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赤耀館事件の真相(せきようかんじけんのしんそう)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-25 5:53:42  点击:  切换到繁體中文



        証明書

勝見伍策
明治三十一年九月九日生
 右ハ本療養所患者ニシテ七月三十日ハ其ノ病室ニ在リテ正規ノ療養ニ尽シタルコトヲ証明ス


「そんなことがあり得るだろうか。この勝見の現場不在証明アリバイは、この証明書から最早絶対に疑うことが出来ない。しかも綾子夫人は七月三十日にあのような死に方をしている。夫人を殺したのはどんな男だ? それは全く手懸りがなくなった。夫人の毒死が判り、一夜を明した男のあるのも判っているのにもかかわらず、この事件は又、遂に結論を『自殺』へ持って行かねばならないのか。自分の直感は、この平凡な結論を嘲笑ちょうしょうする。その男が流しの殺人犯人だとも考えられない。鳴呼ああ、自分の頭脳は全く馬鹿になってしまった」
 尾形警部は、刑事の居るのもうち忘れて、机の上に顔を伏せると声をあげて泣き始めました。翌日から警部は病気と称して引籠ひきこもってしまったのです。それで嫂の死は、自殺であると見做みなして一先ず事件の幕は閉じられてしまったのです。
 百合子は赤耀館にさびしい不安に充ちた生活をしていました。彼女は、ここを立ち去る力もなく、ただ八月の月半ばまでには帰って来るであろうところの私を待ちびていたのです。その待ちに待たれた私は、八月の月半ばは愚かなこと、九月の声をきくようになっても、赤耀館に姿を見せませんでした。ただ、門司から「帰国はしたが、用事が出来たため赤耀館へ帰るのはすこし遅れる」という簡単な電文が百合子の許に届いたばかりでありました。
 十月の声を聞くと、満天下の秋は音信おとずれて、膚寒い風が吹き初めました。赤耀館の庭のあちこちにある楓の樹も、だんだん真赤に紅葉をして参りました。百合子は突然、二人の訪問客を受けて近頃にない驚きを覚えました。その内の一人は、永らく休職していた筈の尾形警部であったのです。
「お嬢様、今日は私の友人を連れて伺いましたよ。赤星五郎という、実は私立探偵なのです。例の事件について深い興味を持っている人で、今日は改めて赤耀館や、実験室を拝見させて頂こうと思って参上しました。赤星君、こちらが百合子さんと仰有るお嬢様です」
 百合子が紹介を受けた赤星探偵は、まだ年の頃は、三十になるかならぬかの若さでした。後に長く垂れ下った芸術家のような頭髪かみと、鋭い眼光を隠すためだろうと思われる真黒な眼鏡とが、真先に印象されたのでありました。百合子は、尾形警部ともあろうものが、私立探偵などを引張って来たことを、可怪おかしく思いながら、家の一間一間を、案内して歩きました。赤星探偵は、ただフンフンと聴問しているばかりで、あまり機敏らしい様子もありません。しかし三人が兄の死んでいた実験室に入って行ったとき、百合子は初めて、赤星探偵の凡人でないのを了解することが出来ました。
「尾形さん。貴方は、大変な事実を見落していなさるよ」赤星探偵は椅子に腰を下したまま、すこし緊張に顔を赤らめてそう言ったことです。
「赤星君、君は何かを発見したかネ」
「発見したとも。犯行も、犯人も、まるで活動写真を見るように、はっきりと出ているじゃないか」
「冗談はよしてくれ、まさかそんな馬鹿なことが……」
「では兄は誰かに殺されたのでございますか?」百合子は、たまりかねて、こう質問しました。
「勿論、殺されたに違いありません」と赤星探偵は黒い眼鏡をキラリと光らせ乍ら、静かに言ったのです。「犯人を見出す見当はついたのです。そうですな、もう三十分もすれば、すっかり説明をしてあげます。尾形さん、もう十分もたてば、例の通り打合せて置いたから、この室へ電気が通ずるだろう。そうすると、あの配電盤の真白い大理石の上に、赤い電球が点くから、あなたはそれを注意していて下さい。その前に私は計算をしなければならないので、一寸失敬するよ」
 こう言って赤星探偵は懐中から広い洋紙と、細長い計算尺と、それから掌に入りそうな算盤そろばんとを出して卓子テーブルの上に並べました。それから、つと立ち上ると、兄の死んでいた場所の近くに、壁にとりつけられてあった自記式オートグラフィックの気温計、湿度計、気圧計の中を開いて、白い紙が部厚にまかれたものをとり出しました。その巻紙の上には、時々刻々の気温、湿度、気圧が、紫色の曲線で以て認められてあったのです。尾形警部は意外な面持で声をかけました。
「そりゃ君、犯罪となにか関係があるのかネ?」
「判りきったことを聞くじゃないか。犯人も自分の画像がこんな無神経な器械の中に、自記セルフレコードされていようとは思っていなかったろう」
「どこにか写真仕掛けでもあって、犯人の顔がうつっているのかい」
「じゃないんだ。ほら見給え、この紫の曲線を。こいつを飜訳して見ると、犯人の画像が、ありありと出て来ようという寸法さ。しばらく質問を遠慮して呉れ給え」
 赤星探偵は、紫の曲線を睨みながら、計算尺を左右に滑らせたり、紙の上に数字を書きとめたり、算盤をパチパチとはじいたりしていました。そうかと思うと、急に立上って入口の方へとんで行き、捲尺を伸して入口の寸法をとったり、空気ぬきの小窓の大きさを調べたりするのでありました。尾形警部はこれをうち眺め、唯もう目をパチパチするばかりで、探偵から言いつかった配電盤の上を注意することさえ忘れているようでした。
