早合点
「おお、エミリー……」
ドレゴの前へ飛び出してきた女は、チョコレート色の長いオーバに大きなお尻を包み、深緑のスカーフに血色のいい太い頸を巻いた丸々と肥えた年増のアイスランド女だった。彼女はサンノム老人の姪で、水戸なんかの泊っている下宿屋で働いていて、主人のサンノム老人を助けていたのだ。
「エミリー、君か。まさかね」
ドレゴは呆気(あっけ)にとられて、エミリーの丸い顔を見詰めた。エミリーではないだろう、彼の崇拝者というのは。その証拠に彼女は花束を持っていない、しからば希望は残っているぞ。
だが、年増女のエミリーは、俄かに口がきけないらしく唇をぶるぶる慄(ふる)わせながら後に隠していた花束を前に出した。ドレゴはあっと声をのんだ。
エミリーの手には、二つの花束があった。二つのうち、紅い花の数が少ないほうの花束を、ドレゴに手渡しながら始めて口をきいた。
「ドレゴ様、おひとりなんですか。水戸――水戸さんはどうしましたか……」
そういわれてドレゴは、釣りあげられた鯉のように「ああ……ああ……」と口を大きく開いて喘(あえ)いだ。訳は分ったのだ。エミリーの待ちこがれていたのはドレゴにあらずして、実はもう一つの紅い花がたくさん挿してある花束を捧げる筈の人物の方にあったのだ。――「すると、僕の方はまだ別の美人に希望を持っていいのかな」と、ドレゴは往生際(おうじょうぎわ)が悪かった。それに止めを刺すかのようにエミリーが早口に喋りだした。
「あたくし、がっかりしましたわ。ドレゴ様とあろう方が、気がおききになりませんのね。あたくしの手紙をごらんになり電報をお読みになれば、あなた様が必ず水戸さんを連れて帰っていらっしゃらなければならないことは、お分りの筈じゃありませんか。あたくし――」
「まあ待ってくれ、エミリー」
ドレゴは顔に汗をかいて、首をふりたてた。
「だってそれは無理だよ。あの手紙や電報では、そんな意味には取れやしない」
「そんなこと、ございませんわ。あなた様は水戸さんの唯一無二の御親友で……」
「唯一無二の親友であっても、そこまでは気がつきやしないそうだよ、ね。第一その手紙には、“あなたの崇拝者より”としてあるから、僕はてっきり僕の崇拝者が僕を呼んでいるんだと思った。このことは、はっきり分かるだろう、え」
「だって……」
「だっても何もないよ。僕の崇拝者でもないくせに、なぜ僕宛に“あなたの崇拝者より”なんて書いて寄越すんだい」
「あたくしは、あなた様も大いに崇拝いたしておりますわ」
「えっ、それはややこしいね」
「――だってあなたさまは愛する水戸の唯一無二の親友でいらっしゃいますものね」
「たははは……」
ドレゴはここで完全にエミリーから引導(いんどう)を渡されてしまった。彼はまといつくエミリーを汗だくだくで振り切って、すたこら自分の邸へ逃げ帰った。
もちろん彼はそれからバッカスの俘囚(ふしゅう)となって、前後を忘却するほどの泥酔に陥った、が翌朝早く彼は自分の寝台にぱっと目を覚ました。そんなに早く彼が酔後の熟眠から目覚めることは従来の習慣上なかったのであるが、その朝は不思議に目がぱっちりと開いた。何者かが、彼の本性に警報を発したからに違いない。
彼は起き上がって暖炉の前に腰を下ろすと、下紐を引いて人を呼んだ。
ガロ爺やは坊ちゃま御帰邸のよろこびを懸命に怺(こら)えているという顔でドレゴの前へ立った。
「浴槽を用意して貰おう」
「はい。もう用意ができておりますでございます」
「ふん。――何か変わったことはないか、早く僕に報告しなければならない性質のもので……」
「はい、ございます、昨日午後四時より始まりまして、サンノム家のエミリー嬢が坊ちゃま……おほん、若旦那様に至急の御用があるとかで六回もお見えになりましてございます」
「困ったねえ、あの女には」
「……」
「今朝は、まだ来ないか」
「はい、まだお見えになりませんよ」
「やれやれ、早いところ風呂へ入って、ずらかるかな」
ドレゴが、大理石の浴槽につかってとろんとしているとき、ガロ爺やがやって来て、エミリーの来訪を伝えた。
「まだお目ざめではないと申し上げては置きましたが……」
「いや会おう……昨日僕は頓馬だった、たとえエミリーがどう思っていようと、僕はゼムリヤ号事件の名誉ある発見者として、その最新情報を集め、その核心へ、突進しなければならないのだ」
ドレゴかひとりごとをいっているとき、浴槽の入り口が開いて女の首が中を覗(のぞ)き込(こ)んだ。
商人ケノフスキー
「あっ、エミリー……」
浴槽の中で、裸のドレゴは硬くなって叫んだ。傍に立っていたガロ爺やは、電気に懸ったようにその場にとびあがり、浴室の入口へ走った。
「こ、困りますね。広間でお待ち願うよう申上げたつもりでございますに……」
「一秒を争うことなんです。ドレゴさんにすぐお目にかからねばなりません」
牝牛のように身体の大きなエミリーは戸口に立ちはだかる枯木のようなガロ爺やをぐんぐん押し戻して、浴槽の傍まで入ってきた。
「エミリー。お願いだからあと二分間、部屋の外で待っていておくれ」と、さすがの心臓男ドレゴも、エミリーの剣幕(けんまく)におそれをなして、赤ん坊のように悲鳴をあげた。
