海野十三全集 第10巻 宇宙戦隊 |
三一書房 |
1991(平成3)年5月31日 |
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷 |
1991(平成3)年5月31日第1版第1刷 |
1
なにがさて、例の金博士の存在は、現代に於ける最大奇蹟だ。
博士に頼みこむと、どんなむつかしそうに見える科学でも技術でも、解決しないものは一つもない。雲を呼んでくれと博士にいえば、博士はそこに並んでいる壜の栓を片端から抜く。抜けば、壜の中よりは、濛々たる怪しき白い霧、赤い霧、青い霧、そのほかいろいろが、竜巻のような形であらわれ、ゆらゆらと揺れているのを面白がっている間に、いつしか部屋の中は一面の霧の海と化してしまって、そのうちに博士がどこにいるやら、実験台がどこにあるやら、はては自分の蟇口がどこにあるやら、皆目分らなくなってしまうというようなわけで、結局金博士の智慧を験めそうとした奴の蟇口の中身が空虚と相成って、思いもかけぬ深刻な負けに終るのが不動の慣例だった。
「おいおい、ちょっとしずかになったと思ったら、ひどいことを書きおる。わしは瓦斯の研究をやっているから、赤い霧、青い霧の話はいいとして、蟇口がどうとかしたというくだりは、どうも人聞きが悪いじゃないか。わしの人格にかかわる」
いつの間にか、私の背後から金博士が、原稿用紙をのぞきこんでいたのを、私は知らなかった。
そこで私は、ペンを休ませないで、こういったものである。
「金博士、私があれほど教えてくださいと懇願していることに博士が応えてくださらない限り、私は博士の有ること無いことを書きなぐって、パンの料にかえながらいつまでもこの上海に頑張っている決心ですぞ」
そういって私は、前の卓子に噛りつく真似をしてみせた。
すると博士は、人並はずれた大頭を左右にふりながら、
「はてさて困った男だ。まるで蒋介石みたいに攻勢的同情を求めるわい。しかしいつまでもわしの部屋に頑張られても困るが、一体貴公の教わりたいという事項は、何じゃったね」
「あれぇ、金博士はもうそれをお忘れになったんですか。そんなことじゃ困りますね」
と、私は大袈裟に呆れてみせて、ひとのいい博士の、急所に一槍突込んだ。
「ああそれは済まんじゃった。はてそれは何のことだったか、ああそうか、殺人光線のエネルギー半減距離のことだったかね」
「いえ違いますよ。博士、私が教えてくださいといったのは、そんなむつかしい数学のことではありません。つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるであろうか? その答を伺いたいと申したのです」
「なんじゃ、もう一度いってくれ。何の呪文だか、さっぱりわしには通じない」
「何度でも申しますが、つまり、文化生活線上に於けるわれわれ人間は、究極なる未来に於て、如何なる生活様態をとるものであろうか? どうです。今度は分りましたろう」
「何遍聞いても、分りそうもないわい。結着のところ、やがて人類はどんな風な暮し方をするかということなのじゃろう」
「そうですなあ。まず簡単粗雑にいうと、そういうところですねえ」
「そうか、そんな質問なら、答はわけのないことじゃ。ピポスコラ族と全く同じようになる。そして一万年か二万年たてば、われわれ人類にはネオピポスコラ族という名前がつくだろうな」
「ははあ。そのピポスコラ族というのは、何ですか。どこにいる民族ですか」
「それは、今わしがいっても、お前はとても信じないと思うから、いうのはよそう」
「博士、それは卑怯というものです。今までに民族学や人類学はずいぶん勉強しましたが、ピポスコラ族なんてものは聞いたことがありません。博士は出鱈目をいっていられるのでしょう」
「莫迦なことをいっちゃいかん。尤も、パルプで慥えたあのやすい本なんかには出とりゃせんだろうが、わしは嘘をいっているのではない」
「じゃ説明してください。或いは、私をそのピポスコラ族の前へ連れていってくだすってもかまいません」
「あはははは。うわはははは」
博士は、なぜか大声をたてて、からからと笑いだして、しばらくは笑いが停まらなかった。そのうちにようやく笑いを停めると、こんどは笑いあきたか、急に熊の胆を嘗めたようなむつかしい顔になって、
