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私にもだんだんと辻永の語る恐ろしさが判ってきた。ゾッとする戦慄が背筋へ忍びよる――。
「この明るい東京の真ン中に、あのバーから始まってビール会社に続くこんな恐ろしい街道があるのだ。それは死に至る街道だ。地獄へゆく街道だ。これでも君は、おれ様の探偵眼を疑うか」と辻永は虹のような気焔を吐いた。
私はすっかり自信がなくなった。顔面は紙のように白くなっていたであろう。手はワナワナと震えてきた。
「もう判った。君はミチ子のことで、この僕をあの恐ろしい地獄街道へ送ろうというのだネ。さっき僕に飲ませた酒は、あの妖しい酒なんだろう。そうに違いない」
私はもう坐っても立っても居られなかった。それはミチ子をめぐる彼と私との暗闘が最後的場面へ抛り出されたのだ。断然たる敵意であった。砲弾のような悪意だった。
「はッはッはッ」と辻永は軽く笑った。「まア落着いたがいいだろう。あの酒は僕が飲ませたわけではなく、もともと君の前にミチ子が持ってきたのを、君がとりあげて飲み乾しただけのものじゃないか。僕がなにを知るものかネ。唯、地獄街道の道案内を聞かせてやっただけじゃないか。最後の注意をするが、もうソロソロ催してくるから、助かりたかったら……」
と、そこまで云ったとき、辻永は襲われた様に声を嚥んでガッと眼を剥いた。そして椅子からピンと立ち上ったが、痛そうな顔をして腰をかがめて下腹をおさえ、急いで手洗室の方へ駈け出した。
「戸をあけてくれ。あけてくれ」
「貴方、ちょっとお待ちなすって」とその日は月曜だというのに珍らしくいつものように出ていた主人が駭いて駈けつけた。「唯今お客さまがお使いになっていますから、しばらく、しばらくお待ち下さい。しばらくどうぞ」
「ぎゃーッ」主人に遮られて、辻永は獣のような声をあげた。これがあの沈着な辻永とはどうして思えよう。彼はクルリとふりむくと、今度は表戸を蹴破るようにしてサッと外へ飛び出した。私には何もかも判った。実に辻永は例の妖酒を自分が飲んでしまったのだ。
「オイ待て、辻永」私も続いて戸外にとび出した。もう十二時に間もない街はヒッソリと静かだった。辻永の姿はと見ると、向うの軒灯の下に転がるように駈けている黒い影がそうであろうと思われた。私は彼の名を呼びながら追い駈けたがとても追いつけなかった。
彼の話にある川っぷちを方々探したが見えない。桜ン坊も見当らない。探し疲れて橋の欄干に身を凭せかけた。もう時間はかなり経っているのにと心配していると、そこへ一台の自動車が風のように現われて、サッと通りすぎた。
「呀ッ! 辻永ッ」
私は車内に、たしかに辻永の姿を認めた。彼の傍には確かにあの桜ン坊というガールがピッタリと倚りそっていた。私は路の真中まで駈け出したが、もう間に合わなかった。どうやら私は違った側の川っぷちを探していたものらしい。
そこへ向うからパタパタと一人の女が近づいてきた。私の方へ向ってくるようだ。私はギョッとした。例のガールででもあって、そして矢張り私があの妖酒を飲まされていたのであったら、ああ其の恐るべき先は……。
「山野さん。あの人見付かって」
それはミチ子だった。私はすこし安心した。
「駄目だった」
「あの人、黄疸だったようネ」
「黄疸! 黄疸というと、なんでも彼でも黄色に見える病気だネ」
「そうよ」
「それで判った。僕のグラスの無色の酒を黄色のコンコドスと見誤り、自分の黄色のコンコドスを、もっと黄色い別の酒と見誤ったのだ。だからコンコドスは最初から註文したとおり辻永の前にあったのだ。彼は話をうまく持っていって、僕にコンコドスを飲ませるつもりだったのに違いない」
「コンコドスの事をまだ云ってるの。――辻永さんはどこへ行ったのでしょう。大丈夫かしら」
「うん――」私は返事に詰まった。このままにして置けば箱詰めになる辻永だった。
「とにかく帰って一杯飲もうよ――」と、私はミチ子の手をとった。いま地獄街道を蝙蝠のような恰好でヒラリヒラリと飛んでゆく彼の姿を肴に一杯飲みながら、さて助けてやろうかやるまいかと考えるのも悪い気持ではなかろうと謂うものだ。
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