林檎
傾いた戦車の中に、電灯だけは、ぜいたくにも煌々と照っている。
ピート一等兵は、大きな図体を、小さく縮めながら、失心したようになって、床を見つめている。
(ああ、なんとかして、もう一度、パンというものをむしゃむしゃ食べてみたい。娑婆には、むかしビフテキなんてえ、うまいものがあったなあ)
そんなことを考えているうちに、ピート一等兵は、おやという表情で、鼻をひくひくさせた。
(おや、なんか食べ物の匂いがする!)
彼は、くすんくすんと、鼻をならした。
すると、とつぜん、まるで、お伽噺のようなことが起った。それは、傾いた戦車の鉄板の床の上を、林檎のような形をしたものが、ころころと、ピート一等兵の足許へ、ころげてきたのであった。
彼は、太い指で、いくども、眼をこすった。
(あれえ、おれの眼は、どうかしているぞ。あまり食べ物のことを考えつづけたため、とうとうおれの頭はへんになって、有りもしない林檎が目の前に見えるのじゃないか)
眼を、ぱちぱちしてみたが、たしかに彼の足許には、林檎がおちている。
彼は、いくたびか手をのばそうと思いつつ、いやいや手をだすまいと、はやる心をおさえた。なぜなら、手を林檎の方へのばしたが最後、せっかくの林檎が、しゃぼん玉に手をつけたように、つと、消えてしまうのではなかろうか。幻にしても、林檎の形が、見えている間はたのしい。幻が消えてしまえば、どんなに、つまらないだろう。それを考えると、ピート一等兵は、手をのばすこともならず、からだを化石のようにして、足許へ転がってきたその怪しい林檎の形を、見まもった。
だが、その林檎の色は、あまりにうつくしかった。まっ赤なつやつやした色が、食欲をそそりたてずには、おかなかった。そして、あの甘ずっぱい林檎の匂いまでが、つーんと彼の鼻をつきさしたように思ったのである。
ついに、ピート一等兵は、幻の林檎の誘惑に敗けてしまった。彼はぶるぶるふるえながら、手をのばした。そして、思いきって、林檎をつかんだ。
「おやッ」
大きなおどろきのこえが、彼の口をついてとびだした。
「あっ、ほんとの林檎だ!」
彼は、その場に、おどりあがった。林檎を頭の上に押しいただきながら……。そして、ひょっとしたら、自分は、とうとう気がへんになってしまったのかもしれないと、考えながら……。
「おい、どうした、ピート一等兵。しっかりしろ。気をしずめなくちゃ……」
パイ軍曹はだしぬけにピートが、さわぎだしたもので、これまた、心臓が破裂したようなおどろき方だった。
「軍曹どの。奇蹟です。大奇蹟です」
「なんじゃ、奇蹟とは」
「あり得ないことが起ったのです。ほら、この林檎です。自分の足許へ、ころころと転がってきました。この林檎がですよ」
「あっ。林檎だ! こっちへ、よこせ」
「だめです。自分が見つけたんです」
「一寸見せろ。この林檎は、どこにあったのか」
「軍曹どの、半分ずつ食べることにしましょう。自分にも、残してください」
「食べるのは後まわしだ。おいピート、この林檎は、喰いかけだぞ。お前、早い所、やったな」
「いいえ、うそです。自分は、まだ一口も、やりません」
「それは、ほんとか。ほら見ろ。ここのところに歯型がついている。お前が、かじらなければ、誰が、ここのところを、かじったんだ」
「さあ? とにかく、まだ自分は、決してかじりません」
「じゃあ、いよいよこれはへんだぞ。お前がかじらず、おれがかじらないとすれば、この生々しい林檎のうえについている歯型は、一体、だれがつけたんだろう?」
二人は、ぞーっとして、互いに顔を見合せた。そして、どっちからともなく、かすかにうなずいた。次の瞬間に、二人は、ひしと寄り合って互いに抱きついていた。
「わ、幽霊が、あの林檎をかじったんだ」
「ああ、幽霊の歯型! やっぱり、この戦車の中にゃ、ゆ、幽霊がいるんだ!」
歯型のついた怪しい林檎は、二人の勇士を、ふるえあがらせた。一体、どうしたわけだろう?
