牝牛嬢の恋
ケノフスキーは、自分のいっていることに段々熱して来て、果てはドレゴの外套の襟を掴まんばかりの手つきで、
「ね、分るだろう。だからゼムリヤ号を世の中へ送ったわがヤクーツク造船所は、救世主の一人なんだ。ヤクーツク造船所はこの偉大なるゼ号型船をわが本国だけに独占しないで、これを広く、現に脅かされつつある人類へ送ることを決意した。崇高なる人類愛の顯(あらわ)れだ。而(しか)もだね、わがヤクーツク造船所は、永年月に亙り大なる犠牲を払いつつ水の圧力と闘ってきたのだ。この聖母マリアの如きゼ号型船は、かかる犠牲と忍苦と研究の支払いによって生まれ出たんだ。ヤクーツク造船所ならでは、何処の造船所で作り得られようか。ね、分かったろう。君のペンによってこのことが世界中に報道されることを期待する。予約注文は早い方がいい、わしのところへ持込んでくれりゃ出来るだけの便宜と利益を図るよ。ま、こういうわけだ」
ドレゴは商人ケノフスキーの能弁にすっかり封殺されていた形だった。なるほどゼムリヤ号について、意外なる本質が明瞭となったことはよろこばしい。が、後ではどうやらケノフスキーの宣伝手伝いを勧誘された形だ。肝腎の椿事(ちんじ)問題の方はいつの間にやら逸脱してしまった。
「でも、ゼムリヤ号は、最後はヘルナー山頂で爆破粉砕したというじゃないですか」
ドレゴは、一本突込んだ。
「それは仕方がないさ。内部で爆発が起こったんだからね。外部からの圧力には十分強く堪えられるあの船も、内部からの力に堪えるようには考えていなかったからね」
ケノフスキーのこの答弁は尤(もっと)もであった。
「なぜ内部から爆発が起こったんですかね」
「知らんね。それは造船所の代理人たるわしに関係のないことだ」
ケノフスキーは何事かを知っているらしいが、喋ることはいやなのであろう。
「乗組員が皆死んでしまったのは、どういうわけですかね」
ケノフスキーが何かいいだそうとするのをドレゴは抑えて、
「せっかく丈夫な船が出来たにしろ、乗組員がその場で全部死んでしまうんでは、買い手がつかないですからなあ」
「いや、あれは当時乗組員用の衝撃緩和装置が間に合わなかったせいだよ。何しろ試運転を急いだものだから……今ならその安全器械は十分間に合うのだ」
「一体あの事件のとき、ゼ号の乗組員はどういうわけで死んだんですかね。いやもちろん激しい外力によって、壁に頭をぶつけ、脳震盪(のうしんとう)[#「脳震盪」は底本では「脳震蕩」、56-下段-8]を起こしたんだろうと想像していますが、それにしてもゼ号をあのように高い山の上へ吹き飛ばした外力というものは一体何物だったんですか」
「そのことだがね。これは慎重な態度で取扱わねばならぬ問題だが、とにかく巨大なる外力が働いたことは確かであるし、それは海において発生したものであること……」
「それは原子爆弾にやられたんですか」
「そこが、その微妙なところで……実はこういう話があるんだが……」
その先をいいかけたとき、飛行場のサービス嬢が、旅客機の修理が終ってすぐ出発しますから、すぐ乗っていただきますと觸(ふ)れて来たので、ケノフスキーは周章(あわ)ててドレゴの方へ手を振って、飛行機の方へ駆け出した。
「ケノフスキーさん。貴方は何の用でどこへ行くんですか」
ケノフスキーは答えるかわりに手を振った。
「いつ帰って来ますか」
「後で詳しく手紙にして送る。さよなら。さよなら」
彼は軽金属の階段を登り切って、旅客機の中へ姿を消した。もうどうしようもなかった。
飛行機の出発を見送ってから、ドレゴは柵の外に乗り捨ててあった自家用車へ戻ってきた。
「どう、うまくいって」
もうどこかへ行ってしまったかと思ったエミリーが、辛抱強く運転席の隣に座って待っていた。
「エミリー、ありがとう。かなりの収穫があったよ、が、時間が切れて話は胴中から尻方の方だけが残った恰好だ」
「ぼんやりしているのね、あの人だったら抜け目なく頭まで手にいれるんだけれど」
「水戸のことをいっているんだね」
とドレゴは苦笑しながら、車をスタートさせた。
「僕は君の気持ちを知らなかったもんだから、彼を大西洋に置いてきたんだ、一体君はいつ頃から水戸を愛していたんだね」
「もう古いことよ。水戸がうちへ下宿するようになって間もなくだわ」
エミリー牝牛嬢には似合わない細い溜息をついた。
「これは愕いた。水戸はちっともそんな気配を見せなかったのでね」
「あら、ドレゴさん。早合点しないでよ。あたし達の間はまだ何でもないし、第一水戸さんはご存じないのよ」
「へえ、そうかね」とドレゴは大袈裟(おおげさ)に愕いてみせて
「わが可憐なるエミリー嬢が見掛けとはおよそ似つかぬ清純たる恋に悩んでおられるとは、さっぱり気がつかなかったね」
「おおきにお世話よ、鈍感坊ちゃん」
