平常はがらっとしているあの空地が、今朝はもう身動きも出来ない程の人だかりだった。土岐はまざまざと昨夜の屍体と向き合う事を恐れながら、それでも人を掻き分ける様にしてどんどん前へ出て行った。そして人々の隙から一目お由の屍体を見るなり、余りの事に彼は危く声を立てる処であった。
思い掛けなくも両腕、両脚を無惨にすぱりと切り取られたお由の屍体は、全く裸体にされて半分小川の中へ浸されているのだ。その白蛇の様な肌は朝日に蒼白く不気味な光を帯び、切口は無花果の実を割った時の如く毒々しい紅黒色を呈していた。
(こんな筈は無い)土岐は余りの事に思わず顔を背けたが、不図、今頃は多分三十里も東京から離れてしまったあの気の弱い国太郎が、若しこれを見たら何んな事になったろうと思った。と同時に、彼は自分が昨夜犯した屍体遺棄罪から、完全に救われた様な気軽さも覚えて、もう二度とお由の不気味な屍体を見る気はなく、其の儘踵を返したのであった。
だが、なんという奇怪な事件だろう。お由は露路に三分間ほど一人で立っている間に、何者にか巧妙な手段で、一つの傷も残さず殺害されていた。その屍体は土岐と国太郎の手に依って空地へ運ばれたが、翌朝になるとそれが一枚の布も纏わずに投出され、しかも何者にかその四肢を切断された上持去られている。考えように依っては、痴情の怨みか何にかでお由を殺した最初の犯人が、なお飽き足らずに屍体を運ぶ二人の後を附け、其処で再び残忍な行為を犯したとも思えるし、或いは空地に棄てられた後お由は偶然に蘇生して、通り合せた何者かに再びこの無惨な殺害をされたとも思えぬ事は無い。
兎に角、この白蛇のお由の不可解な謎の屍体は、忽ち土地の警察は言うまでも無く、警視庁強力犯係の大問題となって、時を移さず血眼の大捜索が開始された。お由の屍体は直ぐに大学病院に運ばれて解剖に附されたが、其処からは何等犯罪的な死因は得られず、或いは一種の頓死ではないかとさえ言われたが、屍体損壊の点から見ても、矢張り他殺説の方が一般に主張された。
そこで屍体は一時亭主の吉蔵に下げ渡され、今戸の家へ親戚一同が集ってしめやかな通夜をする事になったが、其の席上で端なくも意外な喧嘩が始まってしまった。というのは、恋女房の棺の横に坐って始終腕組みをしていた吉蔵親分が、つと焼香に立った喜多公を見て、悲痛な言葉を浴びせたに始まる。
「喜多公、よく覚えて置けよ。殺された女の恨みは七生祟るっていうからな」
「何んですねえ、親分。冗談じゃねえ」
「なに! 女房が殺されたってのに、冗談口を利く亭主が何処にある。てめえの為を思うから言ってやるんだ。後世の事を思ったら、今の内に――」
「親分! 乙に絡んだものの言い方をしやすね」苦笑いをしていた喜多公は、そこまで言われるとキッとなって形を改めた。「冗談なら冗談でいいが、親分! それを本気でお言いなさるんなら黙っちゃいませんぜ。べら棒め、姐御の屍骸が何を喋っているか知ってるなア、一人ばかりじゃねえ!」
「何んだと? てめえはそれじゃ、おれの恩を仇で返す気だな。よし、そんなら言って聞かせる事があらあ。一体、お由の屍骸を一番初めに見附けて来たなあ何処の何奴だ。あの晩、てめえは何処で何をしていやあがったんだ。お由の胸へ匕首を差し附けて……」
「親分、それじゃ姐御を殺したなあ、あっしだと言うのか!」
「胸に聞いたら判ることだ」
「何んだと!」
さっと茶呑み茶碗が飛んで壁に砕けた。途端に血相を変えた二人が、両方から一緒に飛びかかって、――が、其の場は仏の手前もあるからと、居合せた者が仲へ入ってやっと引分けている内に、丁度張込んでいた刑事がどかどかと踏込んで来た。そして関係者一同はすぐに拘引されてしまった。
しかし二時間ほどすると、エレキの喜多公だけを残して、他の一同は警察から帰されることになった。残された喜多公はお由の死んだ夜の行動について、何んと思ったか一言も口を利か無かったのだ。その時の吉蔵の供述はこうである。
「あっしは十時に店を閉めて、お由が留守だから久し振りで玉の井へ行って見る気になりました。今戸から橋場をぬけて白鬚橋を渡ったんです。けれど何うも気がすすまないんで、一通りひやかしてしまうと、二時頃には家へ帰って寝てしまいました。その翌朝、何んの気なしに聞いていると、乾分の一人が昨夜喜多を玉の井で見かけたって噂を小耳にはさんだんで、お由が殺されていると言う報せを聞いたのは、それから間も無くでございました」
では、何故喜多公はその夜の行動を明らかに説明しなかったか? 土岐技手が其の夜国太郎に漏した言葉では、喜多公こと田中技手補は確にその頃は変電所に勤務中ではなかったのか?
然し二三日後、喜多公がやっと口を開いた時には、こんな意外な陳述がされていた。
「実は、あっしは姐御、詰りお由さんに想いを掛けていたのです。で、幾度も気を引いて見ましたが、なかなか思うようにはなりませんので、あの日、灯が点くと間も無くお由さんが泊り掛けで根岸へ行ったと聞きましたので、あっしは根岸の家の番地を人知れず確しかめて、お由さんの後を追って行きました。根岸へ着いたのは八時頃だったと覚えています。所が何うしても此処と思う家が見当りませんので、今度は一軒一軒裏口へまわって、お由さんの声を目当に探し廻りましたが、矢っ張り知れません。その中に十一時半になってしまいましたので、何んだか急に馬鹿馬鹿しくもなって、其の足でぶらぶら歩いて引っ返し、千住の万字楼という家へ登って花香という女を買って遊びました。登ったのは多分十二時半か一時頃でしょう。翌朝其処を出たのは六時半頃です」
「何故又そんな事を今まで隠していたんだ」
「へッへ、姐御の後を附けたなんてうっかり言っては、飛んだ嫌疑が掛かると思いましたんで――」
警察では直ぐに万字楼を調べて見たが、大体彼の言った事に相違はなかった。
お由の死亡時刻は解剖の結果、午前一時前後ということになっている。して見れば時間の点からいって、喜多公は親分の方より嫌疑が薄くなる訳で、一先ず彼も釈放されることになった。
警察では他に誰も容疑者として拘引しておらず、この事件はわりに無雑作に放置されている如く見えていたが、其の実捜索は八方に拡がっていて、少しでも怪しいと睨んだ者には必ず刑事が尾行していたのである。然しお由の死後七日までは、これぞと思う手懸りは何等得ることが出来ずにいた。
すると八日目になって、初めて新しい二つの報告が集って来た。一つは、あの日以来吉蔵の店では冷蔵庫へ入れる氷を五貫目ずつ余計使っている事実、一つは、あの日を境にして失踪した者の一覧表の中から、山名国太郎という大学生がお由に似た年頃の婦人を自室に引き入れている所を一二度見た者があるという報告であった。
お由事件の為に特設された捜索本部は、この二つの報告に色めき立って、主任は直ちに吉蔵の店へ警察を向ける一方、山名国太郎の行方を八方に捜索させた。
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