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ゴールデン・バット事件(ゴールデン・バットじけん)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 16:14:20  点击:  切换到繁體中文


     3


 折角せっかく駆けつけて呉れた丘田医師だったけれど、重傷のきん青年は、私が出掛けると間もなく事切れたそうであった。
 帆村の案内で、金の屍体のところまで行った医師は、叮嚀ていねいに死者へ敬礼をすると、懐中電灯を出して、傷の部分を診察した。
「これは何か鈍器どんきでやられたもののようですネ。余程重い鈍器ですナ、頭の方よりも、左肩が随分ひどくやられていますよ。骨がボロボロに砕けています」
「そうでしょう」と帆村はこたえてから、指を側へ向けた。「そこに凶器がありますよ」
「どれです」医師は目をあげた。
「ほら、これですよ」と帆村は二三歩あるいて、床の上にころがっている一つの大きいまりのようなものを指した。「外側は御覧のとおり毛糸で編んであります。しかしこれは単なる袋ですよ。中身は鉄の砲丸です、あの競技に使うのと同じですが、非常に重いです。こっちから御覧になると、血の附いているのが見えますよ」
 帆村は横の方から凶器の一部を指し示した。
「これは頭部からの出血が染ったのですナ」と医師は云った。
「そうらしいですネ。ときに丘田さん。この死者の致命傷は、やはりこの外傷によるものでしょうか」
「無論それに違いがありませんが、何か御意見でも……」
「意見というほどのものではありませんが、この死者の身体を見ますと、普通の人には見られない特異性があるように思うんです。例えば、中毒症といったようなものがです」
「そうです、そうです」医師はしきりに同感の意を表して云った。
「そう仰有おっしゃれば申上げてしまいますが、実はこの金さんはモルヒネざいの中毒患者ですよ」
「ほほう、貴方のところへ、治療を求めに参りましたか」
「そうなんです。実はこの四五日このかたですがネ」
「今日も御覧になりましたか」
「今朝ましたよ。大分ひどいのです。普通人の極量きょくりょうの四倍ぐらいやらないと利かないのですからネ」
「四倍ですか、成程。――」
 帆村はケースから一本の巻煙草を引張りだすと、カチリとライターで火をつけた。そしてそれっきり黙りこくって、ただ無闇に紫の煙を吹いた。それは彼がなにか大いに考えるべきものに突き当ったときの習慣だった。
 そのとき、大通りの方から、けたたましい自動車の警笛けいてきが入り乱れて聞えてきた。それはアパートの前まで来ると、どうやら停った様子だった。間もなく階段をのぼるドヤドヤという物音がして、この事件を聞きつたえた警視庁の係官や判検事の一行が到着したのだった。
「やあー」
「やあ、先程はおしらせを……」
 大江山捜査課長は、この事件を帆村から報せてもらったことに礼を述べた。
「ときにどうです、被害者の容態は」
「間もなく絶命ぜつめいしましたよ。とうとう一言も口を利きませんでした。……午前零時三十五分でしたがネ」
「ほほう、そうですか。これが金という男ですか。やあ、これはひどい」
現場げんじょうはすべて事件直後のとおりにしてありますから」
「いや有難う」
 係官たちは、現場がすこしも荒されずに保存されたことについて、帆村に感謝したのだった。帆村は私をうながして、別室へ移った。これは係官の調べを済ます間、邪魔をしないためだった。
 同じような部屋割りの隣室りんしつだった、椅子もないので、私達はベッドの上に腰を下した。ここにしばらくの時間があるが、この間に帆村とうまく連絡を取っておかねばならない。
「どうだ、犯人は何かしゃべったかい」
 と、帆村がホープに火をけるのを待って尋ねてみた。
「いや君、あの男はまだ犯人とは決っていないよ」
「だってあの男は、事件の室から出て来たのだろう。そして薄刃うすばの短刀をもって君に切り懸ったのじゃないか」
「うん、だがあの短刀にはまだ一滴の血もついていないのだ」
「すると、あの袋入の砲丸でやっつけたのだろう。あの大きな男にはやれそうな手段じゃないか」
「それもまだ解らない」
「君はあの男に、まだそれをいてみないのかい」
「うん、あの男とはことも口を利いていないんだ」
 犯人と思われるあの男に、まだ一言半句の訊問じんもんもしてないという帆村の言葉に、私は驚いてしまった。
「じゃ今まで君は、一体何をしていたのかネ」
「金の部屋について調べていたのだ」
「そして何をつかんだのかい」
「いろいろと面白いものを掴んだ。しかし短刀をもった男を犯人と決めるに十分な証拠はまだ集まらない」
「というと、どんなものを」
 帆村はみこんだ煙を、喉の奥でコロコロまわしているようだったが、やがて細い煙の糸にして静かに口から吐きだした。それは彼が何かがたい謎を発見し、解く前の楽しさに酔っているような場合に限って、必ずやって見せる一つの芸当げいとうだった。
「あの部屋で面白いことを見つけたがネ」と帆村はボツボツ語りだした。「それはゴールデン・バットについてなのだ。君はあすこの床の上に、バットがバラバラこぼれているのに気がつかなかったかい」
「そういえば、五六本、ころがっているようだネ」
「五六本じゃないよ。本当は皆で三十二本もあるんだ。といってこれが、五十本も入るシガレット・ケースから転げ出したのじゃないのだよ。そんなケースなんて一つもあの部屋には無いのだ。あるのはバットの、あのお馴染なじみ空箱からばこだけだった。空箱の数はみんなで四個あったがネ」
「ほほう」
