海野十三全集 第1巻 遺言状放送 |
三一書房 |
1990(平成2)年10月15日 |
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷 |
1990(平成2)年10月15日第1版第1刷 |
浅草寺の十二時の鐘の音を聞いたのはもう半時前の事、春の夜は闌けて甘く悩しく睡っていた。ただ一つ濃い闇を四角に仕切ってポカッと起きているのは、厚い煉瓦塀をくりぬいた変電所の窓で、内部には瓦斯タンクの群像のような油入変圧器が、ウウウーンと単調な音を立てていた。真白な大理石の配電盤がパイロット・ランプの赤や青の光を浮べて冷たく一列に並んでいた片隅には、一台の卓子がポツンと置かれて、その上に細い数字を書きこんだ送電日記表の大きな紙と、鉛筆が一本無雑作に投げ出されていたが、然し当直技手の姿は何処にも見えなかった。
今、全く人気の無いこの大きい酒倉のような変電所の中では、ただ機械だけが悪魔の心臓のように生きているのであった。
スパーッ!
リンリンリンリン。
突然白け切った夜の静寂を破って、けたたましい音響が迸る。毒々しい青緑色の稲妻が天井裏にまで飛びあがった。――電路遮断器が働いて切断したのだった。
と、思い掛けぬ窓のかげから素早く一人の男が飛び出して、配電盤の前へ駈けつけた。彼は慣れ切っている正確な手附きで、抵抗器の把手をクルクルと廻すと、ガチャリと大きな音を立てて再び電路遮断器を入れた。パイロット・ランプが青から赤に変色して、ぱたりとベルが鳴止む。その儘技手は配電盤の前に突っ立って、がっしりした体を真直ぐに、見えぬ何物かを追っているようであった。もう四十年輩の技術には熟練しきった様な男である。――一分、二分。春の夜は闌けて、甘く悩しく睡っていた。
「土岐さん! 土岐さん、一寸……」
不意に裏口へつづく狭い扉が少し開いて、その間から若い男の顔がヒョクリと現われた。ひどく蒼白い顔をして、明らかに何事か狼狽しながら四辺を憚っていた。
「おう」くるりと振返った技手は、
「国ちゃんか、なんだい?」と、何気なく配電盤を離れた。
「あの、一寸来てくれませんか、何うも可笑しいんです。お由が仆れちゃって」
青年は一途に救いを求めるような、混乱した表情を見せなから、乾からびた言葉をぐっと呑みこんだ。
「お由――」
「ええ、仆れちゃったきり、どうしても起きないんです。困ってしまってね」
土岐健助は濃い眉を寄せてチラリと窓の方を眺めた。
「弱ったな、相棒は起せないし――」
「ええ?」
「喜多公なんだよ。考えものだからね」
さっと青年の眼は怯えあがった。
「ま、この儘にして置いて一寸行って見よう。何処だい?」
技手は思い返した様に、気軽に青年の肩を押しながら裏口へ出た。乏しい軒灯がぽつんぽつんと闇に包まれている狭い露路を、忍ぶように押黙って二十歩ばかり行くと、
「土岐さん、此処!」と、青年は立止って道を指した。
顔を地につけるようにして見ると、仰向きになった、銀杏のようなお由の円い顔が直ぐ目についた。頸から、はだけた胸のあたりまで、日頃自慢にしていた「白蛇」のような肌が、夜眼にもくっきりと浮いている。のけぞっているので、髷は頭の下に圧しつぶされ、赤い手絡が耳朶のうしろからはみ出していた。
「お由、お由!」
青年は憚るように声を殺して呼びながら、強く女を揺ぶったが、ぐったりと身動きもしなかった。彼は前にも幾度かそうして見たのであったが、もう一度機械的に黒繻子の襟を引き開け、奇蹟にでも縋るようにぐっと胸へ手を差し入れた。直ぐにむっちりと弾力のある乳房が手に触れたが、その胸にはもう、彼を散々悩ましたあの灼けつくような熱は無く、わずかに冷めて行くほの温味しか感じられなかった。心臓は?(ほら、こんなにね)と、よく彼の手を持って行っては、その強い躍動を示して笑った心臓も、パタリと止ってしまっている。
「ああ、心臓が止っている――」
「なに、心臓が!」
ぼんやり中腰になってお由の白い顔を眺めていた土岐健助は、初めて愕然と声をあげた。そして、おずおずとお由の硬張った腕を持ったが、勿論脈は切れていた。
「国ちゃん、一寸胸を開けて」
青年が力一杯襟をはだけるのを待って、土岐は心持ち顔を赤らめながら、お由の乳房の下へぴたりと耳を押しつけて見た。少しの鼓動も無い。すぐに眼瞼をひらいて見たが、瞳孔はもう力なく開き切っていた。
「死んでいる。もう全く呼吸が無くなっているんだ」
「大変なことになったな――でも、どうして死んだんでしょう」
「どうしてって君、君は今までどうしていたんだい?」
そう聞かれると、さすがに青年は此の年輩の技手に対して、赤い顔をした。が、何れにしても今の場合土岐の力を借りるより外、この気の弱い青年には縋るものが無かったので、前後も無く早口にこう話し出した。
――宵の灯が点くと間もなく、お由は何時もの通り裏梯子から、山名国太郎が間借りをしている二階へ上って来たのであった。
「今夜はね、根岸の里へ行って来るって胡魔化して来たのよ。私だって、たまにはゆっくり泊って見たいもの。――大丈夫よ。まさか親分だって、そんなに女房を疑っちゃ、お爺さんの癖に外聞が悪いもの。かまうもんか、知れたら知れた時の事さ」
妖婦気取りのお由は、国太郎にぴったり寄添いながら非常に嬉しそうであった。そして散々この気の弱い青年をいじめぬいて、少しも側から離そうとはしなかったが、つい先刻になって不図気が変ってしまった。
「矢っ張り私、帰った方が好いわ。あんた怒りゃしないわね。又来るには泊らない方が出好いもの、ね」
「だってもう十二時過ぎだぜ」
「怖かあないわ。こう見えたって白蛇のお由さんだもの。夜道なんか平気よ」
「じゃ、其処まで送って行こう」
「無論だわよ」
お由はまだ国太郎に絡み纏りながら、裏梯子から表へ出た。が、塀を一つ曲って此処まで来ると、
「あら、私紙入れを置いて来ちゃった。ほら、先刻帯を解いた時、一寸本箱の上へ置いたのよ。あんたが悪いんだから、いそいで取って来てよ」
お由は国太郎の胸を肩で小突いて、二人の時だけに見せる淫蕩な笑いを顔一杯に浮べていた。その濃艶な表情が、まだはっきりと国太郎の眼に残っているのに――
すぐに紙入れを取って引返して来た時には、もうお由は此処に仆れていたのであった。
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