「あたくしよ。――」
と、梅ヶ枝女史が叫ぶよりも一歩お先へ、女史の隣りの夫人(名前をつけて置くのを忘れた)が、
「それは十四子さんのよ」
と叫んだ。女史はジロリと横目で睨んだ。
「ああ十四子さんなの。アラとてもいい景品ですわよ。今日の景品のなかで、一番素敵な貴重なものだわよ」
と、幹事の谷夫人が、話の割合には薄っぺらな白い西洋封筒に入ったものを持って梅ヶ枝女史の前に飛んできた。女史は少し面映ゆげに、プラチナの腕輪の嵌った手を伸ばしてその白い西洋封筒を受けとりながら――これは十円紙幣かな――とドキッとした。
森幹事が向うの方から大きな声で披露をした。
「鼠の顔、鼠の顔。当った方は、目下読書界に白熱的人気の焦点にある新進女流探偵小説家(新進だなんて失礼ナ、既成の第一線作家だわよ――と、これは、梅ヶ枝女史の憤懣である)の梅ヶ枝十四子さん。景品はァ――どうか封筒からお出しになって下さい――ターキーのプロマイド! そのわけは、娘々が大騒ぎ。――」
というのであるが、この福引の方が「鼠の顔とかけてなんと解く。臥竜梅と解く。その心は幹よりも花が低い」の場合より出来がよろしい。
その理由は、この福引の「鼠の顔(景品はターキーのプロマイド)娘々が大騒ぎ」の方が前者に比較して、ずっと卑近にして、而も相当今日の話題的材料を持ってきたところが勝れているのである。しかも娘々は、やや高級ではあるけれど日満両帝国一体となっている今日、日本人にとっては盟邦に於ける最も明朗なる行事として娘々廟の娘々まつりを知っているものが少くないのであって、それ位の高級さは却ってこの福引を更に高雅なものに引き上げる。
これがそのまま、探偵小説作法にも引きうつして、云えるのであって、探偵小説の謎も能うかぎり卑近な常識的な材料を使い、その推理の難易程度もこの辺の中庸に停め、且つその謎の答が相当センセイショナルなものを……。
「これはいかんうっかりしていて、また探偵小説論を書いていた。森幹事が福引を披露して、『――そのわけは、娘々が大騒ぎ』のところで原稿の文章を切ることにして、そのあとの『というのであるが』以下『センセイショナルなものを……』までを削除しなければいかん」
と、梅野十伍は苦笑しながら、十行ばかりのところを、墨くろぐろと抹消した。
時計は午前四時半となった。
梅野十伍は、原稿が一向はかどらないのに業を煮やしている。うかうかしていると、もう郊外電車が動き出す時刻になる。新聞配達も、早い社のは、あと三十分ぐらいで門前に現われることだろう。そうなると、門の脇に取りつけてある郵便新聞受の金属函がカチャリと鳴り響くはずだった。それが夜明けの幕が上る拍子木の音のようなものであった。
彼は福引の話をとにかく物にして、すこし気をよくしていたが、それにしても、福引の話は飽くまで福引の話であって探偵小説とはいい難い――といわれやしないだろうか。
「さあ、早く探偵小説を書かなきゃあ!」
と、梅野十伍は、自分の勝手な清掃癖が禍をなしてペンの進行を阻んでいることにも気づかず、またやっこらやと立ち直って、探偵小説狩りに出発するのであった。
誰が見てもなるほどそれが探偵小説らしい形式を備えていることが分るようなものを選んで書くのが賢明なやり方だ。そういう形式を採ってみようと、梅野十伍は考えた。
それでは国際関係険悪の折柄、ひとつ国境に於ける紅白両国の人間の推理くらべを扱った探偵小説を書いてみることにしよう、と梅野は決心した。
まず道具立を考えるのにここは紅白両国の国境である。あまり広くない道路が両国を接いでいる。その道のまん中あたりに、アスファルトの路面に真鍮の大きな鋲を植えこんで、両国国境線がひと目で分るようになっている。夜になるとこの鋲は見えなくなるから、代りに道の両側に信号灯が点くような仕掛けになっている。
その国境線を間に挿んで両側に、それぞれの国の材料で作ったそれぞれの形をした踏切の腕木のようなものがある。国境線上を通過する者があるたびに、この二つの腕木がグッと上にあがるのだった。国境越えの人々は、その腕木の下を潜って、相手国のうちに足を入れ、そしてそこに店を開いて待ちうけている税関の役人の前にいって国境通過を願いいで、そして持ち込むべき荷物を検査してもらうのである。それが済めば、そこで税関前の小門から、相手国内にズカズカ這入ってゆくことを許されるのである。
