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金博士のために、第二二二号の船室が明けられた。
「これは至極覚えやすい船室番号じゃわい」
博士は、又ぞろ三つのトランクをひっさげてその部屋に移った。ボーイが、そのトランクを持とうとしたら、博士は奇声を発して叱りつけたことだった。
間もなく夜となった。
そのうちに、船首でえらい騒ぎが起った。舳で切り分ける波浪が、たいへん高くのぼって、甲板の船具を海へ持っていって仕様がないというのであった。そのうちに水夫が三名、船員が一名、その高い浪にさらわれて行方不明となった。
舳で切り分ける波浪があまり高くて、そのために船員や船具がさらわれたと報告しても、知らないものは信用しなかった。
「なにしろ波浪が、檣の上まで高くあがるんだぜ」
「冗談いうない。どんな嵐のときだって、舳から甲板の上へざーっと上ってくるくらいだ。檣の上まで波浪が上るなどと、そんな馬鹿気たことがあってたまるかい」
「いや、その馬鹿気たことが現に起っているんだから、全く馬鹿気た話さ」
そんな騒ぎのうちに、船橋でも秘かなる大騒ぎが起っていた。
「どうも不思議だ。機関部は十五ノットの速力を出しているというが、実測するとこの汽船は四十五ノットも出ているんだ」
「そうだ。たしかにそれくらいは出ているかもしれない。機関部の計器が狂っているのじゃないか」
「どうもあまり不思議だから、今機関部に命じてノットを零に下げさせているんだがね」
そのうちに機関部からは、機関の運転を中止したと報告があった。
「なに、機関の運転を中止したって、冗談じゃない。今現に実測によると本船は四十ノットの快速力で走っているじゃないか」
「惰力で走っているのじゃないですか」
「そうかしらん」
といっているうちに、実測速力計の針は、またまたぐいっと右へ跳ねて、速力四十八ノットと殖えて来た。
「いやだね。エンジンが停って、速力が殖えるなんて、どうしたことだ。おれはもう運転士の免状を引き破ることに決めた」
「いや、俺は気が変になったらしい」
「わしは、もう船長を辞職だ」
わいわいいっているうちに、とつぜん大きな音響と共に、船体はひどい衝動をうけ、ぐらぐらと大揺れに揺れたかと思うと、今度はぱったり動かなくなった。
さあたいへん。頭が変だと思っていた船員たちは、周章てて跳ね起きると甲板へとびだした。
すると、何というべら棒な話であろう。汽船の前には、美しい花壇があった。又汽船の後には道路があって、自動車がひっくりかえっていた。右舷を見れば、町であった。左舷を見ればこれも町であった。これは変だ。やーい、海はどこへいった。
船員たちは、一同揃いも揃ってダブルで気が変になりそうであったが、中に気の強い者もいて、本船の位置について鮮なる判定を下した。
「おい、何といっても、これは、わが汽船は○○港の陸上へのしあげたのだよ。ここは○○市だ」
「そんなべら棒な話があるかい。○○港なら、まだ二日のちじゃないと入港できないんだ」
「馬鹿をいえ。お前たちの目にも、ここが○○市だってぇことが分るはずだ。ほら向うを見ろ。幾度もいってお馴染みの木馬館の塔があそこに見えるじゃないか」
「ははん、こいつは不思議だ。あれはたしかに木馬館だ。するとやっぱり本当かな、わが汽船が○○市に乗りあげたというのは」
そんなことをいっているところへ、船室から金博士が現れた。例の三つのトランクを軽々と担いで、舷を越えて、花園へ下りようとするから、船員がおどろいて博士の傍へ飛んでいった。
「そんなところから降りてはいけません。第一、まだ税関がやってこないのです。トランクの中を調べないと、上陸は不可能です」
「厄介なことを云うねえ。じゃ、今開けるから、お前ちょいと見て置いて、後で税関へ見せるようどこかへ書いておいて貰おう。さあ見てくれ」
そういって金博士は、まるで箱師がトランクを開くような鮮かな速さで三つのトランクをぽんぽんぽんと開いてみせた。
「さあ見てくれ」
云い出したからには、事務長、勢いよく赴くところ、何とも仕方がなく、開かれたトランクの内容如何と覗きこんだ。が、途端に怪訝な面持で、
「もしお客さん。これは税金が相当懸りますぞ。いいですか」
「税金なぞかかる筈はない。全部身のまわりの品物だ」
「そうともいえませんね。だって、身のまわり品である筈の洋服もシャツも歯ブラシも見当りませんですぞ。詰め込んであるのは、ラジオの器械のようなものに、ペンチに針金に電池に、それから真空管にジャイロスコープに、それからその不思議なモートルにクランク・シャフトに発条にリベットに高声器に……」
