第三景 受験生の親達
△遠くでラジオが聞えだす。(浪花節か義太夫か)
受験生の母親 えー、頭足類はたこに、いいだこに、ま烏賊、するめ烏賊、やり烏賊の五つ。この頭文字を読むと、たいますや。えー次は、腹足類、これは四つ、あわびにとこぶしに、さざえ、たにし、この頭文字を読むと、あとさた。えー、たいますやに、あとさた……。
△この辺で大きな鼾の音が聞えだす。
母親 えー次は斧足類。蛤に蜆に……。
△鼾が一段と高くなる。
母親 あーら、なんでしょう。ああ鼾だわ。誰の鼾でしょう。お父さんはまだだし、ねえやは留守だし、するとーすると道夫かしら。あ、道夫だ。受験準備の勉強を怠って居睡をするなんて、まあ情けない人ね。
△音響、畳をけってたち、隣室の襖をあける。
母親 まーあ、道夫、なぜ居睡なんかするんです。そんなことじゃあ、高等学校の入学試験が受かりませんよ。さあ起きなさい。元気を出して。
道夫 ああっ、ああーっ。今日は睡いなあ、お母さん、今日は体操の時間にうんと駈足をしたんで、睡いんですよ。
母親 あーら、そうかい。困ったね。まだやらなければならない問題がうんとあるんだよ。一晩に七十五題はやるようにしないと、入学試験までにとても受験書を皆すませやしないわ。元気を出してよ。お母さんは拝むから。
道夫 だって睡いんですよ。脳髄がまるでよそから借りてきたみたいで、ちっとも働かないんです。
母親 まあ、いけないわねえ。じゃ仕方がない。頭を悪くしちゃだめだから、今日はもうお寝みなさい。ぐーっと睡るといいわ。睡眠剤をのんでやすむのよ。いいかい。
道夫 (いよいよ睡そうに)えーえ、あーあー、
△蒲団を出す音。母親は襖をしめて、もとの茶の間にかえってどさりと座る。
母親 本当に道夫に代ってやりたいわねえ、あたしなんかちっとも睡かないわ……さあ、もっと先を勉強しておきましょう。道夫がどの位勉強したかを験すのは、あたしが道夫以上に、何でも覚えてなくちゃいけないんだわ、一人子の母親って、誰でもこんなにやきもきするものかしら。(気分をかえて)えー斧足類は蛤に蜆に牡蠣、あさり、あげまき、帆立貝、赤貝、ばか貝。
△音響、格子ががらがらとあく。(父親の帰宅)
父親 なんだ。赤貝にばか貝か大変な御馳走だな。しかし、ばか貝は止してくれ。青柳という粋な名があるじゃないか。
母親 お帰りなさいまし。あなた、御飯はもうお済みになりましたの。
父親 どういたしまして。これから洋服をぬいで、そこの長火鉢の前で御馳走になるてえ順序でござんす。
母親 まあ……。
△洋服をぬぎ、洋服かけがちゃつく。同時に膳部の仕度の音、薬鑵、飯櫃の音。
母親 さあ、どうぞ。
父親 よお、どっこいしょ、と……ああ道夫はどうした。
母親 あのう、たいへん睡くて、脳髄がお豆腐のようになりそうだと、こう申しますので、お先に寝かしてやりました。
父親 おおそうかい。道夫も此頃受験準備で、可哀想な位つかれているね。すぐ寝かしてやったとは、お前にしちゃ大出来だ。
母親 さあ、どうぞ。
父親 ああ。山盛よそってくれ。ああ腹が減った。
△音響、茶碗を盆にのせる音。つづいて飯櫃をひらく音。
父親 おや、赤貝に青柳が出ていないぜ、おい、どうしたんだ。
母親 はい。大山盛です。
△父親、飯を頬ばる。
父親 赤貝に、青柳に……。
母親 あーら、いやですわ。あれはあたしが動物学の暗誦をしていたんですわ。
父親 (飯を頬張りながら)動物学だって。
母親 ええ。つまり、斧足類の動物と申しますと、蛤だの、蜆だの、あさりだの、それから赤貝やばか貝でございますの。
父親 なあんだ。御馳走じゃなかったのかい。それは一向つまらんねえ。(気をかえて)しかし、なぜお前が赤貝やばか貝を暗記する必要があるんだ。
母親 あなたア! あ、あ、あなたア!