「どうしたんです、尾形さん。パイロットの赤ランプが点いているじゃありませんか、さあこれから、すこし面倒な実験をやります。尾形さんは、私の言ったように、外に居て、私達の持って来たX線の装置を壁に添い、静かに動かして呉れ給え。此の室は暗室にして、私が独り居ましょう。お嬢様は外へ出ていらっしゃってもよろしいし、おいやでなければ此室に居て下さい。なにか面白いものをお目にかけられるかもしれないのです」
「私はこの室に居とうございますわ」
「そりゃ勇しいことですな。ですが、私の許しを得ないで無暗に動き廻ると、X線を浴びて石女うまずめになるかも知れませんよ。はっはっ」
「まア」
 赤星探偵は時間を打ちあわせ、尾形警部を外に出しました。いつの間にこの建物の外にはこんで来たものか、そこには一台の移動式X線装置が置かれてありましたが、警部は時計を見つつ、心得顔にスイッチを抑え、抵抗器の把手ハンドルを左右へまわすのでした。ジージーと放電の音響がきこえ、X線は実験室の壁をとおして内部へ入ってゆくようでした。暗室の内では、なまり前垂まえだれをしめた赤星探偵が、大きな石盤のような形をした蛍光板けいこうばんを目の高さにさしあげ、壁とすれすれにそれを上下に動かしています。探偵の夜光時計が二分を刻むごとに、彼は一歩ずつ左へ体をうつし、前と同じような恰好かっこうで蛍光板をのぞきこむのでありました。時には手をのばして蛍光板と壁との間にさし入れ、鉛筆でなにやら壁の上に印をつけているようでした。二十分もすると実験はず終了しました。黒い毛繻子けじゅすのカーテンを、サッと開きますと、明るい光線がパッとさしこんで来たので、百合子は頭がくらくらしたので両眼を閉じました。やがて静かに眼を開いてみますと、壁の上に鉛筆で黒々といたずら書きのしてあるのに気がつきました。それは下手へたなデッサンを見るように、首から上のない人間の形のように見えました。
「赤星さん、それはなんでございますの?」といぶかしそうに百合子が訊ねかけたとき、表から尾形警部が入って来ました。
「どうだね、うまく出たかしら」
 赤星探偵が黙って指した方を見た警部は、
「フーム」
 と首をかしげて何か考えているようでしたが、
「こりゃ君、婦人じゃないか。それも、綾子夫人の身体と同じ位の大きさだ」
「お嬢様、亡くなった奥様の洋服を一着、借して頂きとう存じます」
 と赤星探偵が言いました。
 本館からとり寄せた綾子夫人の洋服を、この壁の上にしるし出された人型ひとがたの上に重ねてみますと、正しくピタリと大きさが合うではありませんか。肩胛骨けんこうこつ臀部でんぶのあたりは特によく一致していました。
「お嬢さん、不思議なことを御覧になったでしょう。私達の試みは今のところ、半分は成功し、半分は失敗に終りました。成功の方の半分を、尾形さんと共にきいていただきたいと思います。――私は尾形さんに事件の内容を伺ってから、これは実に恐ろしい殺人鬼の仕業しわざであることを知りました。尾形さんも、そうは思っていられるものの、証拠が見付からないのでとうとう休職まですることになったのです。私は犯人があまりに用意周到なる注意を払っているのに驚きました。しかしそれは犯行を否定するような結論を導き得たのにも係わらず、皮肉にもかえって犯行のあった疑いを深く抱かせるようになりました。
 先ず、私がこの室にはいってから発見した事実が二つあります。
 それは、失礼ながら、尾形さんに不足している専門知識から初めて見出すことの出来るものなのでした。その第一は、この室の壁にかけられた自記式オートグラフィックの寒暖計、湿度計、及び気圧計の中にのこされてある犯行当時の記録なのです。今、六月二十九日の午後九時前後に於ける此の室の温度と湿度と気圧の記録をぬき出して一枚の紙の上に書き並べてみますと、こんな具合になりました。(と、別紙のような曲線図を示す)九時前後に於て三曲線は特異な変化を表わしているではありませんか。私共にとって幸いなことには、当夜、東京附近は急激なる気象の変化をうけたものですから、室内と室外の気象状態にすくなからぬ懸隔けんかくができたため、実にいちじるしい曲線の変化が起ったのです。この曲線の左の方を見ますと、横軸に記された通り、午後八時五十五分、五十六分、五十七分の附近では、湿度と気温はぐんぐん昇っているのに反し、気圧はだんだん下っています。しかしこれ等の変化はまことに円滑スムースに動いています。しかるに八時五十八分になって、三曲線が折れたような変化をしています。湿度のごときは急に昇り、温度も著しく上を向き、気圧は急降しています。これは何を意味するかと言いますと、此の室のドアを開けたため、室内へ室外の気象状態がサッと浸入して来た結果、ひきおこされたわけなのです。五十九分頃には三曲線は、再び同じ位の傾斜で動いています。扉がすぐに閉じられたため、室内の気象の変化は、また前のように立ちかえったせいでありましょう。ただ、室内温度がやや著しい上昇ぶりを示しているのは、この室に新たに人が入って来て、それも割合に温度計の近くにいたためか、それとも中の機械を運転したためにその各部から発散される熱量の影響であるかの、いずれかです。私の推測では、五十八分に入って来たのは丈太郎氏であり、時報タイム・シグナルをうけるために室内に電灯を点じ、無線送受信機が動作を始めたせいだと思っています。

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