命の方向舵
今まで見えなかった太刀川青年が、とつぜんあらわれて、こんなことをいったものだから、操縦員も艇長も、そしてケレンコも、めんくらって目をぱちくりとした。
「え、どうしてそんなことが――」
「いま窓から外を見たんです。方向舵がぴーんと曲ってしまって、今にも風にさらわれてゆきそうですよ」
太刀川時夫は、平気な口調でいった。
「あ、ほんとうだ。方向計の針が、ぐるぐるまわっています。これはたいへんだ」
「このままでは、本艇はおそろしい暴風雨の真中に吸いこまれてしまいますよ。まずスピードを下げて、風にさからわないように飛ぶことです。さっきからの操縦は、ありゃ無茶ですよ。飛行艇がこわれてしまう」
そういっているとき、どうしたわけか、操縦室の電灯が一時にぱっと消えてしまった。外は、夜のように暗い黒雲の渦だ。室内はくらくなった。ただその中に、蛍光色の計器の表だけがぴかりぴかりと光る。
「あ、たいへんなときに停電だ」
「こら、誰もうごくな。うごくとうつぞ」
委員長ケレンコも、あわて気味に一同をおどかした。
「電灯をつけなきゃいかんですが、困りましたね」
太刀川青年の、おちつきはらったこえが、くらがりの中からした。
そのさわぎのうちに入口から、小さい猿のような動物が、するすると室内に入ってきたのに、気づいた者はほとんどなかったようである。
「電灯をつけろ。ダン艇長。誰かに命令をつたえろ」
「はい。では発電室へいってみます」
しめたと思ったダン艇長が、くらがりの中に体をうごかしたとたん、
「こら、この室を出ていっちゃならん。この室に、艇内電話機があるはずじゃないか」
とケレンコのわれ鐘のような声。
「電話機はありますが、停電ですから、電話もだめじゃないかとおもいますので……」
「なんでもいいから、かけてみろ」
「はい。こうくらくては電話機のあるところがよくわかりません。懐中電灯でもあれば」
「大げさなことをいうな。じゃ、わがはいの懐中電灯を貸してやる」
ケレンコは、ピストルをポケットにおしこみ、他のポケットをさぐって、懐中電灯をとりだした。
それはただちにケレンコの手から、ダン艇長の手にわたされた。釦をおす。まぶしい光がさっと室内に流れた。
「ああ、ここにあった」
艇長は、電灯を片手にもちながら、
「ああもしもし」
と、電話をかけはじめた。
「おう、交換台か。おや、電話は通じるんだね。それはよかった。え、なに?――」
「こら、他の話をしちゃならん。早く電灯をつけろといえ」
ケレンコは、油断していなかった。
「はあ」艇長は電話をかけながら、ちょいと頭を下げて、
「おい、停電したが、どういうわけだ。なに暴風雨で発電機の中に水がはいった。……蓄電池だけで、電話とエンジンの点火とだけを辛うじて保たせてあるって。ええ、なんだ?――ふん、そうか、よしよし。わかったわかった」
「こら、なにをいう。他のことを話しちゃならぬといっているのがわからないか」
「いや、故障のところを説明させているんです」
艇長はいいわけをして、
「おい、それからどうするというのか。………うん、わかった。早くなんとかなおせ。そうか、こっちは大丈夫だ。じゃ、あと十分後を期して、一せいに、よし、わかった」
「なんだ、おい。十分後というのは」
「え」とダン艇長は、なぜかどぎまぎしたが、
「いやなに、十分後までになおすから安心してくれといっているのです」艇長は、電話を切ったあとまで、なんだかそわそわしていた。そして、かたわらに立っている太刀川青年の方をちらちらとぬすみ見ていた。
なんだか様子がへんである。ダン艇長は、はたして電話で停電した話ばかりをしていたのであろうか。
「さあ、艇長。用がすんだら、懐中電灯をかえしなさい。僕がわたしてあげます」
なにをおもったか太刀川時夫は、艇長をうながして、懐中電灯をうけとると、これをケレンコの顔にさしむけた。
ケレンコは、不意にまぶしい電灯をさしつけられて鬼瓦のような顔をしておこった。
「こら、何をする。無礼者めが」
なにか意味ありげに、にやにや笑っている太刀川青年の手から、ケレンコはあかりのついた懐中電灯をひったくった。
