おそろしい制裁
ダン艇長は、隣室の騒ぎを、まだ知らなかった。太刀川が扉をひらいたので、はじめて気がついたようであったが、太刀川は立ちあがろうとするダン艇長を、すぐさま手まねで押しとどめて、そして扉をぴたりと閉じた。
どんな話が、艇長室のなかでとりかわされたかわからない。
だが、それから、一、二分のち、ダン艇長は間の扉をひらいて、さりげない風で、たけり立つリキーの前にやって来た。
「おさわがせして、あいすみませんでした。どうぞリキーさん、その少年をこっちへお渡しください」
艇長は、おそれ気もなく、リキーによびかけた。
「な、なんだ。うん、貴様は艇長だな。貴様たちが、あまりだらしないから、こういうことになるのだぞ。さあ、どけ、おれがじきじき、この密航者を片づけてやるのだ」[#「やるのだ」」は底本では「やるのだ」]
「ちょいとお待ちください。あなたは密航者密航者とおっしゃいますが、その密航者は、どこにおります?」
「なんだと!」リキーは、眉をぴくりとうごかした。
「密航者はどこにいるかって? この野郎、貴様の目は節穴か。よく見ろ、こいつを」
リキーは、熟柿のような顔をしながら、片腕にひっかかえた中国少年の頭を、こつんと殴った。
「あ、その少年のことですか。それなら密航者ではありません」
「何を、貴様、そんなうまいことをいって、おれはそんな手で胡魔化されないぞ」
「いえ、本当なのです。その少年の渡航料金は、ちゃんと支払われているのです」
「馬鹿をいうな。おれはそこにいる艇員が、密航者だといったのを聞いたのだ」
「いや、それは何かの間違いでございましょう。この少年の渡航料金はたしかにいただいてあります。艇長が申すのですから間違いありません」
「そんな筈はない。一体だれが渡航料を払ったのだ」
「だれでもかまいません。あなたには御関係のないことです」
「なにを。こいつが!」
叫びざま、リキーが艇長におどりかかろうとした時、
「リキー、その子供をお放しよ」
それまで隅っこに風呂敷のような布をかぶって、だまっていたケント老夫人が、かすれ声でたしなめた。
「ううん。ちぇっ」
リキーは舌うちしながら、にわかに見世物の象のようにおとなしくなった。それでも、なにかぶつぶついいながら、小脇にかかえこんでいた中国少年を、床のうえにどすんと放りだした。
「あっ」といって、中国少年は、その場に倒れた。
太刀川時夫は、そうなるのを待っていたかのように、前へすすみ出て、中国少年をおこしてやった。
「もう泣かないでもいい、こっちへおいで」
「?」
中国少年は、びっくりしたような顔をして、太刀川青年を見あげた。
「さあ、僕のとなりの四十九番の席にかけなさい」
太刀川は、汚れきった中国少年に眉一つゆがめず、やさしくいたわって、座席へつかせてやった。
太刀川は、ダン艇長にたのみ、料金を払って中国少年をたすけてやったのであった。
これで密航者の問題は無事におさまったが、おさまらないのは、厄介な酔っぱらいリキーであった、よろよろと立ち上ると突然、
「やい」
と叫んでどすんと腰を下した。
「やい、よくも貴様は、おれの邪魔をしやがったな。よーし、今にみていろ、吠面をかかしてやるからな」
いいながら又立ち上ろうとする。と、ケント老夫人が又たしなめた。リキーはしぶしぶ腰を下したが、いまいましそうにこちらを睨みながら、時々何事かつぶやいていた。
太刀川は、たいへんなお客と乗り合わせたものだと思った。
中国少年は、彼にたすけられて、すっかり安心したものか、すやすやと安らかな鼾をかきはじめた。
怪しい透視力
密航少年事件が、曲りなりにもおさまったので、ダン艇長は、艇員たちをつれて、自室にひきあげた。