林檎の幽霊
ほんとに、幽霊が、この地底戦車の中に、巣くっているのだろうか。
鼻の下に、鉛筆ですじをひいたようなひげを生やしているパイ軍曹は、こんな新しい戦車の中に、幽霊などがでてたまるものかと、さっき大男のピート一等兵を叱りつけたのであるが、今や、彼の自信は、嵐にあった帆船のように、ひどくかたむきだした。
「おい、ピート一等兵」
「へーい」
二人は、抱き合ったまま、小さい声で、話をはじめた。
「お前、これから、戦車の隅から隅までさがして、幽霊がいないかどうか、たしかめてみろ」
「そ、そんな役まわりは、ごめんです」
「なに、お前は、上官の命令に背くのか」
「いえ、そんな精神は、ないであります。ですが、軍曹どの。自分は、生きている敵兵は、たとえ百万人が押しかけてこようと、尻ごみはしないのですが、死んでいる幽霊は、たとえ一人でも、どうも虫がすきませんであります」
「お前は、あきれた臆病者だ。そんな弱虫とは知らず、おれはこれまで、お前にずいぶん眼をかけてやった。アイスクリームが、一人に一個ずつしか配給されないときでも、おれはひそかに、お前には二つ食べさせてやったのだ。あああ損をした」
パイ軍曹は、とんだところで、ピート一等兵をこきおろしたが「アイスクリーム」といったとき、彼は、もうこの戦車の中ではどんなことをしたって手に入れることのできないアイスクリームであることを考えて、しらずしらずに大きな吐息が出た。
ピート一等兵は、軍曹から、とめどもなく叱られながら、足許にころがっている林檎を、じろじろと、横目でながめて、生つばをのみこんでいた。
パイ軍曹は、むずかしいかおをして、広くもない戦車の中を、じろじろとみまわした。幽霊が、かくれているとすれば、どこにいるのだろうか。それとも、幽霊というやつは、ふだんは、人間の目には見えないのかもしれないから、案外、自分の目の前に立っているのかもしれない。じっと耳をすましていたら、幽霊の吐息がきこえるのではないか、などと、いろいろと気をくばって、幽霊の発見に努力をしたのであった。
だが、幽霊のいるらしい気配は、一向にしなかった。
(どうも、へんだ。おれは、どう考えても、こんな新しい戦車の中に、幽霊がすんでいるとは思わない)
パイ軍曹は、そのとき、こんなことを思った。
(さっき、ピートと二人で、この戦車の中へ、とびこむとき、船員か戦友かが、ちょうど食べかけていた林檎を、二人のどっちかが、靴のさきでけとばして、この戦車の中へ、けこんだのではあるまいか。すると、あの林檎には、歯型のほかに、靴でけとばしたあとが、ついているかもしれない。もう一度、あの林檎をとりあげて、よくしらべてみよう!)
林檎と幽霊の関係に、パイ軍曹の悩みは、ひとかたではなかった。
パイ軍曹は、きょろきょろと、あたりを、みまわした。
「はて、林檎は、どこへおいたかな」
林檎が、見あたらない。
「おい、ピート一等兵。さっきの林檎を、もう一度、しらべたい。林檎は、どこにある」
「さあ、どこへいきましたかしら……」
ピートは、ふしぎそうにいった。
「おい、ピート。そっちへ、離れてみよ。猿の子供みたいに、いつまでも、おれに抱きついていても仕方がないじゃないか。お前が、あの林檎を、尻の下に、しいているのではないか。早く、のけ!」
「はい、今、のきます」
ピート一等兵は、立ち上った。
二人は林檎をさがした。
ところが、林檎は、どこにもなかった。軍曹は、ピート一等兵のポケットの中までさがしたが、林檎はなかった。もちろん、自分のポケットにもなかった。
「どうも、へんだな。今、そこのへんにあった林檎が、どうして、なくなったんだろう。これは、いよいよふしぎだ」
パイ軍曹の顔が、また一だんと、青くなった。
すると、ピート一等兵が、手で自分の口にふたをしながら、
「あっ、わかりました。軍曹どの、林檎が見えなくなったわけが、わかりました」
「お前に、わかった? どういうわけか」
「つまり、あの林檎も、幽霊だったんです。林檎の幽霊だから、とつぜん、林檎の姿が、かきけすように、見えなくなってしまったというわけです」
「なるほど、林檎の幽霊か、そういうことが、あるかもしれないなあ。ああ気持がわるい!」
「ああ軍曹どの。林檎の幽霊! ああ、おそろしいですなあ」
といいながら、ピート一等兵は、胃袋の中からこみあげてくるげっぷを、手でおさえた。林檎くさいそのげっぷを……。
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