父親 ななな、なあんだ。急に、か、金切り声など出しやがって。
母親 失礼いたしました。ではございますが、あなたは道夫に対し、たいへん冷淡でいらっしゃいます。道夫が、あの通り受験準備のため、好きなレコードをきくことさえよしていますのに、あなたは道夫の入学試験のことを、ちっとも心配しておやりにならないんですもの。
父親 冗談いうな。俺はどんなにか心配を――。
母親 まあ、あたくしの申すことをお聞きあそばせ。あたくしなんか、道夫と一緒になって受験勉強をしているのでございますよ。頭足類、腹足類、斧足類などを暗記しておりますのも、道夫以上に母親が知っていれば、道夫が発奮すると思うからでございますよ。それから、あたくしは、新聞の広告面を毎日隅から隅まで目をとおしまして、なにか新刊で優秀な受験準備書がありますと、すぐ本屋へとんで行って買ってまいります。そしてまずあたくしが読んでみまして、他の受験書に出ていない問題を選りわけまして、道夫に毎日毎日やらせているのでございますよ。あたくしは、いやしくもわが国において印刷になった練習問題なら、一度は必ず道夫にやらせておかなければ、枕を高くして寝られないのでございます。そのお陰で道夫は入学試験のとき、どんなに楽だか知れません。それほどあたくしが……。
それなのに――。
父親 おい御飯だ、お代りだ。
茶碗と飯櫃の音。
母親 あなたはあまりに冷淡です。
父親 ばかをいうな、お前が熱心であることは認めるが、そんなやり方は感心できない。
母親 とんだことを仰言います。
父親 なあに、本当のことをいっているんだ。無茶苦茶に暗記をしたり、それから、また無茶苦茶に受験書を買いあつめたりするのは愚の骨頂だよ。そんな詰めこみ主義は役にたたんばかりか、むしろ反対に害がある。常識上重要な原理さえしっかり覚えていれば、いいんだよ。受験書なんか、一冊で沢山だ。この間も勘定したら、お前は漢文の受験参考書だけでも二十七冊も集めていやがった。まるで蒐集マニアだ。
母親 蒐集マニアだなんて、まあひどい。あなたの原理主義なんかに従っていると、高等学校のあのむずかしい問題なんか、一題だって出来やしませんわ。
父親 お前がそんなに勉強しているのならちょっと尋ねるが、颱風が近づいてね、いいかい、真東から風が吹いているんだ。しからば颱風の中心はどの方角にあるか。
母親 颱風の中心ですって、そんなこと試験問題集に出ていませんわ。
父親 それ見ろ、知らないじゃないか。これからの試験にこういう常識上知っておかなければならぬ問題が出るんだぞ。参考のため教えてやろう。いいかね、真東から風が吹いていれば、颱風の中心は南南西よりちょっと西よりの方角にあるんだ。大ざっぱにいうと、風を背にして立って左手を斜前へ出す。それが大体、颱風の中心を指す。どんなものだい。
母親 へへん、さよでございますか、じゃあこんどはあたくしが伺いますわ。東洋歴史で、中国で辮髪令が出たのは何年でございますの。
父親 知らん。
母親 あーら、御存知ありませんの、あれは西歴で一六四五年でございますわよ。ほほほほ、じゃあ赤壁の戦は何年でございますの。
父親 知らんよ。
母親 えへん、西歴二〇八年。ではネルチンスクの条約は。
父親 一々覚えとらん、そんなものは年代表をめくればすぐ分る。
母親 でも御存知ないのでは、入学試験に合格しませんわ。
父親 ばか、そんな無駄な暗記は意味がないよ。辮髪令の年号なんか何の役に立つんだ。
母親 だからあなたは冷淡だと申すのですわ。万一辮髪令の年号が試験に出て、道夫が答えられなかったその時は、落第でございますよ。一人息子を落第させるなんて、あなたは鬼か蛇か、実になんという……。
隣室の襖ががらりと開く(道夫起き出る)
道夫 お父さんもお母さんも、やかましくって、僕ねむくなくなっちゃった。久し振りに、レコードでもかけようかな。
母親 これ道夫。
父親 なあに、かけさせておやりよ。お父さんはお前を慰安してやろうと思って、そこにレコードを買ってきたよ。
母親 まあ、あなた。一体どんなレコードを買っていらしったの。
道夫の勉強の邪魔を……。
父親 まあ、そう心配しなさんな。おれは道夫を喜ばせ、且つ愉快に勉強させてやろうと思って、これを買って来たんだ。これ一名親心のレコードという。道夫、さあ、かけてごらん。「算術の歌」というラベルの方だよ。
道夫 はい「算術の歌」の方ですね。
△レコード「算術の歌」賑かに廻る。
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