愛の巣訪問
「おじさま。駄目ですね」
帆村を抱き起して、服についた泥を払ってやりながら、甥っ子は思ったことをいった。
「なにが駄目だい」
「まずいじゃありませんか。いきなりあの男に、谷間シズカさんのことを聞いたりして……。あれじゃ彼は大警戒をしますよ」
「あれでいいんだよ。わしはちゃんと見た。あの男にとっては、谷間シズカなる名前は、さっぱり反応なしだ。意外だったね」
「ははあ、そんなことをね」
蜂葉青年は、ちょっと耳朶を赭く染めた。
「船乗りだったろうの方は反応大有りさ。そこでわしを突倒して逃げてしまった」
「どうして船乗りだと見当をつけたんですか」
「それはお前、あの帽子の被り方さ。暴風帽はあのとおり被ったもんだよ」
「ははあ。それで彼が船乗りだったら、この事件はどういうことになるんです」
「それはこれから解くのさ。彼が船乗りだというこの方程式を、われわれは得たんだ」
「関連性がないようですねえ」
「いや、有ると思うね。彼が船乗りだということが分ると、そのことがこの事件のどこかに結びつくように感じないか」
「さあ、……」
甥は、脳髄を絞ってみたが、解答は出なかったので、首を左右に振った。
「あんまりむずかしく考えるから、反って気がつかないんだねえ」
老探偵は笑って、オーバーのポケットへ両手を突込んだ。
「さて、ちょっと谷間夫人を訪問して行くことにしよう」
「正式に面会するんですか」
「いや略式だよ。君に一役勤めて貰おう。こういう筋書なんだ」
老探偵はその甥に何かを低声で囁いた。甥はいたずら小僧みたいな目をして、悦んでそれを聞いていた。
たしかに碇曳治と谷間シズカの名札のかかったアパートがあった。甥は呼鈴を押そうとした。
「待った。計画変更だ。この家にはテレビジョン電話が入っている。電話で呼出せばいいよ。君は新聞社から電話をかけていることにするんだ」
帆村はポケットから紐のついた器械をとり出して、玄関の壁へ匐いこんでいる電線に、重ねた。そしてしばらくそれをいじっていたが、間もなく甥の方へ振返って合図をした。蜂葉は、替ってその器械を受取った。そして低声で電話をかけだした。
「……碇さんのお宅ですね。奥さんでいらっしゃいますか。こちらはサクラ新聞社です。御主人いらっしゃいますか。いらっしゃいましたら、ちょっと電話に出て頂きたいんです」
かの谷間シズカ夫人は、蒼ざめた顔を一層険悪にして、テレビ映写幕から蜂葉を睨んだ。
「どういう御用でしょうか。おっしゃって頂きます」
「実は御主人のファンから手紙とお金が届いているんです。つまり御主人が火星探険隊員として大きな殊勲をたてられたことに対して一読者から献金して来たんですがね、そのことについて一寸お話したいんです」
この申入れは、てきめんの効果があった。シズカ夫人はたちまち表情を一変して、得意の笑顔となり、別室へ碇を呼びに行った。帆村は、側路に取った別の小型の映写幕装置へ両眼をぴったりあてていた。これは相手の顔が見えるだけで、帆村の顔は先方へ電送されない。
碇曳冶の憤った面が、幕面にとび出して来た。
「折角だが、そんな金は貰いませんよ。送り返して下さい。僕はそんなに礼讃される男じゃない。放っておいてください。そして僕のことを探険隊員として新聞でよけいな報道をすることはもうよして下さい。甚だ、迷惑だ」
碇が電話を切ろうとしたのを、傍にいたシズカ夫人がその手をおさえて、代りに電話に出た。
「どうも何とも申訳ありません。あのひとは非常な謙遜家でございまして、このごろでは自分を英雄として宣伝されることをたいへん嫌って居りますんですのよ。新聞社の方へは、あたくしが代りに伺いまして、お詫びやらお礼を申上げますから、どうかお気を悪くなさらないように」
「いや、気は悪くしてはいませんが、ファンの手紙と金は受取って下さい。じゃあ郵便でそっちへお送りしましょう」
老探偵の合図によって、テレビ会見は終幕となった。器械をしまって、足音を忍んで、アパートの前を立ちのいた。
下りの坂道にかかったとき、蜂葉はもう辛抱が出来ないという風に、無言行の伯父に呼びかけた。
「今の僕のやり方でよかったですか」
「結構だった」
「そんならいいが……しかしおじさま、あれだけでは碇に怒鳴りつけられただけで、さっぱり収穫はないじゃないですか」
「君はそう思うかね」老探偵は唇をぐっとへの字に曲げた。「私はいろいろと新しいことを知った」
「え、新しいことをですか。どんなことです。それは……」
「君にも分っていると思うんだが、あの二人は正に同居していたこと」
「そんなことなら僕だって分る……」
「それからシズカ夫人は碇氏を誇りとしていること。ところが碇氏はそうでなくて、探険隊員のことで宣伝されるのを厭がっていること――このことが私には最も大きな収穫だった。それによって私は、これからすぐに訪問しなければならない所が出来た」
「面白いですね。どこへでもお供します。しかしおじさま。事件の本筋を離れるんじゃありませんか。だって碇氏の方のことを調べたって、シズカ夫人につけまとう恐ろしい顔の男の方は解決されないでしょうから……」
「まあ、私について来るさ。とにかく何でもいいから、腑に落ちないものが見つかれば、それをまず解決して行くのがこの道の妙諦なんだ。案外それが、直接的な重大な鍵を提供してくれることがあるんでね」
「またおじさまの経験論ですか。それは古いですよ。統計なんておよそ偶然の集りです。確率論で簡単に片附けられる無価値なものですよ」
「条件をうまく整理すれば、そんなに無価値ではなくなる。まあ、行こうや」
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