きれいな独房
かわいそうなのは、自宅からヘリコプターにさらわれていった牛丸平太郎少年だった。
彼がヘリコプターに収容せられたときには、気を失っていた。だから、あとのことはよくおぼえていない。
気がついたときは、固いベッドの上に寝ていた。おどろいて彼は起き直った。からだが方々痛い。
「おお、これは……」
明かるく照明された、せまい一室だったが、入口は扉のかわりに、鉄の格子がはまっていた。牢屋だった。ベッドは部屋の隅にとりつけてあって、腰かけの用もしていた。
「ぼくを、こんなところへいれて、どうするつもりやろ」
牛丸は、鉄格子のところへいって、それが開くかどうかためしてみた。だめだった。鉄格子の外側には、がんじょうな錠前がぶら下っているのが見えた。
鉄格子の前は通路になっていた。そして正面には、壁があるだけだった。
どこか抜けだすところはないかと、牛丸少年は部屋中を見まわした。天井に小さい空気穴があいているだけだ。そこからでようとしても人間にはできないことだった。小さい猫ならでられるかもしれないが、牛丸は猫ではなかった。
天井は、高かった。室内には、ベッドの外になんにもない。いや、一つあった。それは便器であった。
牛丸少年は、この部屋に永いこと、とめておかれた。ここでは、時刻がさっぱり分らなかったけれど、牢番らしい男がきて、鉄格子の窓から、食事をさしいれていったので、朝がきたらしいことをさとった。
牢番は、五十歳ぐらいのじゃがいものように、でくでく太ったおじさんだった。牛丸が話しかけても、牢番男は首を左右にふるだけで、返事をしなかった。
昼飯を持ってきたときに、牛丸はまた話しかけた。牢番は同じように首を左右にふり、指で自分の耳と口とをさして、
(わしは、耳がきこえないし、口もきけないよ)
と、知らせた。夕飯のとき、牛丸が話しかけようとすると、牢番は、こわい目でにらんだ。そして不安な目付で左右をふりかえった。そしてもう一度こわい目をし、大口をあいて、牛丸少年をおどかした。
牛丸は、がっかりした。すべての望みを失い、ベッドにうっ伏して、わあわあ泣いた。だが、誰もそれを慰めにきてくれる者はなかった。
疲れ切っていたと見え、その姿勢のまま、牛丸はねむってしまったらしい。
「起きろ。こら、起きろ、子供」
あらあらしい声に、牛丸はやっと目がさめた。
「さあ起きろ。頭目のお呼びだ。おとなしくついてくるんだぞ」若い男が、そういって、牛丸の手首にがちゃりと手錠をはめた。牛丸は引立てられて、監房をでた。
前後左右をまもられて、牛丸少年は通路を永く歩かせられ、それからエレベーターに乗せられて上の方へのぼっていった。その道中に彼はたえずあたりに気を配ったが、それはなかなかりっぱな建物に見えた。彼はここがカンヌキ山のずっと奥深い山ぶところにかくされたる六天山塞の地下巣窟だとは知らなかった。
「頭目。牛丸平太郎をつれてまいりました」
若い男は、頭目四馬剣尺が待っている大きな部屋へ少年をつれこんだ。
牛丸少年は、そこではじめて頭目なる人物を見た。
華麗に中国風に飾りたてた部屋の正面に、一段高く壇を築き、その上に、竜の彫りもののあるすばらしい大椅子に、悠然と腰を下ろしているあやしき覆面の人物は、四馬頭目にちがいなかった。
その左右に、部下と見える人物が、四五名並んでいた。秘書格の木戸の顔も、それに交っていた。机博士のほっそりとした姿も、その中にあった。頭目が、覆面の中からさけんだ。
「うむ。波はそこに控えておれ。木戸。その少年を前につれてこい。直接、話をしてみる」
若い男は、入口を背にして、佇んだ。
木戸が前にでていって、牛丸少年の肩をつかんで、頭目の前に引立てた。
「手荒らにはしないがいい」
頭目は木戸に注意をした。
「これ、牛丸平太郎。お前にたずねたいことがあったから、ここまできてもらった。これからたずねることに正直に答えるのだぞ。もしうそをついたら、そのときはひどい罰をうけるから、うそはつくなよ」
太い威厳のある頭目の声が、牛丸の胸を刺した。
牛丸少年は、だまっている。彼は、頭目の顔の前にたれ下っている三重のベールがふしぎで仕方がなかった。
「おい、牛丸平太郎。お前は、戸倉老人から黄金メダルの半分をうけとったろう。正直に答えよ」
頭目はそういって、牛丸の返事はどうかと、上半身を前にのりだした。牛丸少年は、それでもだまっていた。
