うごかぬ筈
黄いろい幽霊が手にもっていた機銃で、操縦席の前にさがっている南極の地図を指したために、そばにいたパイ軍曹は、黄いろい幽霊のゆだんを見すまして、機銃をぐっとつかんだのである。力くらべならば、彼はすこぶる自信があった。
「おい、ピート一等兵。早く、力を貸せ。その幽霊の足を、横に払え!」
だが、ピート一等兵は、蛇ににらまれた蛙のように、すくんでしまっている。
「ぐ、軍曹どの。じ、自分は、もういけません。……」
「こら、上官を見殺しにする気か。よおしこの機銃を、こっちへうばいとったら、第一番にこの幽霊をたおし、その次には、き、貴様の胸もとに、銃弾で貴様の頭文字をかいてやるぞ! うーん」
パイ軍曹は、顔をまっ赤にして、うんうん呻りながら、機銃をうばいとろうと一生けんめいである。
ところが、黄いろい幽霊はさっきから、一語も発しない。そしてパイ軍曹をしかりつけるまでもなく、軍曹のしたいままに、放ってあるのだ。一挺の機関銃は、二人の手につかまれたまま、じっとうごかない。
「こら、幽霊。そこをはなせ。はなさないと、き、貴様を……」
「ほッほッほッほッ。パイ軍曹、君の腕の力は、たったそれだけか」
「な、なにを。うーん」
じつは、パイ軍曹は、さっきからまるで万力にはさんだようにうごかない機銃について、少々こまっていたところであった。
「さあ、パイ軍曹。君に、これがとれるものなら、もっと倍くらいの力を出したまえ」
「な、なにを。うーん」
パイ軍曹は、うんとがんばって、死にものぐるいの力を出して、機銃を前にひっぱったが、機銃はあいかわらず、巌のようにびくともしない。軍曹の額からは、ぼたぼたと、大粒の油あせが、たれる。
「力自慢で、わしが負けるなんて、そ、そんなはずはないのだが……」
幽霊は、わざとらしい咳払いをして、
「戦車の中には、食料品が不足だというのに、無駄に、力を出していいのかね」
「えっ」
この戦車の中には、食料品の貯えがないことは、はじめからしっていた軍曹だった。だから、黄いろい幽霊のことばは、パイ軍曹の腹へ、大砲のごとく、こたえた。彼はとたんに機銃から、ぱっと手をはなした。
「それで、もともとだ」
と、黄いろい幽霊は、いった。
パイ軍曹は、なんだか急に、眼の前がくらくなったように感じた。それは、空腹のところへあまり力を出しすぎたためだ。
「君でなくとも、だれがやってみても、この機銃を人力で取りはずすことはできないよ。このとおり、大きな金具で、はさまれているのだからなあ。ほッほッほッ」
黄いろい幽霊は、おかしさにたえられないという風に、大笑いをしたが、軍曹が、うしろをふりかえってみると、機銃のお尻のところが、掩蓋固定の締め金具の間に、うまく挟まれていたのである。それでは、軍曹は、堅い鋼鉄と相撲をとるような、とても勝つ見込みのない力くらべを、していたことになる。
「ああッ」
パイ軍曹は、あきれかえって、自分がいやになった。とたんに、からだが綿のように、ふにゃふにゃになったように感じた。
「ほッほッほッ。戦車隊員ともあろうものが、そんな不注意で、御用がつとまるとおもうか」
黄いろい幽霊は、一本するどく、軍曹をきめつけたが、そのときどうしたわけか、地底戦車は、急にかたむきはじめたとおもう間もなく、あっといううちに、大きくでんぐりかえりをうち、とたんに車内の電灯が、すーっと消えてしまった。三人は、それぞれ、南瓜のかごをひっくりかえしたように、ごろごろと投げだされた。さあ、一体、何事が起ったのであろう。
三つの場合
海底は、まっくらであった。
だから、なにごとが起っても、皆目みえなかった。
みえなかったから、よかったものの、もし海底に、だれかすんでいる者があって、いま地底戦車が、断崖から、まっさかさまになって、墜落したそのものすごい光景をみていたとしたら、その人は、きっときもをつぶしたにちがいない。地底戦車は、石塊のように、ころげおちたのであった。あの高い断崖から下へおちて、戦車がこわれなかったことが、じつにふしぎというほかない。
それもそのはず、ドイツとともに、世界に一、二を争う工業国アメリカが、そのすぐれた技術でつくりあげた極秘の地底戦車であった。その丈夫なことといったら、おそろしいほどだ。
それはいいが、地底戦車の中の三人は、一体、どうなったであろうか。
戦車の中は、電灯が消えて、それこそ、真の闇であった。
なんの音も、きこえない。
三人とも、あたまを、どこかかたいかべか、器械にぶっつけ、脳みそを出して、死んでしまったのであろうか。
いや、そうでもなかった。三人の心臓は、いずれもかすかではあるが、それぞれうごいていたのである。が、三人とも、死骸のようになって、うごかない。自分がいま、どこにいるか、それさえ分らない。三人とも、気がとおくなってしまったのだ。
だが、これっきり、三人とも、死んでしまうではなさそうだ。今に、一人一人、われにかえって、起きあがるだろう。しかし、それから先、どうして生きられるか、そいつは分らない。
だれが、先に、気がつくか。――これは、たいへん重要な問題だった。
もし、黄いろい幽霊が先に息をふきかえして気がつけば――幽霊が、息をふきかえすというのも、へんであるが――すべて、戦車が墜落する前のとおりであろう。すなわち彼は、とにかくパイ軍曹とピート一等兵をたすけおこして、それから後は、また機関銃をひねくりまわして、彼の好む方角へ前進するであろう。
だが、これと反対に、パイ軍曹が、先に気がつけば、彼は、ピート一等兵を靴の先でけとばして、眼をさまさせ、そして二人で力をあわせて、黄いろい幽霊をしばりあげ、ひどいしっぺいがえしをするだろう。幽霊をはだかにして、天井から吊り下げることぐらいは、命令しそうなパイ軍曹だった。これは、さっきまで勝者であった黄いろい幽霊にとって、まことに気の毒な場合であった。
もう一つの場合が、残っている。それは、ピート一等兵が、まっ先にわれにかえる場合である。大きなからだとは反対に、たいへん気のよわい彼は、一体どうするであろうか。この場合ばかりは、全く見当がつかない。
幸か不幸か、事実は、最後にのべた場合をとったのである。ピート一等兵が、うーんと呻って手足をのばし、われにかえったのであった。さあ、どんなことになるやら?
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