海野十三全集 別巻1 評論・ノンフィクション |
三一書房 |
1991(平成3)年10月15日 |
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷 |
1991(平成3)年10月15日第1版第1刷 |
人造人間――1931年型である。
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人造人間とはどんなものか。
人造人間とは、人間が作った人形で、そいつは、機械仕掛けで、人間の命令どおり、忠実に根気よく働く奴だ。
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さて、その人造人間が、ようやく、その存在を認められかけて来たようだ。
本誌「新青年」の新年号に、「人造人間殺害事件」という探偵小説が出たのも、その一つ。前号には畏敬する直木三十五氏の「ロボツトとベツドの重量」というのが出た。
すこし前に、東京上野の松坂屋で、1999年の科学時代の展覧会があって、そこに人造人間が舞台に立ち、みなさんと交歓した。
今年の正月には、朝日新聞の招聘で、人造人間レマルク君が独逸から、はるばるやって来て、みなさんの前に、円満な顔をニコニコさせて御挨拶があった。
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二月一日の東京朝日には、宮津電話として次のような記事が載っていた。
「ロボット流行時代であるが、京都府宮津中学校の四年生岡山大助君という少年が今度、人造犬を発明した、これは犬の腹中に電話器、モートル、電磁石、高圧器、真空管、スピーカー等を材料にして、でっちあげた機械がしかけてあるので、大助君の先生も手伝った。この人造犬は、足音をさせたり口笛を吹いたりすると、その音が送話器から電流を通じてモートルに働きかけ、その結果として犬は後退りをしながら「ウーウー」とうなる。うなり声はスピーカーによって大きくもなれば小さくもなる。というから泥棒よけにはあつらえ向きだ」とある。
いよいよ、油断も、隙もならぬ世の中となってきた。
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この種の人造人間は、いつから人間の脳裏に浮びあがったかというと、それは随分と古いものらしい。ギリシャ神話の中にもそれがあったように思う。
エデンの園で、アダムの肋骨を一本とってそれからイヴという美しい女を作り給うた、というのは、形式的には神様のなせる業ではあるようなものの、その考えは、無論、人間の頭脳から発生したことは言うまでもない。
古事記によると、我が国の神達は、盛んに国土を産み、いろいろ特殊の専門というか、技術を弁えられたさまざまの神々達を産むことに成功し給うたと書いてある。これも、人造人間の思想と見てさしつかえないであろうと思う。
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幼いとき、小学校の「山羊」という綽名のある校長さんから、面白いお伽噺をして貰ったが、その中で、最もよく覚えているのは、こんな噺であった。
宝を探しに行く兄弟のうち、末の弟は大変情けぶかい子であったが、それがために、秘術を教わった。その秘術というは、なんでも木片をナイフでけずって、小楊子みたいなものを造り、それを叩いて「動け!」というと、その木屑が、起ちあがってヒョックリ、ヒョックリ躍り出す。そのとき、もう一度、それを手で叩いて、「成れ!」というと、その木屑の一つが、立派な一人の兵士になるのである。その兵士を連れて、反逆者の悪臣どもを退治して、宝とお姫様とを貰うという筋であった。これも木屑で、思いどおり、兵士をつくりあげるところが、人造人間の思想である。
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西遊記の中に、孫悟空が、自分の毛をひとつかみ引きぬき、これに呼吸をかけてフウーッと吹きとばすと、ああら不思議、その数だけの小猿になったという話がある。これは人造人間でなくて、猿造猿公であるが、これも同じ思想である。
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こう云う類の人造人間は、伝説などの中から拾い出せば随分沢山にあることだから、この位にして置こう。
その次に、人造人間として、「人形」というものを見落してはならない。
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これは、我が国では、埴輪人形の昔より、人間や、人間が愛していた動物などの形をつくって、それが生埋めになることからのがれさせて呉れたのであるが、その後、愛玩物としての人形が発達した。