頭目は少年が返事をしないので、機嫌をわるくした。彼は肩を慄わせ、
「さあ、早く答えよ。お前が戸倉老人から渡された黄金メダルの半分は、どこへ隠して持っているのか」
と、声をあらくしていった。
「ぼくにものを聞きたいのやったら、聞くように礼儀をつくしたらどうです。昨日からぼくを罪人のようにひどい目にあわせて、さあ答えよといっても誰が答える気になるものか」
牛丸は、はじめて口を開くと、相手の非礼をせめた。
「お前から礼儀のお説教を聞くために呼んだのではない。こっちからたずねることだけに答えればよい。それを守らなければお前の気にいるような拷問をいくつでもしてあげるよ。たとえば、こんなのはどうだ」
頭目が、椅子の腕木のかげにつけてある押釦の一つをおした。すると天井から、鍋をさかさに吊ったようなものが長い鎖の紐といっしょに、すーッと下りてきた。そして牛丸少年の頭に、その鍋のようなものがすっぽりかぶさった。
「あ痛ッ」鎖はぴーんと張った。そして鍋のようなものはしずかに持ちあがった。と、それに牛丸の頭髪が密着したまま、上へひっぱられていくのであった。
あの手この手
「痛い、痛い」牛丸少年は宙吊りになった。
痛い。髪の毛がぬけそうだ。もがくと、ますます痛い。牛丸は歯をくいしばり、ぽろぽろと涙を流した。
「これは拷問の見本だから、そのへんで許してやろう。お前たちの年頃は、わけもわからずに生意気でいけない。そう生意気な連中には拷問が一番ききめがある」
頭目は、けしからんことをいってから、拷問をとめた。鍋のようなものは、牛丸の頭髪をはなして、鎖紐と共にがらがらと天井の方へあがっていった。
日頃はのんき者の牛丸平太郎も、この拷問には参った。このような野蛮な責め道具を、さかんに持っているのだとすれば、うっかりことばもだせない。
「そこで、もう一度聞き直す。戸倉老人から渡された黄金メダルの半分は、今どこにあるのか。さあ、すぐ答えなさい」
頭目の声は、以前よりはやさしくなった。やさしくなったが、その口裏には、「こんど答えなければ本式に拷問してやるぞ」との含みがある。返事をしないわけにいかない。
「ぼくは正直にいいますが、戸倉老人だの黄金メダルだのといわれても、何のことやら、さっぱり分りまへん。これはほんとです」
「なにイ……まだうそをつくか。それなれば――」
「いくら拷問されたって、今いったことはほんとです。今いうたとおり、なんべんでもくりかえすほかありまへん。それとも、ぼくからうそのことを聞きたいのやったら、拷問したらよろしいがな」
しゃべっているうちに牛丸はしゃくにさわってきて、又もやいわなくてもいいことまでいってしまった。
「知らないとはいわさん。それでは、証拠をつきつけてやる。戸倉老人をここに引きだせ」
頭目の命令によって、戸倉老人がこの部屋へつれてこられた。車のついた椅子にしばりつけられていることは、この前と同じだ。ひげ面をがっくり垂れて目を閉じている。
戸倉老人の椅子は、頭目の前で、牛丸少年といっしょに並べられた。机博士がつかつかとやってきて、戸倉老人を診察した。それはかんたんにすんだ。机博士は自席にもどる。
「牛丸少年。お前の前にいるのが戸倉老人だ。この老人なら見おぼえがあるだろう。生駒の滝の前で、お前はこの老人から何を受取ったか。それをいっておしまい」
「この人、知りません。今はじめて会うた人です」
牛丸は、そう答えた。彼は生駒の滝の前に倒れていたのがこの老人かもしれないと思った。しかしあのときは、顔をよく見たわけでない。ヘリコプターから機銃掃射が始まったので、すぐ柿の木へかけあがったわけである。
「お前はどこまで剛情なんだろう。そんなに拷問されたいのか。それでは」
「待って下さい。ほんとにぼくは、この人を知りませへん。うそやありません。この人に聞いてもろうてもよろしい」
牛丸少年は重ねて同じ主張をした。
戸倉老人は、さっきから下を向いたままで、目を開かない。牛丸少年の顔を見ようともしないのであった。
老人の心の中には、今はげしい苦悶があった。それは今彼のそばにいる少年が、春木清にちがいないと誤解していたからだ。死にゆく自分を介抱してくれた親切に、あの黄金メダルを少年に贈ったが、それが祟って、少年はこうして四馬剣尺のために自由を奪われ、ひどい責めにあっていると思えば、老人の胸は苦しさに張りさけんばかりであった。老人は、この気の毒な少年の顔を一目でも見る勇気がなかった。少年に何とあやまってよいか、老人の立ち場はひどく苦しいのであった。