このとき、くらがりの室内を、何者ともしれず、こそこそと床上をはい、そして扉をぱたんといわせて、外へ走りでた。
それに気がついたダン艇長は、あっと叫ぼうとして、あわてて自分の口をおさえた。
停電事件と同時に、艇内に、なにかしらふしぎなことが起っているらしかった。
ところがそのとき、操縦長が、誰にもそれとわかる悲壮なこえで、艇長によびかけた。
「ああ艇長。本艇はもうだめです。ぐんぐん暴風雨におしながされだしました。方向舵が直らないのです。どうしてもだめです」
それは本当だった。羅針儀の針はぶるぶるふるえていた。
「それはそのはずだ」
太刀川青年がケレンコに聞えよがしにいった。
「あのとおり方向舵が曲ってうごかなくなってしまったんだ。あれを直さないかぎり、本艇は海上に墜落のほかない!」
「なにを!」
ケレンコは、ゴリラのように歯をむいて、太刀川青年の方へちかづいた。
荒肝をひしぐ
どこまでも、不運なクリパー号は、この暴風雨のために、方向舵までも、まげられてしまった。
艇にとっては、今や人も機械も何のやくにもたたない。ただ暴風雨のまにまに、どこまでも、ながされてゆく。
いつ突風がおこるかわからない。突風がおこって艇にたたきつけるようなことがあったら、おしまいである。下にはあれくるう波が、艇と人とをひとのみにしようと、白い牙をむいて待ちかまえているのだ。さすがのケレンコも、太刀川青年に、方向舵の曲ったことを知らされて、顔色をかえてしまった。
が、太刀川青年は、おちつきはらって言った。
「さあ、どうしますか、ケレンコさん。われわれはともかく、あなたがたは、ここで艇と一しょに、海中へおちて死ぬつもりですか」
ケレンコは、だまっていたが、その目は、あきらかにうろたえていた。
「どうしますか、ケレンコさん。われわれも死ぬが、あなたがたも一しょに死ぬのですよ」
太刀川青年は、ここぞとばかり言った。
「なに、死ぬ?」
ケレンコが、ひくい声でつぶやいた。さすがのケレンコもこれには、完全にまいったらしい。
「じゃ、太刀川君。どうすればよいのだね」
ついにケレンコは一歩ゆずった。太刀川青年の言葉は、敵の荒肝をひしいだ。
「それは考えるまでもないじゃありませんか。あの曲った方向舵をなおすことですよ!」
と太刀川は、こともなげに言った。
「な、なんだと、太刀川君」
ケレンコはおどろいた。
「あの方向舵の故障は艇内でなおすわけにはいかない。しかし、この暴風雨の艇外に出て、そんなはなれわざが、できるものじゃない」
「ケレンコさん、それをやるのです。やらなければ、われわれは死ぬよりほかないのですよ。二人でやればできないこともないと思います。僕とあなたで、早いところやろうではありませんか」
「え、君とわがはいとで……」
鬼のようなケレンコも、この一言には、まるで串ざしにされたかたちだった。
太刀川青年は、艇長の方をふりむいて、
「さあ、ダン艇長、早く麻綱をもってきてください」
ダン艇長は、さいぜんから太刀川青年の胸のすくような[#「すくような」は底本では「すくよううな」]応対ぶりに見とれていたが、はっとわれにかえり、いいつけどおり、この操縦室の網棚から麻綱の束をかかえおろした。
「さあ、ケレンコさん。これで胴中をゆわえて、僕と一しょに早くきて下さい」
「ちょ、ちょっと待て。わ、わがはいはこまる。誰か外の艇員をつれてゆけ」
ケレンコは一歩後ずさりをした。
「何をいっているのだ、ケレンコ! ほんとに命が大事だと思う者がゆかなければ、この艇をすくうことはできやしないよ。艇長たちは、暴風雨相手に操縦することだけで一ぱいなんだ。これはどうしても、君と僕の二人がやるべき仕事のようだね」
「うーむ」とケレンコはうなった。そして後をふりむき、
「おいリーロフ。君はわがはいよりも、はるかに技術者で、力がある。君がゆけ」
すると、さっきから二人のおし問答に、耳をかたむけていた大男のリーロフは、何を思ったか、おおきくうなずくと、
「よし、じゃ、おれがゆこう。ケレンコ、こっちの艇員どもは、君にあずけたよ」
といって、彼はピストルをポケットにしまいこむと、太刀川青年に見ならって、麻綱を胴中にぐるぐるとまきつけた。
大冒険!