その中でも異色のある人形は、案山子と、左甚五郎作の京人形とであろう。
案山子は、雀や烏を相手に、「おれはお人間さまだぞ。近寄って大事な稲を食うと、からき目にあわせてやるぞ」と威張ったが、雀の方では、二三度は鳴子というトーキー式演出に驚かされたが、早くも、それが人造人間であることを看破し、その後は案山子の上に糞をしかけるという仇討まで、やらかした。
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京人形は、伝説ながらも、完全なる人造人間として、その頃まではスタティックな人形が、遂にダイナミックな人形となって、左甚五郎氏に奉仕したのであった。
これに類したものでは、泪で床の上に画いた鼠が、本物の鼠になったとか、屏風の虎がぬけ出したとか、襖の雀が毎朝庭へとび降りて餌を拾った、などという話もある。
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人形のうまく出来上ったものには、魂が入るのだといい、江戸川乱歩氏は、「人でなしの恋」を書かれて、人形に恋した男が蔵の中で、人形とホソボソ睦言を囁き、あげくの果は、美しい夫人を残して、その人形と情死するという筋を描かれた。
花屋敷には、普段の入場客と寸分たがわぬ人形が園内に置いてあって、奇怪なエピソードを幾度となく作っている。
独逸のボッヘ誌によって、昨年紹介された独逸の名人形師の家に、ずらりと並べられた身体の真白な女性の人形をみていると、なんだか、妙な興奮と、寒気を覚えたことであった。
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さて、今日云うところの人造人間の方は、今のところ、甚だ志操堅固な、いわゆる堅造ばかりで、性的サーヴィスをやって呉れるのは、ないようである。
今日の人造人間をはじめ、多くの人造ものを産んだのは、このところ五十年ばかりの間に、異常な発達をとげた電気工学、物理化学のおかげである。
人造人間は、まず措くとするも、人造絹糸、人造酒、人造染料、人造肥料、人造光線、人造真珠、人造宝石、などと、数えてゆけば、きりがない。これ等の造品は、天然物の模造として代用品の役目をつとめるばかりではなく、天然物より勝れた点を多く持っている。人絹だと最初は、軽蔑せられた人造絹糸も、今日は天然絹糸と肩を並べて工業界に進出し、天然絹糸と人造絹糸とは、製品としての分野がはっきりわかれ、お互に持ちつもたれつの発展をつづけている。
人造染料が、天然染料よりも遥かに優秀な成績をあげていることは、これまた愉快なことである。
人造光線というのは、ビルディングが発達すると共に、ますます需要が多くなるだろうと思われるが、これは大きい広間の天井を擦り硝子張りとして、その上に太陽のスペクトルと同じスペクトルの電灯を点じて、あたかも、その広間の上は青天井で、雲雀でも舞っていそうな感じが出るのである。これなどは、たしかに執務の能率をあげるものとして、ますます需要が高くなってよい。四十階のビルディングの、その何十何階かに、小さくなっておしこめられていることが、ハッキリわかるのは全く面白くないことである。錯覚でもよいから、春の和やかな陽あたりを感じ、雲雀の舞いあがる気配を感じたい。
だが、こうした人造ものは、どうも話が面白くないので、この辺でやめることとし、人造人間の方へ方向舵をむけることにしよう。
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楽屋落ちの昔咄を一つ。
それは今から七年ほどの昔に、本誌に御馴染の延原謙氏が、人造犬や人造人間を題材にした小説を発表せられた、と云うと鳥渡、僕達には面白いことなのである。その小説の名は「電波嬢」というのであって、これは延原謙氏も未だに御存知ないことだろうが、僕がその小説の挿絵を画いたのである。
いつも僕は自分で小説を書いてしまうと、あとはその小説にどんな挿絵が画いてもらえたかと、それが恋人を待っているように、待たれるのである。自分の描想以上に、描かれた人物の性格などが、はっきりと出ていたりすると、その日一日は、顔の造作を崩して、自分でも恥かしいくらい、喜ぶのである。
延原氏が、僕と同じ考えを持っていられるかどうかは知らないが、若し同じ考えをお持ちならば、僕の画いた挿絵は、すくなくとも氏を二三日立腹させて置くに充分だったろうと思い、妙な場所柄ではあるが、ここに謹んで、お詫び申上げておく次第である。
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