「初めは冗談だと思ったんですよ。けれど、様子が可怪しいんでしょう。だから驚いちゃって――」
「一体、君が此処へ帰って来るまで、詰りお由さんが一人で此処に残っていた時間は、どの位だったの」
「三分とは経っちゃいないんです」
「三分? そして君が帰って来た時、この露路に誰も人は見えなかった?」
「ええ。はっきり覚えてはいないけれど、たしか誰も見えませんでした」
が、其時何故か変電所の四角な窓が、爛々と輝いていた事を青年は不図思い浮べた。
「困ったね、何方にしても。どうする君は?」
土岐の言葉に、急に自分の立場をはっきり思い起して、国太郎は忽ち竦むように頭を抱てしまった。
「僕は、僕は殺されますよ。きっと、なぶり殺しにあわされるんだ!」
それは何んとも言えなかった。
一体お由は、今戸町に店を持っている相当手広い牛肉店加藤吉蔵の妾兼女房なのであった。が、悪い事にはこの吉蔵が博徒の親分で、昔「痩馬の吉」と名乗って売り出してから、今では「今戸の親分」で通る広い顔になっている。しかもお由はその吉蔵親分の恋女房であった。
今から五年ばかり前、お由がまだ二十歳で或る工場に働いていた頃、何処の工場でもそうであるが、夕方になるとボイラーから排出される多量な温湯が庭の隅の風呂桶へ引かれて、そこで職工達の一日の汗を流すことになっている。その鉄砲風呂の中から、お由の膚理のこまやかな、何時もねっとりと濡れている様な色艶の美しい肌が、工場中の評判になってしまった。
「お由さんの体は、まるで白蛇のようね」
その白蛇の様な肌を、何かの用で工場へ来合せた吉蔵が一目見て、四十男の恋の激しさ、お由に附纏う多くの若い男を見事撃退して、間も無く妾とも女房とも附かぬものにしてしまったのである。
こうしてお由は娘から忽ち姐御へと変り、あられもない「白蛇のお由」と自分から名乗って伝法を見習うようになったが、若いに似ずよく親分の世話をして、執念深く窺いよる男共は手痛い目にあわされるという評判が専らであった。
然し魔は何処に潜んでいるか計り知れぬ。それ程気の強いお由が、この正月頃から臆病な大学生山名国太郎にすっかり魂を打ち込んでしまったのだから――。二人の甘い秘密は、幸い今日まで親分にも知れず、数々の歓楽を忍ばせて来たが、ここにもやっぱり悪魔は笑っていたのだ。若しお由の死から国太郎との秘密が知れたが最後、深い中年者の恋の遺恨で、どんな惨忍な復讐が加えられることであろう。
生きた心地も無いこの哀れな青年を前にして、技手は全く途方にくれたようであったが、一方空っぽにして来た変電所の事も気になるらしく、咄嵯に何うにか、後始末の手段を考えてくれた。
「ね君、今は何うしてお由さんが死んだのか、誰に殺されたのかなんて事は研究している場合じゃ無いよ。何より君自身の体を心配する必要があるんだ。いいかね、後三十分で僕の交代時間が来る。そうしたら兎に角二人でお由さんの屍体を遠くへ運んで行こう。詰まり君とお由さんとの仲を嗅ぎ出されない為にだよ。そして君は、朝の一番列車で当分何処かへ姿を隠してしまうのだ。それが一番安全だからね。――後三十分だ。君はこの屍体を守って、変電所の物置の後で待っていて呉れ給え。忘れても声を立てちゃ駄目だぜ。相捧は喜多公なんだからね」
それは国太郎にとって非常に頼母しく思われた程実に冷静な分別であった。ただ不安なのは技手の言う相棒の喜多公、即ち変電所の技手補田中喜多一で、これは吉蔵親分の一の乾分である上に、秘かにお由に想いを掛けているのだと、国太郎は何時かお由自身の口から聞かされた事もあるので、運悪くこうした所を見附かろうものなら、親分に告げるまでも無く半殺しの目にあわされるのは言うまでも無かった。
然し、幸い薄氷を踏む思いの長い三十分は、どうやら無事に過ぎたらしい。やがて足音を忍ぶようにして土岐健助が物置のかげへ来てくれたのは、もう午前二時を少し廻った頃であった。
「じゃ、いいかい」
言葉少なに技手はこう言って、無雑作にお由の頭を抱きあげた。国太郎は夢中で足の方を持ったが、どっしりと重い死人の体は思ったより遥かに扱い難く、物の十間と歩かぬ中にもう息切がして来た。そして揺りあげる度にしどけなく裾が乱れて、お由好みの緋縮緬がだらりと地へ垂れ下る。その度に彼等は立止って、そのむっちりと張切った白い太股のあたりを掻き合せてやらねばならなかった。
「これじゃ遣り切れ無い、両方から腕を担いで見ようよ」
然し何うして見たところで硬張った死人を運ぶのは可成りの重荷であったが、他に工夫のしようもなかったのでその儘歩き続けた。この露路をぬけてドンドン橋を渡ると瓦斯会社の横に出る。それを真直ぐに、左手は深い小川をへだてて墓地、右手は石炭置場になっている暗い道を、何うにか大河畔まで忍んで行った。そこを左に折れて河添いに一丁ほど歩くと又左に折れて、間もなく百坪ばかりの空地へ出る。空地の中央には何んとかいう小さな淫祠が祀ってあるが、その後の闇の中へお由の屍体を下して、二人は初めてほっとした。
幸い途中で誰にも見られなかった事は、彼等にとって何よりであった。
「土岐さん、一寸土岐さん!」
大声で揺り起されて土岐健助が、宿直室の蒲団の中からスッポリと五分刈頭を出したのは、もう朝も大分日が高くなった頃であった。
「ヤア!」
土岐は其処に喜多公こと田中技手補が柔かいものをだらしなく着て、棒のように突っ立っているのを見出すと、渋い眼を無理に開けるようにして声を掛けた。然し喜多公の顔は緊張しきって蒼白だった。
「あの、今戸の姐御が殺されちゃってね。つい其処にむごたらしく殺られているんでさ。あっしはこれから直ぐ今戸へ行かなけりゃならないんで、すみませんがあんた一つ、今日の当番をかわってくれませんか」
「へえッ!」
健助は瞬間どきりとしたが、その気持を隠さずに喜多公の顔を見詰めた。が、喜多公はそんな事に頓着なく、技手が当番の事を承諾すると、風の様に外へ飛び出して行った。
(むごたらしく殺られている)土岐は起きようともせずに、昨夜の生きている儘に死んでいたお由の美しい屍体を思い描いて、喜多公の残して行った言葉を不思議に思った。
「そんな筈はないんだがな」あのお由のあらわな白い胸や太股をまざまざと描き出して、土岐はふっと顔を赤らめた。
宿直室の外は火事場の様な人通りであった。
「まあ、いやだ。そりゃいい女だって言うけど、腕も脚も無いんですってさ」
「あら、何うしましょう。私見るのが怖くなっちゃったわ」
その声に土岐はがばと跳ね起きた。そして手早く洋服を着てしまうと裏口から飛び出して、群衆と一緒になって駈け出したのである。
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