「それからもっと面白いことがある。あの部屋には灰皿が三つもあるんだが、さての灰皿の中に大変な特徴がある」
「というと……」
「灰皿の中に、燐寸マッチの軸と煙草の灰が入っているのに不思議はないが、もう一つ必ず有りそうでいてあの灰皿には見当らないものがあるのだ」と帆村は云ってちょっと口をつぐんだ。
「それは何かというと吸殻すいがらが一つも転っていないのだ。灰の分量から考えると、すくなくとも十五六個の吸殻すいがらがある筈と思うのだが、一個も見当らないのだ。これは大変面白いことだ」
 私には何のことだか見当がつかなかった。
「煙草について、まだ発見したことがある。それは床の上に転がっている三十二本のうち、汚れないのが二十五本で、残りの七本は踏みつけられたものと見え、ペチャンコになっていた。それを調べてみると、ハッキリ靴の裏型がついているから、これは靴で踏みつけられたものと見てよい。しかし靴は、普通ならばあの部屋の入口で脱いで上るようになっている。しかるにこの踏みつけられた七本のバットから考えると、誰か靴を入口で脱がないで、そのまま、上へ上った者がいたという説明になるわけだ」
「それが例の短刀をもった男じゃないのかネ」
「そうかも知れない。そうかも知れないが、何しろバットの上につけられた靴の跡のことだ。小さい面積のことだから、ハッキリどんな形の、どんな寸法の靴だとまでは云えないのだ」
「なるほど」
「そこで僕は、君に一つ質問があるが」と帆村はまた一本のホープに火を点けて云ったのである。「事件の最初、君がアパートの裏口へ廻ったときに、露地ろじに何か人影のようなものを見懸みかけたといったが、あれは男だったか、それとも女だったか、解らなかったかネ」
「さあ、どっちとも解らないネ」
「解らない。解らなければ、それでもいいとして、僕はあの部屋に事件の前後に居たものと思われるもう一人の人物を知っているのだ」
「それは誰のことだい」
「それは女である。しかも若い女である」と帆村は仰々ぎょうぎょうしく云った。
「どうしてそれが判ったのかい」
「それはベッドの上に枕があったが、探してみるとベッドの下にもう一つの枕が転げていて、これには婦人の毛髪がついていた。それだけではない。卓子テーブルの上に半開きになったコンパクトが発見された。白い粉がその卓子の上にこぼれていた。粉の形と、コンパクトをどけてみた跡の形とから、コンパクトの主があれを卓子の上に置いたのは、相当生々なまなましい時間の出来ごとだと推定される。――それでさっき僕のした質問の目的が解ったことだろうと思うが、或いは君が、その若い女を見かけやしなかったのかと考えたのだ」
「待ってくれ、そう云えば……」
 とそこで私は、丘田医師の家で、はらたちまぎれに観察した女靴の跡のことや、丘田医師のことについて報告した。
「もしや金の部屋に寝ていたらしい若い女というのは、丘田氏のところにあった靴跡の女ではないのかネ」
「それは独断どくだんすぎると思うネ。しかし丘田氏のところにいた女が、洋装をしていることが判ったのはいいことだ」
「しかし君の云う隣りの室に寝ていた若い女は、直接犯行に関係があるのかい」
「そこに実は迷っている」と帆村は煙草をスパスパ性急せいきゅうに吸った。「その女が犯人らしいところもあると思う。そいつは踏みつけられたゴールデン・バットから考える。女はあのベッドの上に、金と寝ていた位だ。だから靴は脱いでいたものと思う。僕には意味が解らないが、状況から云って女は兇行後、あのバットを箱から出していたのだ。だから注意をしてバットを踏まずに外に出ることができた。そのあとで短刀をもった男が闖入ちんにゅうしたが、バットがこぼれていることには気付かないもんだから、踏みつけてしまったものと考えられる」
「しかしそれは、あの短刀の男が、箱から出したとしても理屈がつくじゃないか」
「それは別に構わない。あの男は元々怪しいふしがあるのだから、煙草の上の嫌疑が加わっても捜索には大して困らないのだ。なぜかといえば、あの砲丸を金の肩に投げつけるだけの力は、あの男には十分にあると認められるし、それからまた現にあの部屋から出てきたのを見られている。しかし犯人が若い女の方だとすると、煙草は可也かなり重要な証拠になると思う。金が目醒めざめている間には、あんなに煙草を撒き散すことは出来ない。男は相当抵抗の末重傷を加えられたと認められるから、そうなるとバットが踏みつけられることなしに満足に転がっている筈がない。そうかと云って男がベッドに睡っている間にあの煙草を撒いたのでもない。それは男がベッドから遠く離れたところで重傷しているので解る。ベッド以外に男が睡っていられるところなんてあるものじゃない。どうしてもあの煙草は、男に兇行を加えた上で撒いたものに違いないとなるじゃないか。もう一つ砲丸をげることは、どの若い女にも出来るという絶対の芸当ではないのだ。それとも君は、脆弱かよわい女性にあの砲丸を相手の肩へげつけることが出来る場合を想像できるかネ」
「さあそれは、まず出来ないと思うネ。その女が気が変にでもなって、馬鹿力というのを出すのでも無ければネ」
「気が変に? 気が変だとすれば、あの場をあんなにたくみに逃げられるだろうか」
「ないこともないぞ」と私は負けるのがいやであるから叫んだ。「こういう場合だ、気が変になった女が、金に重傷を負わした。途端になおったとすると……」
「もうそう。はッはッはッ」と、帆村はあきがおに笑い出した。
「帆村君、ちょっと来て下さらんか」
 室の外から、大江山捜査課長の呼ぶ声がした。どうやら隣りの調べもかたがついたものらしかった。

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