「これはお言葉、痛み入る。しかしエミリー、実をいえば僕も水戸をひとり残して来たのをたいへん後悔しているんだがね」
「あたしも変に胸さわぎがするのよ。あっちで何か間違いでもあったんじゃないかしら」
二人の心配は果たして杞憂(きゆう)であったろうか。
現場近接
海底へ下りたワーナー博士一行十名は人員点検をして異状のないことを確かめた上で、一団となって進発した。
五個の強力な灯火が前方を明るく照らしている。ここはいわゆる海嶺(かいれい)というところらしく、ゆるやかな起伏のある丘をなしていて、歩くたびに海底の軟泥(なんでい)は煙のようにまいあがる。
博士の助手の一人は、超音波の装置を胸にかけて、前方を、この聴こえない音波で摸索している。
二人の護衛は、最前列に出て左右を確かめつつしずかにあるいている。
ホーテンス記者と水戸記者はワーナー博士のすぐ後ろにぴったり寄り添うようにして歩いている。博士の右隣には、博士の信任の篤いオーキー学士が、水中電話機を背負って、たえず水面に待機している掃海艇サンキス号と電話で連絡をとっている。そのオーキー学士の声が海水を伝わって水戸記者の耳にもよく入る。
「……一行異常なし。針路を南西にとっている。軟泥と海藻の棒だ。前方に何があるか、見当がつかない……」
オーキー学士はしきりに喋っている。
ワーナー博士の方は、点々として、ゆるやかな歩調で歩いていく、一群幾千とも知れぬ扁平な魚の群が、無遠慮に前方を横ぎり、そしていずれへともなく姿を消す。
昆布の林を一つ、ようようにして通抜け、ひろびろとした台地のようなところへ出た。ワーナー博士は、さっと手をあげ、合図の笛を吹いて一同に「停れ」の号令をかけた。
そこで底へ下りて最初の測定が始まった、器械や装置が並べられる、特別の照明が行われる、ワーナー博士がプリズム式の屈折鏡で計器の針の動きを覗(のぞ)き込む。
ホーテンス記者と水戸記者は、その計器を覗き込もうとしたが窮屈な潜水服をつけているので、それは見えなかった。
「ワーナー博士、海底地震はやっぱり起こっていますか」
とホーテンスが尋ねた[#「尋ねた」は底本では「訪ねた」、58-下段-11]。
「さっき一回感じたが、計器をここへ据付けてからはまだ一度も起こらないね」
そういっているとき、博士は急に身体を強(こわ)ばらせた。そして手をあげて助手を呼び寄せた。五分ばかり経った後、博士は元のゆるやかな姿勢に戻った。
「どうしました、ワーナー博士」
ホーテンスが声をかけた。
「おお、今しがた待望の海底地震があったよ、その波形を初めて正確に見ることが出来た」博士はここでちょっとの間言葉を停め「とにかくわれわれがこれまで海底地震と呼んで来たものは本当は地震ではなかったのだと思う、そういう結論に達した」
博士は重大なる言明をした。
「あれは海底地震ではないというのですか、すると何ですか、あの異常震の正体は……」
「ホーテンス君。その正体をこれから調べにかかるのだよ……全員集合」
と博士は一同を呼び集めた。
「ここで隊を二つに分ける。三名は、装置と共にここに残留し、残りの七名はこれから前進して振動源に近接する。いよいよ注意を要する作業の始まりだ」
博士はその人選をした。それから博士は、今しがた判明した震動源の方向を説明し、七名の者は左右二団に分れてその方向へ進発することとなった。
ホーテンスと水戸記者は、右隊と左隊とに分れた。ホーテンスは、ワーナー博士とオーキー学士と一人の護衛の組に入った。水戸記者の方は二人の学士と共に左隊に入った。
両隊は互いに二十メートルの間隔を保ちながら、定められた方向に前進していった。
水戸記者もようやく潜水服に慣れ、前屈みになって歩くのが楽であることも知った。ゆるやかな海底の起伏を上がったり下がったりして行くうちに、三十分ほど時間が経ち、そこで小休止となった。水戸は、潜水服の中に温めてあった牛乳と甘いコーヒーを、ゴム管で吸った。
それからまた前進が始まった、すると間もなくかなり高い丘陵の下に出た。その丘陵をのぼり切ったとき、突然右隊から「警戒! 停れ」との信号があった。
何事かと、左隊の三名が潜水兜をくっつけ合って意見交換を始めたとき、右隊から誰かが近寄ってきた。
「おお、ホーテンス」
水戸は彼を認めて、名を呼んだ。そのホーテンスは途中急いだと見え、聞きながら水中電話機から声を出した。
「大警戒を要するのだ。前方百メートルのところに、海底からとび出したものがある」
「海底からとび出したもの?」
「そうだ。その正体はまだ分からぬ。沈没している船かもしれない。或いは岩かもしれない。とにかくこれから油断をしないで前進するように、との博士の注意だ」
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