気があるらしい。もっとも春ちゃんはネオンのプリマドンナだから、お客といわず、従業員といわず、なんとかなるものなら是非一度は桃色のチャンスを持ちたいものをと願っていなかったものは無かろう。給仕長の圭さんは、白い上着うわぎ酒瓶さけびんの蔭にかくしてなにか整頓に夢中になっているように見せて置いて、しかるのち、その蔭に鈴江をよびこむと、春ちゃんの機嫌をわるくするようなことを言っちゃならねぇぞと、薄気味うすきみわるい表情と口調とで、訓戒くんかいを与えるのだった。面白いのは、訓戒を与えているのに、春ちゃんが気付くと、彼女はつばめのようにたちまち圭さんの前にとんで行き、「余計なおせっかいだよ、すうちゃん、あっちへ行っといで……」と逆に圭さんにってかかる。圭さんはなにも言わないで、ニヤニヤ笑っているところで幕になるのが、毎度のことであった。その圭さんは、この幕切れにはおさまりかねるものと見え、それから舞台裏のコック部屋へ入りこんで、コックの吉公きちこうと無駄口を叩きはじめる。吉公というのは祖父江春吉そふえはるきちが本名で、本来なら春公とか何とか言うのがあたりまえなんだが、彼がこのカフェに来る前に既に春ちゃんと呼ばれる女給が居た関係上、春吉の方は春公とは言わないで、吉公とよばれていた。圭さんと吉公とはまあ仲のいい方で、そして二人はカフェ・ネオンに於けるまさしく男子現業員の全部で、そして気の毒にも一階受持ちの女給八人、二階受持ちの女給七人、合計十五人の娘子軍ろうしぐんに対し、名実共に頭が上らなかったのである。
 こうした風景が、カフェ・ネオンにおいて表面は案外平凡にくりかえされているうちに、突如として大惨劇だいさんげき黒雲くろくもが、この家の上に舞いくだった。それは月もこおるという大寒たいかんが、ミシミシと音をたててひさしの上を渡ってゆく二月のはじめの夜中の出来ごとだった。カフェ・ネオンの三階の寝室で、春ちゃんが惨殺ざんさつされてしまったのである。その寝室には春ちゃんのほかに四人の女給が、思い思いの方向に枕を置いて寝ていたのであるが、不思議なことに、彼女達は、春ちゃんの殺されたことを朝の十一時まで全く知らなかったのである。丁度ちょうどその時刻のすこし前に給仕長の圭さんが出勤して来て、階下のコックべや独寝ひとりねをしていた吉公をたたき起すと、その勢いで三階の娘子軍の寝室までかけ上ったところ、蒲団をまくられても寝ている方がましだという頑強な反抗に遭い、温和おとなしく階下へおりて彼女の代りに店の窓をあけたりしていると三十分も経ってから、この三階建てのビルディングがくずれるような音をたてて、四人の生残り女給が悲鳴と共にりて来た。その恰好は話にも絵にもならない。滑稽こっけいと悲惨とが隣り合わせにんでいたことにはじめて気がつくような異常な光景だった。その四人の女給は鈴江、ふみ子、お千代、とし子でみんな古くから居る連中ばかりである。

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