「では、こうしよう。来る八月八日を第一回目として、それから十年毎の八月八日に、お前はその日の日記を認めて、わしのところへ送ってきなさい」
「十年毎の間隔は、ちと永いですね」
「そうでもないよ。そうしてお前が、第八回目の手紙を書くようになったときには、お前は否応なしに、ピポスコラ族に出会った話を書かなければならないだろう。それまでわしは、ピポスコラ族のことも、又それと同じ生活様態になるわれわれ人類のことについても、喋らないことにする」
「まるでお伽噺に出てくる人間の姿をした神様の台辞みたいですね。そんなまどろこしいことをいわないで、早く教えてください、一体われわれが遠き未来において、どんな生活をするかを……」
「云わないといったが最後、この金博士は絶対に云わないのじゃ。この上ぐずぐず云うと、この部屋に赤い霧、青い霧をまきちらすぞ」
「いや、それはお許しねがいたい」
私は、蟇口を片手でおさえると、脱兎のように、博士の研究室を逃げだしたのであった。
――以上が、金博士に送った第一回の日記、つまりその年の八月八日の私の日記だったのである。
2
第二回目の日記は、それから十年たった十×年八月八日に於ける私の日記であった。これは第一回分のものとは違って、大分日記風になってきた。以下、これを再録しておく。
十×年八月八日 晴れ
小便に起きたついでに、明り取りの窓から暁の空を透かしてみると、憎らしいほど霽れ渡った悪天候である。
これでは今日も、日本空軍のはげしい爆撃があるだろうと思って憂鬱になったとたんに、ぷーっという空襲警報のサイレンであった。
「うわーっ、つまらない予想が当りやがる」
私は、ぺっと唾をはくと、寝床へとって返した。ベッドの上の衣服と、その脇に吊しておいた非常袋を掴むが早いか、部屋をとびだして、街路を駈けだした。目標の市民防空壕は、五百ヤードの先である。
息せき切って防空壕に辿りついたはいいが、ふと手を頸のところへやってみると、肝腎の入壕証がない。しまった。紐をつけて頸にかけていたが、途中で切れてしまったらしい。といって引返してまごまご探していようものなら、足の早い日本空軍の爆撃機は、私の知らぬうちに頭上へ現れるだろう。
私は泣き面に蜂の体たらくであった。
「入れてくださいよ。入壕証は、その辺で落として来たんですよ」
「その辺で落として来たんなら、これからいって拾ってくるがいいじゃないか」
「それが……」
役人は意地悪い顔つきで、私を睨みつけている。仕様がない。なけなしの財布の底をはたくより外に途がない。
私は、非常袋の中へ手を入れて、五千元の法幣を掴みだした。それをそっと、役人に握らせると、
「今日だけ、一つ頼みます」
「ううん。たった、これだけか。これだけでは……」
「ああ出します。もうこれで身代限りなんです」
と、私は更に三千元の法幣を掴みだして、かの役人の手に握らせた。
「よろしい。今度だけ大目に見る。この次は二万元以下じゃ、見のがされんぞ」
「へい」
私は急いで、役人の腕の下をくぐって、防空壕の中にとびこんだ。すると、ずんずんずんずずーんと、大きな地響が聞えてきた。もう爆撃が始まったのである。ぐずぐずしていると、防空壕の入口が閉ってしまうところであった。
それが爆撃の皮切りであった。それから、始まって、息をつぐ間もなく、爆裂音が続いた。壕の天井や壁から、ばらばらと土が落ちて、戦き犇きあう避難民衆の頭の上に降った。あっちからもこっちからも、黄色い悲鳴があがる。
中には、案外くそ落着きに落着いている奴もあるもんだと思ったが、私と肩を摺り合わせている青年がいった。
「あの、どどーんという爆裂音と、あのずしんずしんという地響と、この二つを無くすることが出来ないものかな。あれを聞くと、生命が縮まる」
「それは無理だと思うね。この重慶にいる限り、どうも仕様がないよ」
と私はいった。
「いや、私はまだ対策があると思うんだ。もっと防空壕を深く掘るとか、出入口の扉を三重四重にするとか、政府が努力するつもりなら、もっといい防空壕が出来る筈だ。そう思いませんか」
「それはそうだね」と私は青年にさからわぬよう相槌をうった。
「とにかくわれわれは、世界中で最も勝れた市民だということを忘れてはいかん」
青年の話が急にかわった。
「え、どうして?」