「ところがたいへんなのよ。ケノフスキーが飛行機で行っちまうんです」
「ケノフスキー?」
「そうなの。うちに下宿しているケノフスキーです。ゼムリヤ号に関しては、あの人が一番謎を知っているんです。そしてそれに関する取引も、あの人だけが握っているんです」
ドレゴは浴槽の中で、石鹸の泡をかきたてることも忘れて、「へえっ」とおどろいてしまった。ケノフスキーが水戸と同じくサンノム老人の下宿にいることは勿論知っていた。彼はソ連の商人として知られており、これまで魚の缶詰や魚油の取引をしていることはドレゴも知っていたが、ゼムリヤ号事件に関係しているとは知らなかった。また事実、爆弾事件発生以来も彼は全然無関心な顔をしていたし野次馬連中が争ってヘルナー山頂へ急いだときも、彼はその仲間には加わらず、相変わらず屋根裏に近い彼の部屋にくすぶっていたことをドレゴは知っていた。そのケノフスキーが、エミリーの話から推察すると、いつの間にかゼ号事件の大立者となっているらしいのだ。どうしてそんなことになったのだろうか。
「ドレゴさん、あなたはこの事件を最初に全世界に向って報道した最高名誉を担(にな)っている方でしょう。水戸さんだってそうですわ。それでいながらなぜその名誉を持って、おしまいまで貫かないんでしょう、あんまり残念で私達、横で見ていられないわ」
一秒を争うといったエミリーがさかんにまくしたてる。
「すぐかけつけてケノフスキーと会見するんです。彼の説はうんと儲かるように買取ってやらねば駄目。これからすぐかけつければ間に合わないこともありませんわ、飛行機が滑走を始めれば、もうお仕舞いですよ」
「ありがとうエミリー」と、ドレゴは本気になって感謝した。
「それで彼はゼムリヤ号についてどういう地位にあるのかね」
「原子爆弾防衛委員の一人ですわよ。そしてアイスランド海域の監視人なのよ」
「なに、やっぱり原子爆弾か。これはたいへんだ。エミリー、すぐ外へ出ておくれ。僕は湯舟から出るからね」
ドレゴはエミリーを浴室から追い出すと、ゆで蛸(だこ)のように真ッ赤になった身体で立ち上り、タオルで拭うのもそこそこにして服を着かえると、エミリーを自家用車に乗せて駛(はし)り出した。向うところは飛行場だった。
飛行場の傍まで来ると、旅客機は既に砂煙をあげて滑走中だったので、ドレゴもエミリーも歯をぎりぎり噛み合わせて口惜しがった。
ところがドレゴの運が強かったわけか、旅客機は滑走路のはずれまで行っても離陸しないでぐるっと方向転換をし、元の出発点に引返してきた。
事故の原因は、サイド・パイプから油が少々ふきだしたことにあった。そのおかげで、ドレゴは単身機内へ乗込んで、ケノフスキーに面会することができた。かれは、短刀直入に用件を切出した。
ケノフスキーは赤い海象(せいうち)のような顔をゆがめて愕いたが、それでもドレゴの申出を諒解してここでは話もならぬからといって、飛行機を下りた。二人は、飛行場のまん中で、寒風に吹き曝(さら)されながら立ち話を始めた。
取引の契約が調(ととの)ったあとで、ケノフスキーは次のような要旨を含んだ話をドレゴに聞かせた。
「わしはヤクーツク造船所の一代理人だが、原子爆弾防衛委員でもなければ、アイスランド海域の監視人だなんて、それは嘘ですよ。しかしゼムリヤ号のことについては相当承知していますよ。あれは優秀砕氷船です。だがそれ以上の目的を持った試作船でさ。もうお察しでしょうが、あの船は、外部からの極めて大きな圧力に耐えるように、そして熱線を完全に防ぎ、それから放射性物質の浸透を或る程度食いとめるように設計されてある、つまり結局、原子爆弾の恐るべき破壊力[#「破壊力」は底本では「破壤力」、54-下段-23]にも耐えられるだけのことが考えられてあるんでさ。こういう船を作っちゃいかんというわけはないですからね。いや、それよりも全人類が原子爆弾の脅威に曝らされている今日、われわれ人類は生存の安全のため一日も早く、あの脅威を防ぎ留める工夫をしなければならぬことは当然のことです。その対策としては、われわれが全く地底に隠れるのも一方法だが、しかしそれでは移動性に欠け、所要の交通や貿易ができなくなるわけだ。それじゃ困るですからな」
「航空機に耐力を持たせることも、今のところ不可能です。あれはマッチ箱みたいなものですからね。結局船である。水の上にふんわりと浮かんでいる船なら、伸縮があっても大丈夫、吹き飛ばされようが広い海の上なら大したことはない。陸の上じゃそうはいかん。結局船がいいということになるが、わがヤクーツク造船所では、マルト大学造船科にその設計を依囑(いしょく)したところ従来の造船工学にはアイデアのなかった顕著に伸縮性のある船を考え出してくれたのです。そしてそれは試作船として一先(ひとま)ず成功をおさめたといえる。君も見て知っているでしょう。あの山頂に叩きつけられたゼムリヤ号が、ほとんど外形を損じていなかったことを!」
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