出発直前の殺人
彫刻のように立っていたミドリは、このとき右腕をあげて無言で前方を指した。
「ナ、なッ……」
学士は愕いて、ミドリの指す前の草叢を見た。
「呀ッ。……羽沢飛行士が倒れている! これはどうした。ああッ……」
傍へかけよってみると、乗組員の一人である飛行士が白いシャツの胸許のところを真赤に染めて倒れていた。調べてみると、彼は心臓の真上を一発の弾丸で射ぬかれて死んでいた。一体こんなところで誰に撃ち殺されたのだろう?
「……ああ、おしまいだ。折角のあたし達の探険……」
ミドリは悲しげに叫ぶと、ガッカリしたのか、大地の上にヘタヘタと身体を崩した。それは見るも気の毒な気の落としようだった。ミドリの兄は天津百太郎といって、失踪したロケットの操縦士だった。彼女はこんどの探険を企てたのも、恨みをのんで死んだろうと思われる兄の霊を喜ばそうためだった。それだのに羽沢飛行士は壮途を前にして、突然死んでしまった。ミドリの悲しみは、察するだに哀れなことだった。
「……仕方がない。これも神さまのお心かもしれないよ」と艇長はやさしく彼女の肩に手をおいて云った。「残念だが、このたびは中止をしよう」
そのときだった。向うの街道から、ヘッドライトがパッとギラギラする両眼をこっちに向けて、近づいてくる様子。
「ああ、誰かこっちへ来る……」
と、進少年は叫んだ。
近づいて来たのを見ると、それは競争用の背の低い自動車だった。やがて自動車は、小屋の前に止り、中から出てきたのは、色の浅ぐろい飛行士のような男だった。
「ああ、猿田さんだッ……」
猿田とよばれた男はツカツカと一同の前に出てきて、
「ああ皆さん。御出発に際して、お見送りの言葉を云いに来ましたよ」
ミドリはそのとき、スックと立ち上った。
「ああ猿田さん。いいところへ来て下すったわ。……貴方この宇宙艇を操縦して月世界へ行って下さらない」
「ああミドリさん、ちょっと……」
と艇長の蜂谷学士がとどめた。しかしミドリはその言葉を遮ってまた叫んだ。
「ね、猿田さん。行って下さるでしょうネ。貴方が操縦して下さらないと、あたしたちは十年目に一度くる絶好のチャンスを逃がしてしまうんですもの。ぜひ行って下さいナ。……貴方は前からこの宇宙艇を操縦したいといってらしたわネ」
「ええ、お嬢さん。僕は決心しましたよ。僕がこの艇を操縦してあげましょう」
「まあ待ちたまえ」
と蜂谷学士が云いかけるのを、ミドリは
「……まア蜂谷さん。まさか貴方はこれから十年して、あたしがお婆さんになるのを待って、月の世界にゆけとおっしゃるのではないでしょうネ」
「……」
蜂谷学士は、なぜか猿田飛行士が探険に加わることを好まぬ様子だったが、ミドリは滅多に来ないチャンスを惜しむあまり、とうとう羽沢飛行士の代りに猿田飛行士を頼むことにきめてしまった。
艇の出発はいよいよ間近かになった。のこっているのは、飲料水の入った樽がもうあと十個ばかりだった。一同は力をあわせて、この最後の荷物を搬びこんだ。
「さあこれで万端ととのった。……進君、もう一度宇宙艇のなかを探してくれたまえ。万一密航者などがコッソリ隠れていると困るからネ……」
厳重な艇内捜索が始まった。樽のうしろや、器械台の下などを入念に調べたが別に怪しい密航者の影も見あたらなかった。
「さあ、密航者はいませんよ。もう大丈夫です」
進少年は、そう叫んだ。
「では出発だ。扉を締めて……」
重い二重扉がピタリと閉じられ、四人の乗組員は、それぞれ部署についた。蜂谷学士は、ロケットの一番頭にちかい司令席につき六つの映写幕を持ったテレビジョン機の中を覗きこんだ。そこにはこの宇宙艇の前方と後方と、それから両脇と上下との六つの方角が同時に見透しのできる仕掛けによって、居ながらにして、宇宙艇のまわりの有様がハッキリと分った。
そのすこし後には、進少年がラジオの送受機を守って、皮紐のついた座席に身体を結びつけた。その横にはミドリ嬢が同じように頑丈な椅子に身体を結びつけていたが、これは沢山の計器と計算機とをもって、宇宙艇の進行に必要な気象を観測したり、また進路をどこにとるのがいいかなどということについて計算をするためだった。
一ばん後方には、飛び入りの猿田飛行士が複雑な配電盤を守っていた。そこでは艇長の命令によって、刻々方向舵を曲げたり、噴射気の強さを加減してスピードをととのえたり空気タンクや冷却水の出る具合を直したりするという一番重大で面倒な役目をひきうけていたのだった。
「出航用意!」
艇長は伝声管を口にあてて叫んだ。
「出航用意よろし」
と猿田飛行士のところから、返事があった。
「進路は小熊座の北極星、出航始めッ」
ついに蜂谷艇長は、出発命令を下した。猿田が開閉器をドーンと、入れると、たちまち起るはげしい爆音、小屋は土砂に吹きまくられて倒壊した。そのとき機体がスーッと浮きあがったかと思うと、真青な光の尾を大地の方にながながとのこして、宇宙艇はたちまち月明の天空高くまい上った。
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