「いくら数えてもきりがないから、もうよしたらどうじゃ。要するに右に述べたものは全部わしの身のまわり品だから、誤解して貰っては困る」
「尤も、新品はないから、商品じゃないということは分ります。ではよろしゅうございます。品名だけはノートして置きますが、まず此場は税金を懸けないで、お通り願うということにいたしましょう」
「ほう、漸く話がわかってきたね」
博士は、その場に引き散らかされた道具を一生けんめい掻き集め、トランクの中に入れて、蓋をした。そして軽々と肩に担いだのであった。
「ちょっと待ってください。何だか空のトランクを担いでいられるように見えますね。どれ、ちょっと持たせてみせてください」
事務長がそのトランクをさげてみると、なるほど空のトランクのように軽い。
「はて、面妖な。あれだけ重い道具を入れて、こんなに軽いとは、まるで手品みたいだ。お客さん、あなたは早いところ、あの道具類をトランクから抜いて、どこかへ隠してしまいましたね」
「冗談いっちゃ困るよ。あの身のまわり品はちゃんと中に入っているよ。ほら、このとおり……」
金博士は、わざわざ三つのトランクを、もう一度開いて事務長たちに見せてやった。
道具類は、ちゃんとぎっしり詰まっていた。
「おかしいな」
事務長は、その中から、小型のモートルを選んで、取り出した。
「おや、このモートルの重さだけでも、トランクより重いくらいだ。すると、或る重いAなる物品を入れたトランクBの総重量AプラスBプラスアルファは、元のAよりも軽い――というのは、どういう算術になるのかしらん。どうも式が成立たんように思うが」
「おい事務長さん。お前さんは中学校で算術の点が優か秀だったらしいね」
と博士はいって、
「だが、わしのトランクに関するかぎり、そのような純真な算術は成り立たないのだよ。忙しいから説明をしていられないが、しかしこれは事実なんだ。つまり、AはAプラスBプラスアルファよりも大なりという場合が有り得るんだ。この解法がお前さんに分ったら、お前さんに人造モルモットを一匹、褒美にあげてもいいよ」
「へえ、そうですかね。しかし私には、とても分りません。なんとか今、説明していってください」
「そうかね、聞きたいかね。それじゃちょっと説明しようかね」
先を急ぐ筈の金博士は、そこで急にのんびり腰を据えてしまって、
「いいかね。ここにABCDEなる五つの部分品があったとする。いずれも、重さは十キロずつとして、合計五十キロの重さのものだったとする」
「はい、その算術は分ります」
「ところが、そのABCDEの部分品を一処にして測ると、総重量がたった二十キロしかないんだ」
「そこがどうも分りませんなあ。一つ十キロのものが五個あれば、どんな場合でも総量は五十キロです」
「ところが、それが何とかの浅ましさというやつなんだ。いいかね。ABCDEの部分品をばらばらにして置いて一々測ると総計五十キロある。これはよろしい。その部分品を組合わせて測ると、これがなんと二十キロになる――という場合は、只一つある。それは、その部分品で組立てた器械が、重力打消器であった場合だ」
「え、重力打消器というと……」
「つまり、重さの源である重力を打消す器械のことを、重力打消器というのだ。つまり五十キロの部分品から成るその重力打消器は、組立てられることによって、三十キロの重力を打消す性能のものだったんだ。だから五十キロ引く三十キロで、残りは二十キロと出る。どうだこの算術は間違いなしによく分るだろう」
「うへーッ、こいつは愕きましたな」
と、事務長は目を丸くして、
「それで何ですか、貴下のお持ちになっている三つのトランクの内容物は、いずれも重力打消器の全部分品なんですか。で、何でまあ重力打消器を三つも、ぶら下げて歩かれるのですか」
「折角だが、お前さんの想像力は、すこしばかり弱いよ。わしのトランクの中に入っている身のまわり品は、必要とあれば重力打消器を組立てることも出来るし、また必要とあらば、ラジオ送受信機としても組立てられるし、又或る場合には兵器――いやナニムニャムニャムニャ――で、つまりその又或る場合には、喞筒みたいなものにも組立てられるのだ。どうだ、魂消たか」
「へー、さいですか。こいつはいよいよ愕きましたな。そしてお話を伺っていると、そのトランクがだんだん欲しくなってきましたが、いかがですか、その一つを私にお分け下さるわけには……」
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