「え、だってそうだろうが。世界中で、われわれほど毎日のように猛爆をうけている市民はいない。従って、われわれほど、すぐれた防空施設を持ち、且つ防空精神力を持った人間はどこにもいないというわけだ。つまり我々は、日本空軍のおかげで、世界一の防空文化人なんだ。そうでしょうが」
「あ、なるほど、なるほど。しかし、ずいぶん長期戦が続くものですなあ。もういい加減、日本空軍が鉄に困って木製や泥製の爆弾を落としてもいい頃だと思うんだが、相変らず鉄の爆弾を落としとるですが、敵もさるものですなあ」
「いや。もう今日の爆撃あたりには、木製の爆弾を使っているのかもしれないよ」
「でも、木製爆弾なら、あんな逞しい音はしないでしょう」
「そうだね。今日の爆弾は音が、悪い……」
といっているとき、大きな音響と共に、目の前が火の海になったかと思ったら、私はそのまま気を失ってしまった。……
今日の日記はこれでおしまいである。なぜなれば、私が気がついたのは、その翌朝のことであったから、今日の日記としては、気を失ってしまった点々々というところで終りなのである。
3
金博士へ送る第三回目の日記。
前の日記から、また十年たったのである。
二十×年八月八日 晴れ
ラジオは、今朝は空が晴れているとアナウンスした。十年前のころは、夜が明けて、空が晴れていると、空襲があるという予想から、晴天を恨んだものである。この頃は、晴れていようが、曇っていようが、どっちでも大した差違はない。どんな日でも、飛行機はとんで来て、正確に爆撃をしていくのだから。
しかしこの頃のように、われわれ市民は、地下へ潜ったきりで、一ヶ月に一度も、地上へ出て空を仰ぐ機会が与えられていないと、なんだか天気のことなど、莫迦くさくて、聞く気になれない。
食事をすませて、第三区行きの地下軌道にのり、会社に出勤した。今朝は、いきなり委員会議だ。
今日の議題は、地下都市の拡張工事について、掘り出した土を、どこの地上に押しだすかということである。うっかりどこにでも出そうものなら、たちまち敵国の空中スパイに発見されて、こっちの新しい地下都市の所在を突き留められてしまう。
午後三時であったが、会議中、空襲警報が、睡むそうに鳴り響いた。
「またアメリカ空軍が爆撃にやってきたか。御苦労なことじゃ」
この頃の爆撃はラジオのアナウンスだけで、お仕舞いだから、頼りない。地下都市の構築法が完全になって、爆弾が落ちても、地響一つ聞えて来ないし、もちろん爆裂音なんか、全く耳にしようと思っても入らない。なにしろ地下都市も、今は百メートルの深さにあるのだから、安心したものである。
そんなことを思っていたとき、だしぬけにものすごい音響が聞え、同時に、壁がぴりぴりと震え、天井に長々と罅が入った。
「うわーっ、めずらしいじゃないか、爆裂音だ。どうしてこんな地下まで、紛れこんできたのかね」
議長さえ、まだそれほどの険悪な事態の中にあるとは考えないで、爆裂音を身近くに聞いたことを興がっている。
だが、時間がたつに従って、一座は、今日の爆撃がたまたま地隙を縫って、深い地下に達したというような紛れあたりのものでないことに気がついたのだった。爆裂音は、次第に大きさを増し、そしてピッチを詰めてきた。
議長が、議案をそっちのけにして、びりびり震動する周囲の壁を見廻した。
「どうも今日の爆撃は変だね。いやに地底ふかく浸透するじゃないか。おい君、対空本部へ電話をかけて事情を聞いてみよ」
議長は私に命令した。
私は早速、対空本部附の漢師長を呼びだした。そして、いつもに似合わしからぬ爆弾の深度爆裂についてたずねたのである。
すると漢師長は、あたりを憚るような口調になって、私に云ったことに、
「それは、いつもと違っている筈だ。今日アメリカ軍が使っている爆弾は液体爆弾なんだ」
「液体爆弾? そんなものは初めて聞いたが、それは一体どんなものかね」
「つまり、アメリカが深い地下街爆撃用にと新たに作った爆弾で、A種弾とB種弾と二つに分れているんだ。まず初めにA種弾をどんどん墜とすのさ。すると爆弾は土中で爆発すると、中からA液が出て来て、それが地隙や土壌の隙間や通路などを通って、どんどん地中深く浸透してくるのさ。ちょうど砂地に大雨が降ると、たちまち水が地中深く滲みこんでいくようなものさ」
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