発信者は誰
誰も彼も憂欝に閉ざされていた。
真綿が首を締めるように、日一日と深刻さが加わって来る。
気の早いものは、二十億の地球人類の死屍が累々として、地球全土を蔽っている光景を想像して、自殺の用意に取懸(とりかか)った。
受信機は引張凧(ひっぱりだこ)で、高声器の前にはいつも黒山のような人だかりがあった。新聞はいつも羽根が生えて飛ぶように売れた。新聞社の収入は一躍平時の三倍にあがった。通信社においても同様にすごい収入増加があった。
だが、記者たちは、いずれも困憊し、そしていずれも苦(に)が蟲(むし)を噛みつぶしたような顔をしていた。
「一体これからどうなるんだ、われわれ人間さまは……」
「ビフテキ――いや人間テキにされちまって彼等にぱくつかれらあな」
「君なんかは肥っていて肉が軟かで、人間テキにはおあつらえ向きだってね」
「何をいうか、僕はテキになるまでこんなところにまごまごしてやしない」
「ふうん。自殺するってわけか」
「うんにゃ、自殺は嫌いだ」
「じゃあ、どうするんだ」
「ふふふ、こいつはあまり誰にも聞かせたくないビッグ[#「ビッグ」は底本では「ビック」、73-下段-12]・アイデアだがね、外ならぬお仲間たちだから喋るが、実はアルプスの山の中へ立籠(たてこも)るんだ。氷に穴をあけてね。そこにいれば大丈夫だよ」
「なぜ」
「なぜって、例の怪物は今海底にいるところから考えると、あれは魚類の親類なんだ。魚類の親類なら氷の山の上までは昇ってこられないよ。もし来たら冷凍されちまうからね」
「なんだ、ばかばかしい。それにアルプスの中はいいが、末には食糧に困るぞ」
「うん、そのときは夜な夜な下山して、あの怪物狩をして、あべこべに彼等の肉でフィッシュ・フライを作って喰べる」
「はっはっはっ。そんなことはうまく行きやしないよ。僕はもっと違ったすばらしいアイデアを持っている」
「というと、どんな迷案かね」
「最もすぐれたアイデアだよ。某研究所が秘蔵している長距離ロケット機があるんだ。どうせそうすれば、あのロケット機に乗って地球から逃げ出す奴がいるに違いないから、前もってあの機中に潜伏していて、密航するというわけだ。そして月世界あたりへ行ってしまう」
「それはお伽噺だ。今、月世界まで行きつくロケット機なんてあるかよ。不可能だ。それにたとえ月世界に行きついたとしても、向うには空気は全然無いぜ、だから腹ぺこになるよりは、空気に飢えて呼吸(いき)の根が停ってしまうよ。だめだめ、そんなことは……」
「いや、アルプスへ籠るよりは冒険的で近代的で――やあ、部長。どこへ行っていたんですか、さっきから探していましたよ」
「遂に、テームズ河口に繋留してある浮標(ブイ)Dの十一号までは、つきとめたよ」
「テームズ河口の浮標Dの十一号とは一体何ですか」
「それはね、第二報の入りこんだ道筋なんだ」
「第二報の入りこんだ道筋?」
「そうだ。第二報はいきなりWGY局から放送された。WGY局は第二報をどこから手に入れたか。それを調べてみたんだ。さきの第一報は無電で入った。ところがこんどの第二報は無電ではなかったんだ。それは有線電信で入ったことが分った。どこからその電信がうたれたか。WGY局でそれを見せて貰ったがね、ニューヨーク中央電信局扱いになっている。発信局はロンドンなんだ。海底電信で来たんだね。近頃めずらしい古風なやり方だ」
「ふうん」と一人の記者が呻(うな)った。
「たしかにそこに一つの性格が認められるね、この発信者のだ……。そこでロンドン局を呼出して、追及してみたよ。するとその電信を受付けた局員が出て来たが、結局それはテームズ河口の浮標Dの十一号から依頼されたものだという……」
「浮標が電信を依頼するということがあるだろうか」