「剛情者が二人集った」
と頭目は牛丸や戸倉老人のことをいった。
「よし、それでは、のっぴきならぬ証拠を見せてやろう。おい波、あの写真を持ってきたか」
すると戸口に立っていた波が、ポケットから数葉の写真をひっぱりだして、頭目のところへ持ってきた。
「ふーむ。これで見ると、あのときお前は現場にいた子供にちがいない。これを見よ」
頭目は、写真を牛丸に手わたした。
牛丸は、それを見た。そしてどきんとした。彼が生駒の滝の前まできたとき、ヘリコプターがまい下ってきたので、おどろいて柿の木にのぼった。そのときの彼の姿が、はっきりと撮影されているのであった。写真の中には、彼の顔をいっぱいに引伸してうつしてあるものもあった。それを見ると、これは自分ではないということができないほど、はっきりしていた。
「どうだ。その写真にうつっているのはお前だろう。お前にまちがいなかろう」頭目は、こんどはおそれ入ったかと牛丸少年の面をむさぼるように見つめる。
「これは、ぼくのようです」
牛丸は、あっさりとそれを認めた。
「しかし、この柿の木にのぼっているのがぼくだとしても、ぼくは誰からも、何ももらいません。ほんとです」
戸倉老人が、このとき薄目をあいた。そして牛丸少年の顔を、さぐるようにそっと見た。
(おお……)老人の顔に、狼狽と喜びの色とが同時に走った。
(ああ神よ)老人は口の中で唱えると、再びがっくりとなって椅子にうなだれ、目を閉じた。老人は、そばにいる少年が、春木清ではないのを知って、いままでのはげしい悩みから急に解放されたのであった。
そのとき頭目の、怒りにみちた声がひびいた。
「なんという手際のわるいことだ。調査不充分だぞ。責任者は処罰される」
左右をふりかえって、頭目は部下を叱りつけた。
「この剛情者二人は、当分あそこへ放りこんでおけ」
そういい捨てて、頭目はうしろの垂れ幕をわけて、その奥に姿を消した。異様な背高のっぽの覆面巨人だ。牛丸少年は、感心して、頭目のうしろ姿を見送った。
(あの覆面の下に、どんな顔があるのか。早く見てやりたいものだ)
彼はこわさを忘れて、好奇心をゆりうごかした。
万国骨董商
ここで話は、春木少年から姉川五郎の手へ渡った半月形の黄金メダルの上に移る。
今、姉川五郎のことをくわしくのべるにあたるまい。なぜなれば、彼はひどく酔払っていて、どうにもならない。彼の服装は、ぼろぼろ服と別れて、りゅうとした若い海員姿に変っている。よほどたんまり金がはいったと見える。
彼がお稲荷さんの境内の木の根元から掘りだした半かけの金属片は、たしかに黄金製であったのだ。彼はそれを、海岸通りからちょっと小路にはった[#「はった」はママ]ところにある万国骨董商チャンフー号に売ったのである。主人のチャン老人は、孔子のように長い口ひげあごひげをはやして、トマトのように色つやのよい老人であった。老人は、姉川が持ってきたメダルを二万円で買うといった。姉川はそれを聞くと十万円でないといやだといったが、結局三万五千円でチャン老人は買い取った。
大金をつかんで、宇頂天になって店をでようとする姉川に、うしろから老商チャンは声をかけた。
「こんなにかけないで、丸々満足なのがあったら四割がたええ値で買いまっせ」
姉川は、ふふんと笑ったまま、店をでていった。
「ふふふふ。まるでただのようなもんや。つぶしても十二万円には売れる。しかし惜しいもんや。らんぼうなやり方で、半分に切断しよった。中まで黄金かどうか見るつもりやったんやろ」
老商はひとりごとをいいながら、黄金メダルを天秤の皿からおろし、こんどはそれを店の飾窓の中にあるガラス箱の棚の一つの上にのせた。そのそばには、はんぱになった貴金属製の装身具が、所もせまく並べられてあった。片っぽだけのひすいの耳飾りや、宝石がなくて台ばかりの金色の指環や、数の足りない真珠の首飾、さてはけばけばしい彫刻をした大小いろいろの指環や、古色そう然とした懐中時計をはじめ、何だか訳の分らない細工物や部分品が、そのガラス箱の中にひしめきあっていた。
それは、姉川五郎が黄金メダルを売りとばしてから三日目の昼さがりのことだった。
その日は、ふしぎに例の三日月形の黄金メダルが客の目を吸いつけた。結局、その日黄金メダルにさわったお客の数は三名であった。
最初の客は、意外な人物、立花カツミ先生であった。
