赤外線男 他6編 |
春陽文庫、春陽堂書店 |
1996(平成8)年4月10日 |
1996(平成8)年4月10日初版 |
1996(平成8)年4月10日初版 |
「どうして、おれはこう不運なんだろう」
病院の門を出ると、怺えこらえた鬱憤をアスファルトの路面に叩きつけた月田半平だった。
院長は、なーに大丈夫ですよ、こんな病気なら注射の五十本もやれば造作なく治りますよ。ただし五十本が一本欠けても駄目ですよ、それをお忘れのないように――と言った。一回三円として、百五十円の金がいるわけだ。ああ、これがたった一度の代償なんだ。
たった一度――というのは、すこし説明を要するが、この半平は元来、貞操堅固の男だったのを友人達が引っ張り出して、東都名物の私娼窟玉の井へ連れていったのだった。これは友人にも多少の悪巧みはあったにしても、主たる動機は半平という男が細君に死別してからまる二年この方、空閨を貞淑に守りつづけているのを見ちゃいられなかったせいだった。そして半平は、あくまでも亡妻への貞操を死守するつもりだったのである。彼のエネルギッシュな敵娼の理解を得ることができず、ついに暴力をもって征服されちまったのである。
そして、数日後に半平は身体の一部に異常を発見したのだった。彼にとって、それは踏んだり蹴ったりの不運だった。
いや、それよりも差し当たり大問題なのは、あと四十九回の治療代をどうして捻出すべきかということだった。
これが五年前なら五千円の貯金があった。その年の暮れ、三千円というものを費って新妻を持った。その細君はさらに次の年に慢性病になり、転地療養をすることになって残額の二千円はばたばたとなくなってしまった。そして貯金通帳から、最後の五十銭までが奇麗に払い出されると、間もなく細君の寿命も、天国に回収されてしまった。彼はまったく無一文になったのだった。
(四十九回の注射をやらなければ、この身がだんだん腐っていく!)
こうなると、半平は泣いてばかりもいられなかった。
三日三晩考え抜いた揚句、やっとの思いで彼は案外手近に一つの案を発見したのだった。
「どうだったね。貸してくれたかい」
半平は下宿の二階に待っていてくれた友人、川原剛太郎の顔を見るが早いか、こう声をかけたのだった。その友人は××生命へ出ている男だった。
「うん、貸してくれたがね」
友人は煙草の煙を忙しそうに喫った。
「きみの言うほどは駄目だったよ」
「じゃ、いくら貸したい。二百円か」
「うんにゃ、その半分。百円だあ」
「ちぇっ、百円ぽっちか、それじゃ治療代にも足りゃしない」
半平は川原の××生命へ、一万円の保険を掛けているのだった。この際、払込金の一部を低利で貸してもらおうと思って川原に交渉を頼んだのだったが、それが最高百円ではすっかり予想を裏切ってしまった。
「どうも気の毒だがね、どうにも仕様がないよ。これがきみの細君の保険だったら、ここんとこできみは一万円の紙幣束を掴んでいるはずだった」
「そういえば、なるほど。どうしておれはこう不運なんだろう!」
「不運といえば、思い出したがね」
友人の川原は改まった口調で語りだした。
「神龍子という観相家の話を聞いたんだが、きみ、幸運の黒子というのがあるんだ。顔にできている黒子といえば普通、鼻筋を中心として左側にあるに決まっていて、右側にあるのは非常に稀なんだそうだ。そう言われて気をつけて人の顔を見ていると、なるほど顔の黒子はみな左側にあるね。ところで、右側に黒子のある人間が全然いないかというと、そうでもないのだ。極めて稀だが、あるにはある。そして右側に黒子のある人はたいへん幸運なんだそうだよ。きみもいつまでも鰥夫でいずに、今度は幸運の黒子のある若い女でも探し当てて再婚してはどうかね」
たいへん耳寄りな話だった。
自分の顔に幸運の黒子を植えつけるわけにはいかないが、鮮やかな幸運の黒子を持つ若い女を女房に持てば相当運が向いてくるだろう。
「そりゃ本当かい」
半平は問い返さずにはいられなかった。
「神龍子の言うことだもの、絶対に信用が置けるさ」
友人は半平の懐疑を嘲るように言った。
「それでも、五分間ほどこのまま安静にしていてください」
院長は注射器とアンプルの殻とを、看護婦に手渡しながら言った。
「最初のうちは、どうしても注射の反応は強いですよ。まだ二回目だからな。では、お静かに」
そう言って、院長は部屋を出ていった。あとには看護婦が残って、手術器械をカチャカチャと片づけているばかりだった。
「あ、そんなに――」
頓狂な声を上げて、看護婦が飛んできた。
「お動きになってはいけません。痛みますか。もし……」
目を閉じていた半平の顔のあたりに、若い女の体臭がむんむん匂ってきた。彼は昂奮で締めつけられるようだった。狡く目を閉じたまま、嗅覚で若い看護婦の全身を舐めまわしている半平であった。
「声を出しちゃ、いけませんよ」
看護婦の熱い呼吸がいきなり半平の耳もとでしたかと思うと、彼の一方の手首はぎゅっと握られてしまった。
「これを、あとでお読みになってください!」
「」
半平はことの意外に驚いて、看護婦の顔を見上げた。
「おお……」
彼はもう少しで大声を出すところだった。逃げるように急ぎ足で部屋を出ていくその看護婦の肉づきのいい顎の右側に、黒大豆をそっと貼りつけたような黒子が明らかに認められた。おお、幸運の黒子!
往来へ出ると、半平は若い看護婦から掌のうちに握らされたいくつにも折り畳まれてある紙片を開いてみた。そこには鉛筆の走り書きで、こんな文面が認められてあった。
『失礼ごめんあそばせ。病院で一回三円かかる注射を、あたしの下宿へ午前八時二十分までにおいでくだせれば半額でいたします。
小石川区××町つぼみアパート七号室
唐崎みどり』
半平の顔が、だらしなく解けた。行人の巷に曝すのが苦しいにこにこ顔だった。
(幸運の黒子を持った女をひと目見ただけで、こうも運がよくなるものか!)
注射料は半額で済むことにはなるし、幸運に恵まれた若い女は探し当てるし、それに、あの唐崎さんという看護婦の素晴らしい性感はどうだ!
彼はすぐにも飛んで帰って、唐崎さんと握手をしたくてたまらなかった。
筋書どおりに、唐崎さんといつしか同棲するようになった半平だった。新婚旅行も唐崎さん――ではない新妻みどりの稼ぎ貯めた財布のお陰で南伊豆まで遠出をし、温泉気分と夫婦生活とを満喫することができた。
だが、東京に帰ってくると半平は重病になって、どっと床に就いてしまった。高熱がいつまでも下がらなかった。食物もろくろく口へ入らなくなって、とうとう新婚後三十日と経たないのに、
「ななな、何が幸運の黒子だ!」
と呻りながら、半平は鬼籍に入ってしまったのだった。哀れな半平だった。
話はこれでおしまいである。
蛇足を加えるならば、半平の考えは間違っていた。幸運の黒子は、やっぱり幸運の黒子だった。なぜなら半平の死とともに、一カ月で未亡人になったみどりは××生命から現金で金一万円也を受け取った。それが亡夫の掛けていた生命保険だったことは、読者諸君のよく承知のところである。
幸運の黒子はみどりにあったので、半平にあるのではなかった。
半平の認識不足が、この物語を生んだのだった。
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