「浮標そのものが依頼したわけじゃない。その浮標に繋留していた船から依頼されたわけだ。その浮標とロンドン局とは、やはり電纜(ケーブル)で連結されているんだ。ところでDの十一号までは、つきとめたが、残念なことに、その浮標に当時繋留していた船の名が分らない。そこでこの調査も一応終りさ」
「ふうん。その浮標に繋留した船がありながらその船名が分らないというのはおかしいね。必ず分らなければならない筈だ」
「ところが、港湾局にも記載がないのだ。つまりその日D十一号浮標に繋留した船はないと言明している」
「それはいよいよおかしい。ちゃんと電信依頼がロンドン局へ届いている。そんなら繋留船が存在しなければならない」
「そこに何か曰くがありとしなければならないだろうな。……とにかくさ、要するにロンドン港がくさい。これからロンドンへ網をかぶせるべきだ。誰か四五名、ロンドンへ行って貰おう。特別に社機を出して貰うよう、局長には話をして来たぜ」
「よし、僕が行こう」
「僕も行く。ワーナー博士一行の生残者か、それとも遺骸かもしれないが、とにかくそれがロンドン内に隠されていることは間違いなしだ」
「うん。成功を祈る。君たちの……」
こんなことから、ロンドンに俄(にわか)にスポット・ライトが向けられた。
約束の手紙
話はアイスランド島のオルタの町へ飛ぶ。
今やエミリーは悲しみのどん底にあって、涙と共に日を送っていた。大西洋海底におけるワーナー博士一行の遭難事件、それによって明らかにされた戦慄すべき怪人集団の暴行。彼女の愛人水戸の安否は今のところまだ確められていないが、四囲の情勢から憶測すると、まず彼水戸の運命は芳しからぬ方向を指しているとしか思われない。
ドレゴ記者は、エミリーを毎日のように慰問に来るが、来るたびにエミリーに泣(な)き縋(すが)られてほとほと閉口の形だった。といってエミリーの片恋を知った以上、そのままに放っておけない。彼は進まぬ足を引摺るようにして、エミリーを慰めに現われるのだった。
そのドレゴが、或る日いつもよりは明るい顔で、エミリーの許を訪れた。エミリーはサンノム老人の下宿の勝手許から、白いエプロンで手を拭きながら出て来た。早くも彼女の手には、ピンク色の絹のハンカチーフが丸まって握りこまれていた。
「やあ、エミリー。今日は珍しい人から手紙が来たよ」
「あら、うれしい。水戸さんから……」
「何でも皆、水戸の話だと思っちまうんだね。違うよ。水戸から手紙が来たんだったら、すぐ電話をかけるよ」
「まあ、つまんない。じゃあ誰から」
「ケノフスキーからだ。モスクワから出した手紙なんだ。これは僕が、約束しておいた手紙なんだ」
「……」
「ほら、これだがね。これを読むと、また面白いことになって来たよ」とドレゴは封筒から出した用箋をひろげながら「こういうことが書いてある。読んでみるよ。――“ゼムリヤ号事件は、まことに不幸な出来事ではあったが、一面から考えると、それはわれらのために全然マイナスではなかった。何故ならばゼムリヤ号がああいう事件に遭わなかったとしたら、わがヤクーツク造船所の技術が如何に優秀なものであるかを、世界の人々はまだ了解する機会を持たなかったであろう。ゼムリヤ号は、とにかく或る巨大な衝撃に耐えたばかりか、その巨力に跳ね飛ばされて実に七十哩(マイル)を越える長距離を飛翔し、ヘルナー山に激突したのであるが、既に知られるとおり船形も殆んど崩れず、世界人の想像に絶する耐力を示した。しかしこの事件は、まだ真の答が出ていない。というわけは、わがゼムリヤ号に作用した巨大なる外力が毎平方糎(センチ)に幾巨万瓦(グラム)の圧力であったかについて詳細を知ることが出来ないために、われらの知らんと欲する答はまだ出ていないのだ。余はその巨大なる外力の数値を何とかして得たいと思って努力したが、それは不成功に終った。