その日、立花先生は、新しい体操の実演と打合会のために海岸通りの扇港ビルの講堂で午前中を過した。それがすんで、外へでたが、そこで金谷先生といっしょになり、元町の方へ抜けて学校へもどることになった。そのとき万国骨董商チャンフーの店の前を通りかかったのである。
はじめ、金谷先生がその飾窓の前に足をとどめた。先生はめったにこんなところへこないので、ガラス戸の中におさまっているいろいろの商品をもの珍らしくながめた。立花先生の方は、そんなものにあまり興味がないらしく、すこし迷惑そうな顔で、金谷先生のうしろに立っていた。
その金谷先生が笑いだした。
「はははは。この店は、がらくた店なんだよ。ちょっと見かけはいいが、ろくでもないものばかり並べてある。あれなんか、金貨の半かけだ。金貨の半かけはおかしい。金貨にしては大きいからメダルかな。とにかく半かけでは買い手もあるまいに……」
立花先生の顔が、飾窓へよってきた。
「立花先生。ほら、あそこにある金貨の半かけみたいなもの、あれはメッキですかな、それとも本物の金ですかな」
「さあ……」立花先生は、かすれたように声をだした。
「あれがもし本物の金だったら、あれだけあれば、うちの母のいれ歯もすっかり修理することができるんだがなあ」
「もう、いきましょうよ」先生二人は、老商チャンの飾窓から離れた。そしてにぎやかな元町へでた。
半町ばかり歩いたときに、立花先生は金谷先生に、
「わたくし、忘れていた用事を思いだしました。これからちょっといって参りますから、ここで失礼いたしますわ」
といった。そして二人は別れた。
立花先生は、すたすたとうしろへ戻った。そして先生は例の万国骨董商の店へはいった。老主人チャンは、籠の小鳥に餌をやっていたが、店の方をふりかえって、びっくりした。珍らしい客人である。
「なにをお目にかけましょうかな」
チャンは、もみ手をしながら、首をさげた。首を下げながら、美しい客の面から目を放さなかった。
立花先生は、黄金メダルの半ぺらを見せてくれといって、手にとってよく見た。それは先生の気にいったようであった。そこで値段を聞いた。
「さよう。あんたさんのお望みですさかいに、大まけにまけまして、二十万円ですな。あれは純金に近いものでな、そのうえ、えらい由緒のあるもので、二十万円は大勉強だっせ」
二十万円だという。三万五千円で姉川五郎から買いとったものが六倍の値段でふっかけられたのである。
「二十万円ですか。高いわねえ」
「それだけの値打は、十分におまんねん。その道の者なら、よう知ってます」立花先生はしばらく唸っていたが、やがて老商チャンにいった。
「わたくし、ここに二十万円のお金を持っていないのです。それで今手つけ金として二万円おいてまいります。これから家へかえって、のこりの十八万を持ってきますから、それをわたくしに売ったものとして下さい」
「へえーッ。どうもありがとうはんで。あの、二十万円で買いはりますか。よろしおます。二万円のお手つけ金。ここへちょうだいいたしましょう」
チャン老人は、自分のおどろきを隠すのに骨を折った。十五万円ぐらいに値切るかと思いの外、いい値の二十万円で買うというのだ。そんなことなら、もっと吹っかけておけばよかった。こんな質素ななりをしていた婦人のことだから、二十万円だといえば、びっくり仰天して、すぐさようならと店をでていくかと思いの外、とんでもないちがいだった。
その婦人客がそそくさと店からでていったあと、チャン老人は、黄金メダルを元のガラス箱の中に返した。
あとの二人の客
老商チャンは、またもとのように小鳥の籠に近づいた。
そして彼のかわいがっている小鳥に、餌をあたえはじめた。それが大方終りに近づいた頃、
「はい、ごめんよ」と、店へはいってきた男があった。背の高いりっぱな人物だった。日本人のようであり、また外人のようにも見える。
この紳士こそ、四馬剣尺の部下として重きをなす机博士その人であった。
「ご主人。そのガラス箱の中にはいっている金貨の半分になったようなものを、ちょいと見せてもらおう」
博士は、長い手を延して、ガラス箱の棚を指した。
「ああ、これですか」
老商チャンは、それを取出して客に見せた。チャンは、立花先生と売約が成立したことを忘れているような態度で、気軽に三日月形の黄金メダルをだしてみせたのである。
