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その次の朝のことだった。
帆村荘六は早く起き出ると、どうした気紛れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな扮装になった。
しかし別にクラブ・バッグを引張り出すわけでもなく、細い節竹のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。忌わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、麗かな陽春の空だった。
彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に脹れぼったくなった顔を見ると、斯う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に喚いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた報せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで軽蔑したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を弾ませながら問いかえした。
「浅草の石浜というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は岡見桃枝という女で、男というのが……」
「男というのが?」
「深山理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
課長は余程口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような泪をポロポロ滾した。
「そうですか」帆村も泪を誘われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「視えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。――ところが其の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は兎に角、見に行って来ます。あれは日本堤署の管内ですね」
課長は黙って肯いた。
警察へ行ってみると、現場はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて貰うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した道程ではなかった。彼は捷径をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、田中町の方へ足を向けた。震災前には、この辺は帆村の縄張りだったが、今ではすっかり町並が一新してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、行く手を見えなくした。彼は忌々しそうに舌打ちをして、大田中アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
見ると、アパートの高い非常梯子に、近所の人らしいのが十四五人も載って、何ごとか上と下とで喚きあっているのだ。
「どうしたんです」
帆村は道傍に立っている人のよさそうな内儀さんに訊ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い眉を顰めると、赤い裏のついた前垂を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか莫迦に臭い臭いと云ってましたが、その死骸のせいなんですよ。まあ、いやだ」
内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ唾をはいた。
「じゃ、よっぽど永く経った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは見遁せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは潮さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで……」
「その潮さんというのは、若しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を掻き合わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は駭いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない……」
その言葉の終らないうちに、帆村は向うから飄々とやってくる潮らしき人物の袂を抑えていた。
「潮君」
「呀ッ」
青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い韋駄天を追駈けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、遂に組打ちが始まった。そのとき青年の懐中から、コロコロと平べったい丸缶のようなものが転げ出て、溝の方へ動いていった。
「ああ――それは……」
と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ損をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
ああ、フィルムといえば、身許不明の轢死婦人のハンドバッグに、フィルムの焼け屑があったではないか。
帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして遁げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を緘んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは極力否定した。
あとは本庁で調べることとし、意気昂然たる老判事は、潮十吉と帆村とを伴って、警視庁へ引上げた。
今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画検閲室で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ万事よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。
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