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私は医者を迎えるために、外へ飛びだした。丘田医師というのは、ゴールデン・バットの近くに診療所を持っていた。それだから私は、さっき帆村と一緒に通った道をもう一度逆に帰ってゆかねばならなかった。
その道々、私の全神経は、今見た怪我人のことで占領されていた。
金と呼ばれる彼の男の顔を覚えたのは、忘れもしない私が最初バットの門をくぐったときのことだった。沢山客もあるなかで、なぜあの男のことをハッキリ印象づけられたか。そうそう思い出したが、まだもう一人、あのときに覚えた男がいた。その人のことを先に云うが、それは海員らしく、女たちにしている話が如何にも面白かったので記憶に残っている。あまり大きな人ではなかったが、陽にやけた男らしい男で、その上、どの海員たちもがそうであるように、非常に性的魅力といったようなものが溢れていて、女の子にはチヤホヤされそうに見えた。彼のしていた話というのは、むろん航海中の出来ごとについてだったが、中で一番私の注意を引いたものは、密輸入に関するものだった。船員の中には、陸上の悪漢団と、切っても切れぬ腐れ縁のあるものがあって、いつも密輸を強制される。密輸といっても小さい船の中であるから、たびたび繰返しては見付かってしまう。だから、一つ又一つと苦心をして新手の方法を考えなければならない。最近ではエドガア・ポオもどきに、密輸入品を人目につかぬ所に隠す代りに、反って人目に極くつきやすいところへ放り出して置くのが流行っていると、こんな話を面白可笑しく、この海原力三という船員が話して聞かせた。
さて例の金青年と来ると、身体が大きいばかりで男前がよいというのでもなく、スポーツマンらしい垢ぬけたところがあるのでもなく、どちらかと云えば男として美の要素の欠けた青年だった。迚も海原力三などとは、恋の競争などは思いもよらぬ劣勢者と思われた。それがあのカフェ・ゴールデン・バットの女にもてること大変なものだった。金が入って来ると、十人近い女は自分の持ち番の客の有る無しに係らず、ドッと喚いて一斉に彼に飛びついてゆくという騒ぎである。それがなんとも形容しがたいような嬌声を張りあげて、あっちからも、こっちからも金の胸にぶら下るのだ。まるで一つの麩を目懸けて、沢山の緋鯉真鯉がお互に押しのけながら飛びついてくるかのように。
そのときに金はどんな顔をしているかというのに、一向嬉しそうにも楽しそうにも見えないのだから不思議である。唯、隅っこの席へ行ってドカリと腰を下ろす。そこは彼のために、いつも取って置きの場所だった。そこで彼は悠々と一本の煙草を取り出す。するとまた大騒ぎである。十人ばかりの女が誰一人のこらず、てんでに帯の間から燐寸を出し、シュッと火をつける。まるで燐寸すり競争をやっているようなものだ。莫迦莫迦しくて見ていられない。
「ばか、ばか、煙草が燃えてしまうじゃないか」
そのとき金は、ほんの微かにニコついて、煙草の火をつける。彼がフーッと煙を吹き出すと女どもは、身体を蛇のようにねじらせて、
「ねェ、ねェ」「ねえッたら、ねェ」
と鼻声をあげる。そこで金は、懐中をさぐって、卓子の上へポーンと煙草の函を投げだす。わーッというので、女どもはその函をひったくって(それは大抵、あの君江の手に入るのが例だ)、ひったくった女が、子供に菓子を分けるように、朋輩どもの手に一本ずつ握らせてやる。貰った方では、その金青年お流れの煙草に、パッと火をつけて貪るように吸って、黄色い声をあげる。
左様に豪勢な(併し不思議な)人気を背負っている金青年の心は一体誰の上にあったかというと、それは君江の上にあった。その君江なる女がまた愉快な女で、金の女房然としているかと思えば、身体に暇があると、誰彼なしに愛嬌をふりまいたり、情けを尽したりした。だから君江という女は、金とは又別な意味で、客たちの人気を博していた。
しかし満れば虧くるの比喩に洩れず、先頃から君江の相貌がすこし変ってきた。金青年に喰ってかかるような狂態さえ、人目についてきた。それでいて、結局最後に君江は金の機嫌を取り結ぶ――というよりも哀訴することになるのだった。