「これはおもしろいものだ。惜しいことに半分になっている。ご主人、これは本物のゴールド(金)かね」
「純金に近い二十二金ですわ」
「ふふん。で、値段はいくら」
「あまり売れ口がええものやないさかい、まあ大まけにまけて三十万円ですな」
「三十万円! あほらしい、そんな値があるものか。ご主人、十五万円ではどうだ」
「あきまへん。三十万円、一文も引けまへんわい」
「そうかね。それじゃこれから三十万円、なんとかして集めてこよう」
机博士はそういって、チャンの骨董店をでていった。
その博士は、店先から五六歩離れると、肩をすくめて、ふふんと笑った。
「あの慾ばり爺め、まさかおれが、あの黄金メダルの裏表をあの店の中で、写真にとってしまったことに気がつくまい。ふふふ」
そういって、机博士は、オーバーの釦に仕掛けてある秘密撮影用の精巧な小型カメラを、服の上から軽く叩いた。博士らしい早業であった。
「……だが、あの黄金メダルがあそこに売りにでていることを、頭目に知らせたものか、それとも何とかして、おれが手に入れておいたものか、さて、どっちにしたものだろうなあ」
博士は、海岸通りの方へ、長いコンパスで歩いていった。
第三の客がきたのは、それから三十分ばかりあとのことであった。
その人は、外国の船員の服装をつけていた。髪も瞳も黒くて、日本人のようであったけれど、顔色の赤いことや鼻柱の高いことなどから見て、スペイン系の人のようであった。彼の顔立ちは整っていたが、どうしたわけか、おそろしい刀傷のあとが、額の上から左眼を通り、鼻筋から、唇までに達していた。ものすごい斬り傷であった。しかしその傷は、光線が彼の顔の上に、或る方向から照らしつけるときに限り、非常にものすごく見えた。
「その半分のメダルを見せて下さい」
彼はおぼつかない英語で、そういった。
老商チャンは、客よりは上手な英語で応対した。彼は、今日はこの黄金メダルに、妙に人気が集っているのに気がついて、上機嫌であった。それと共に、彼はゆだんをしなかった。
刀傷のある船員は、黄金メダルを何十ぺんとなく裏表をひっくりかえし、またチャンから拡大鏡を借りて、念入りに全体を検べてみたり、掌にのせて重さを測ったりした。そのあとで、
「これいくらで売りますか」と、老商にたずねた。
「四十万円です」チャンは、こういうのは金持ではないから早く追払うにかぎると思って、かんたんに返事をした。
「四十万円ですか。私、千二百ドルで買います。千二百ドルなら五十万円以上にあたります。あなた、いい商売します」
客はそういって、ポケットから米貨の紙幣をチャンの前へ並べだした。チャンは、近頃こんなにびっくりしたことはない。
「待って下さい。この品物は、実はもう売約ができていまして、さしあげかねます」
「いくらで売約しましたか」
「それは、あの……」老商チャンは、まさか正直に二十万円とはいいだせなかった。
客は、紙幣を並べおえた。
「私、五十万円に買う契約、さっき、あなたとしました。私、買います。五十万円の高値でこれを買う人、私より外にありません」
「よろしい。売りましょう」
チャンは、ついにそういった。二十万円に売るよりも五十万円に売った方が二倍半の大もうけだ。売約したあの婦人には、手つけの二万円の外に、あと五千円か一万円つけて返せば、文句はないだろう。そう思った老商チャンであった。
客は、黄金メダルの半ぺらを持って、店をでていった。チャンは、受取った紙幣をもう一度数えるのに熱中していた。
それから七八分あとのことだったが、万国骨董商チャンフー号の店先を通りかかった一人の少年が、不意に立ちどまって、さけび声をあげた。
「うわーッ。これは血やないか。店の奥から、えらいこと血が流れてきよるがな」
その声に、近所の人たちがおどろいてとびだしてきた。そしてチャンの店内へはいって、老主人の名を呼んだ。
チャンの返事はなく、ただ籠の中で、小鳥がチチチと鳴いていた。
「どうしたんやろか、チャンさんは……」
「あっ、こんなところに倒れている」
店の奥に、老商は朱にそまって倒れていた。心臓の上にピストルで撃ったらしいひどい傷あとがあった。そしてそのまわりには、服の上に焼け焦げが丸くできていた。もちろんチャンは絶命していた。誰が、いつの間に、老商をこんなに冷い死骸にしてしまったのであろうか。
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