「どうだい皆。二人組の共産党員の心あたりはついたかね」
「はい、私の受持の部屋には、怪しい者は見当りませんでした」
「私の受持でも、駄目でした」
「そうか。じゃあ、皆、獲物なしというわけだね」
ダン艇長の顔には、深い憂の皺がうかんだ。その時、
「艇長」
とよびかけたのは、事務長だった。
「何だ」
「あの本社からの秘密無電に、誤りがあるのではないでしょうか。もう一度、本社へたずねてみては、いかがでしょう」
「そうだね。いや、もっともだ」
艇長はうなずいた。彼は通信長を電話によび出し、
「おい、すぐ本社へ無電連絡をたのむ。なに、天候状態がわるくなったって、それは困ったね。だが大事なことだから、なんとかして、至急本社と連絡をとってくれ」
艇長は、電話機をかけた。
「天候が悪くなったそうだよ」
「そうですか」
と事務長は、丸窓から外をのぞいてみて、
「ああ、あそこへ変な雲がでてきました。不連続線のせいですよ。一荒れ来るかもしれません」
艇長も外に目をやった。なるほど、南の方から、まっ黒な雲がむくむくとのぼってくる。
「海の上の気象は、これだから困る。操縦室へ、注意をしてやれ、それから事務長、マニラへ無電をうって、すぐさま近海気象をたずねてくれたまえ」
「はあ、ではすぐ連絡方を、通信室へいって頼んできましょう」
事務長は、腰をあげて、艇長室を出ていった。急に時化模様となったので、他の艇員たちも、それぞれ自分の持場へ帰っていって、艇長室には、ダン艇長一人となった。
彼は心配そうに、窓の外をながめている。
「こいつはなかなか手ごわい雲行だぞ。すぐに針路を変えなきや、危険だ」
艇長は、操縦室と書いたボタンを押して、電話機をとりあげた。
「おお、操縦長か。あの雲を見たろう。針路をすぐに北へ四十度曲げてくれ」
「北へ四十度。するとマニラへはだんだん遠くなりますが――」
操縦長の声であった。
「仕方がない。このままマニラへ近づくことは、あの黒雲の中の地獄へ近づくことだ」
「はい。ではすぐ」
「そうだ、そうしてくれ。そして当分全速力でぶっ飛ばすんだ、嵐より一足先にこっちが逃げちまわないと、たいへんなことになる」
どこまでも不運なサウス・クリパー機であった。兇悪な共産党員に乗りこまれている上、いままた悪天候に追いかけられることとなった。艇長は、乗員の安全をはかるため、いままで目的地のマニラへ向けていた針路を、ぐっと北へ変えた。
すると、マニラに到着するのは、何時になることやら。
「小父さん。外はひどい嵐になったよ」
太刀川時夫は、だしぬけに中国語でよびかけられて、はっと目を覚ました。彼は睡ってはならないと思いつつ、いつの間にか、うとうととしたのだった。
声のする方にふりむくと、すぐ鼻さきに、中国少年の汚れた顔があった。
「ああお前か。あははは、すっかり気がおちついたようだね」
「小父さん。今しがたこの飛行艇は左の方へ向をかえたよ」
「はははは、そうか。ところで僕をつかまえて、小父さんはすこし可哀そうだが、お前はなんという名かね」
「おれの名かい」
「そうだ」
「石福海というのだ。こういう字を書くんだよ」
少年は、掌のうえに、指さきで文字をかいてみせた。
「なるほど石福海か。福海にしては、ちとみすぼらしい福海だね」
その時であった。少年は太刀川の脇腹をぐっと突いた。
「小父さん。悪い男が、部屋を出てゆくよ」
「えっ」
彼は、顔をあげて、室の出入口を眺めた。出入口の扉を押して、ケント老夫人が出てゆくところだった。酔っぱらいのリキーを座席にのこしたまま!……
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