その不成功の原因の一つは、わが国に対する妥当でない猜疑心(さいぎしん)によるものである。しかし余の現在における希望は、もはやそういう問題をどうのこうのと論ずるにあらずして、われらはわれらの仕事に更に熱中することにある。具体的にいえば、更に強力なる耐圧船を建造することにある。われらの技術は、まだ世界人の知識にないほど進んでいるのだ。今日われらの売出そうとする砕氷船の如きは、もはやわれらがその技術を秘密の埒内(らちない)に停めて置かなければならないようなそんな特殊なものではなくなったのだ。われらは今後も続々とわれらの技術作品を公開する考えである。ただ一言したいのは、われらがわれらの考えで研究し設計し試作し実験するものに対して、世界人が常に理解ある態度を持つべきであるということだ。われらには、われらにとって特に興味のある問題、そして特に切実なる要求に基づく問題があるのだ。研究は自由に行わるべきであると思う。以上述べた余の信念により、貴君は余に協力されんことを切に希望する。わがヤクーツク造船所の販売代理権を極めて好条件で貴君の手に委ねることにつき、余は用意がある。しかして余はその交換条件として、次のことを貴殿に依嘱したい。それは外でもない。わがゼムリヤ号に働きかけたる巨大なる外力に関する出来るだけ詳細にして具体的なる報告を提供されたいということだ。これは余およびヤクーツク造船所が、さきに記したる答を算出したいためのものであり、それ以外に他意がない。貴君が、余のこの提案に承諾されることを切に希望する。余は貴君に十分信用せらるるの自信をもってこのあけすけな手紙を書いた。この提案が容れられないときは、余は貴君が余の如くあけすけになり得ない人物だと断定するであろう。終に、溌剌(はつらつ)たるエミリーによろしく伝言を頼む”――こういうんだがね、ロシア人らしい長い手紙だ」
ドレゴは吐息と共に、片手で自分の頤(あご)をもんだ。
「あなたはお馬鹿さんよ。エミリーによろしく伝言を頼むのところだけを、あたしに読んで聞かせりゃいいじゃないの」
エミリーの目が少し笑った。
「いや、全文読んだ上で、エミリーによろしくと来ないと、感じがでないからね。はっはっはっ……それはいいが、このケノフスキーの提案をどうしたもんだろうね」
「あたしに相談したって、何が分るものかね」
「うん。水戸がいれば早速彼の意見を徴するんだ、生憎(あいにく)水戸がいないから代りに水戸夫人の卵さんに伺ってみた次第だがね」
「あたしを馬鹿になさるのね、ドレゴさん」
エミリーが小さい目でドレゴを睨(にら)んでみせた。が、その唇には微笑の影が浮いていた。
「真面目な話なんだよ。僕は困ってしまった。ケノフスキーに恨まれたって何とも思やしないが、しかし何だかこう胸を圧迫されるようなものが残りそうで、いやだね」
「取引をなさってはどうなの。いい条件らしいじゃありませんか」
「だって、こっちからだして提供するものはありゃしないからね。僕はワーナー調査団について大西洋まで行くには行ったが、そのまま引返して来たんだからね、或る婦人の策謀にうまうまのせられて……」
「まあ、ドレゴさん」
「要するに、僕はケノフスキーを満足させるほどの物を持っていないのだ。お気の毒さまだがねえ」
「新聞を片端から切抜いて送ったらどう」
「ケノフスキーを怒らせるばかりだ」
「だって、あなたのような方に、それ以上を求めるのは酷(こく)だわ」
「はいはい、よくご承知で……。水戸君とは違いましてね」
「あら、そんな意味でいったんじゃないわ。本当に無理なんですもの」
「まあいいや。少し考えることにしよう。それじゃエミリー夫人。また会うまで」
ドレゴは口笛を吹きながら帰っていった。
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