これに反して金青年の機嫌は、前から見ると少し宛よくなって来たようであった。それは、これまで煙草を欲しがらなかったチェリーが、彼の訓練によって煙草を喫いはじめたからである。
「煙草って、仁丹みたいなものネ」
とチェリーは云った。
「煙草は仁丹みたいなものは、よかったネ」
と金は笑った。女達も釣りこまれてハアハア笑いだしたが、君江だけがどうしたものか、ツと席を立って調理部屋の方へ姿を消したっきり、いつまで経っても出てこなかった。
――そのようなカフェ・ゴールデン・バットの帝王の如き人気者が、見るもむごたらしい兇行を受けたものだから、私は非常に駭きもしたし、一体誰にやられたのかと、普段から知っている誰彼の顔をあれやこれやと思い巡らした。
丘田医師の家は、すぐ判った。私の長話に大変時間が経過したような気がされることであろうが、アパートを出てからここまで、正味四五分の時間だった。
電鈴を押すと、すぐに人が出て来たのは意外だった。迎えてくれたのは、三十四五の、涼しそうな髭を立てた、見るからに健かそうな和服姿の紳士だった。
「先生は?」
「イヤ、僕ですよ」
「あ、そうですか、実は……」
と私は急病人の話をして、ひどい外傷だから直ぐに来て呉れるように頼んだ。
「伺いましょう。直ぐお伴しますから、ちょっと待っていて下さい」
丘田医師は顔を緊張させたようだったが、奥へ入った。
奥へ入って仕度をしているのであろうが、直ぐという言葉とは違って、なかなか出て来なかった。私はすこし癪にさわりながら、この医師の生活ぶりを見てやるために、玄関の隅々を睨めまわした。
そのときに、私の注意を惹いたものがあった。私も帆村張りに、これでも観察は相当鋭いつもりだ。とにかく第一に私は、そこに脱ぎすてられてあった真新しい男履きの下駄の歯に眼を止めた。桐の厚い真白の歯が、殆んど三分の二以下というものは、生々しい泥で黒々と染まっていた。
それからもう一つ、洋杖が立てかけてあったが、近くに眼をよせて仔細に観察してみると、象牙でできているその石突きのところが同じような生々しい泥で汚れていた。
この夜更け、丘田医師が直ぐ玄関へ飛び出して来たところといい、寝ぼけ眼をこすっていたわけでもなく冴えきった眼をしていたことといい、この下駄の泥、洋杖の泥は、丘田医師がどんなことをしていたかすこし見当がつくように思った。私は犬のように鼻をクンクン動かして、更に周囲に注意を払った。丘田医師のらしい男履きの下駄が並んでいるところは、セメントで固めた三和土だった。それは白い色が浮き上るほど、よく乾燥していた。しかし私は、その男下駄の側方に、ほんの僅かではあるが、少し湿っぽい部分のあるのを発見した。私は前跼みになると、手の甲をかえして拳の先で三和土の上をあちこち触れてみた。手の甲というものは、冷熱の感覚がたいへん鋭敏である。医師が打診をするときの調子で、そこらあたりを圧えてまわった揚句、とうとう私は或る物の形を探しあてた。それはなんと、一対の踵の高い婦人靴の形だった。靴から押して、足の寸法は二十二センチ位と思われた。
婦人靴の恰好に、三和土の上が湿りを帯びていながら、そこに婦人靴が見当らないということはどういうことを意味するのだろう。と考えたとき、奥の間で何だか女の啜り泣くような声が一と声二た声したような気がした。ハッとして思わず前身を曲げて聞き耳を立てたところへ、手間どった丘田医師が洋服に着換えてヌッと出てきたので、これには私も周章てた。
「どうかしましたか」と丘田医師は不機嫌に云った。
「イヤ、誰方か患者さんがおありじゃないですか」
「有りませんよ。お手伝いが歯を痛がっているのです」
そういう声は変に硬ばっていて、嘘を云っているのだということを証明しているものだった。
私達は外へ出たが、そのときは話題が、例の重傷を負うた金青年の上に移っていた。丘田医師の話では、金青年を知ってもいるし、診察もしたことがあると云っていたが、何病であるか、それは云わなかった。そして、私の熱心な問いに、時々トンチンカンな返事をしながら、しきりに足を早めるのだった。
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