このままほうっておけば、艇は墜落するよりほかないのだが、それにしても、諸君、太刀川青年はすこし、やりすぎたのではないだろうか。この暴風雨中に、艇外へ出て、方向舵をなおすなんて、人間わざでできることではない。日本をはなれるとき、原大佐から重大使命をさずけられた身として、かるはずみのしわざではあるまいか。
いや諸君、太刀川青年は、けっしてその重大使命をわすれるような男ではない。いや、これを思えばこそ、ケレンコ事件がおこってからこっち、ひそかに計画をすすめていたのだ。
その重大使命をはたすために、彼は、にくむべきケレンコとリーロフの国際魔二人を、死なせてはならないと思っていたのだ。
なぜ? その答は、太刀川青年の胸のなかにある。今はただ謎として、これだけを承知しておけばよいのだ。
それはともかく、太刀川のたてた計画は、順序正しく、はこびつつあった。
操縦室の停電も、それであった。
そして停電のすぐ後に、猿のようなものが、しのびこみ、ケレンコにちかづき、何事かしてまた出ていってしまったことも、その一つだった。
艇長が電話の受話器を通じて、何を聞いたか。「あと十分ののちに!」とは、なんのことであったか。それもまた、やはり太刀川の計画の一つだった。今や、その十分間の時間も、あと四、五分となった。それにしても太刀川が、リーロフの手から、たすけてやった中国人少年石福海は、今どこに何をしているのだろう。このさわぎがはじまってから、一度も姿を見せないのには、何かわけがありそうである。
「さあゆこうぜ、リーロフ」
太刀川は、顔色もかえず、大男のリーロフをかえりみていった。
「うん、ゆけ。貴様がさきへ」
リーロフは、注意ぶかい目つきで、太刀川の方にあごをふった。
「僕は鋼条とペンチを持つ、リーロフ、君は手斧だ」
「おれが手斧を持つのか。うふふふ。それはたいへんいいことだ」
リーロフは、意味ありげに笑った。斧の刃は、するどくとがれていて、切味がよさそうなのが、何だか不気味である。
「リーロフ、さあ、僕につづいて、すぐその天井の窓から、胴体の上へはいだすんだ」
翼のうしろに開く窓があった。そこから艇の胴体の外へ出られるのだった。太刀川は、ロープのはしを座席の足にしばりつけた。そして自分で窓をひらいた。艇員たちが、はっと顔色をかえるのをしり目に、さっさと艇外へはいだした。とたんに横から、張板のようにかたいはげしい風が、彼の体をぶんなぐった。飛行眼鏡さえ、もぎとられそうで、しばらくは目が見えなかった。風にあおられ、ぐーっと、体がもちあがるのを、一生けんめいにこらえて、胴体の上にうえつけられている力綱の輪をにぎる。
この力綱の輪は、胴体のくぼみに、はめこまれて、一列にならんでいるので、太刀川は、腹ばったまま、少しずつ前進しては、くぼみから、この力綱の輪をおこさなければならなかった。そして両手ばかりではなく、両方の足首も、この輪のなかにしっかり、かけておく必要があった。
「ひゃあ――」
というようなさけび声が、太刀川のうしろからきこえた。ふりかえってみると、大男のリーロフが胴体にしがみついて、はげしい風にふりおとされまいとして、力一ぱいたたかっている。
「おい、はやくこーい。この弱虫めが!」
太刀川は、リーロフをどなりつけた。
「うう、いまゆくぞ。なにくそ!」
風は、大男のリーロフにたいして、すこぶる意地わるだった。風のあたる面積が太刀川青年の体にくらべて、倍くらいもひろいのだからやりきれない。海底にもぐっては、いささか自信のある潜水将校リーロフも、空中ではからきし、いくじがない。
そのうちに太刀川の頭が、まがった方向舵にこつんとつきあたった。
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