まあ道具立はそのくらいにして置いて、ここに紅国人の有名なる密輸入の名手レッド老人を登場させることにする。
「また一つ、頼みますよ。ねえ、税関の旦那ァ。――」
レッドの銅鑼ごえに(この前にドラを銅羅と書いたのは誤り。どうもすこし変だと思って今辞書を引いてみると、ラの字は金扁があるのが正しいのであった。小説家商売になるといちいち字を覚えるだけでもたいへん骨の折れることだった)――そのレッドの銅鑼ごえに奥の方から役人ワイトマンが佩剣のベルトを腰に締めつけながら、睡むそうな顔を現した。(と書くと、この国境の税関には余り事件もなく、かなり平和な呑気な関所であることが読者に通じるだろうと、作者梅野十伍はそう思いながら、こう書いたのである)
「なあンだ、レッドか。また鼠の籠を持ちこもうてえんだろう。あんまり朝っぱらから来るなよ。鼠なんか夕方で沢山だ」
ワイトマンはいささか二日酔の体で、日頃赭い顔がさらに紅さを増して熟れすぎたトマトのようになっている。(この件は、作者梅野十伍に自信がなかった。彼は生れつきアルコールに合わない体質を持って居り、いまだ嘗て酒杯をつづけて三杯と傾けたことがない。だから二日酔がどんな気持のものだかよく知らず、また二日酔になった患者はどんな顔をしているか正確なる知識はなかった。ただ彼の親しい友人のAというのが、よくこんな赭い熟れきったような顔を彼の前に現わして、「ああ昨夜は近頃になく呑みすぎちゃった。きょうはフラフラで睡い睡い」と慨くのであった。梅野十伍は、そういうときの友人Aの容態が所謂二日酔というのだろうと独断した。だから白国官吏のワイトマンは迷惑にも作者の友人Aの酔態を真似しなければならなかった)
「旦那、そういわないで見ておくんなさい。儂は生れつき胡魔化すのが嫌いでネ、なるべくこうしてお手隙の午前中に伺って、品物をひとつ悠くり念入りに調べてお貰い申してえとねえ旦那、このレッドはいつもそう思っているんですぜ」
「フフン、笑わせるない。生れつき正直だなんて云う奴に本当に正直な奴が居た験しがない。ことに貴様は、ちかごろここへ現れたばっかりだが、その面構えは本国政府からチャンと注意人物報告書として本官のところへ知らせてきてあるのだ。どうだ驚いたか、胡魔化してみろ、こんどは裁判ぬきの銃殺だぞ」
「エヘヘ、御冗談を、儂はそんな注意人物なんて大した代物じゃありませんや、ただ鼠を捕えてきては、この向うのラチェットさんに買って貰ってるばかりなんで」
「うむ、ラチェットという猶太人は、鼠をそんなに買いこんで、何にしようというんだ」
「それァね旦那、これは大秘密でございますが、この鼠の肉が近頃盛んにソーセージになるらしいんですよ」
「えッ、ソーセージ?」
税官吏ワイトマンはそれを聞くと妙な顔をして胃袋を抑えた。実は朝起きぬけに、ソーセージを肴にして迎い酒を二、三本やったのだ。「なんだ、彼奴はソーセージを鼠の肉で作っているのか。どうも怪しからん奴じゃ」
「いやァ旦那、そう云うけれども、鼠の肉を混ぜたソーセージと来た日にゃ、とても味がいいのですぜ。ヤポン国では、鼠のテンプラといって賞味してるそうですぜ。だから鼠の肉入りのソーセージは、なかなか値段が高いのです。ちょっとこちとらの手には届きませんや」
「手に届かんといって――一本幾何ぐらいだ。オイ正直に応えろ」
「そうですね。一本五ルーブリは取られますか」
「五ルーブリ? ああそうか、よしよし。それくらいはするじゃろう」と、税関吏ワイトマンはホット胸をなぜ下ろし「さあさあ、お前の持ちこもうという品物を早く見せろ、検査をしてやるから」
「へえ。――そこの台の上に載せてあります」
といってレッド老人は、磨きあげたワイトマン愛用の丸卓子の上を指した。そこには蜜柑函大の金網の籠が置いてあった。
ワイトマンは、鼠の籠が自分の愛用のテーブルの上に置かれてあるのにちょっと機嫌を悪くしたが、まあまあ我慢して文句を控えた。そして籠の近くに赭い大きな顔を近づけた。
「オイ、員数は?」
「員数は皆で二十匹です」
「二十匹だって。一イ二ウ三イ……となんだ一匹多いぞ。二十一匹居る」
「ああその一匹は員数外です。途中で死ぬと品数が揃わなくなるから、一匹加えてあるんです」
「員数外は許さん。もしも二十一匹で通すなら二十匹までは無税、第二十一匹目の一匹には一頭につき一ルーブルの関税を課する」
「こんな鼠一匹に一ルーブルの課税はひどすぎますよ。そんな大金を今ここに持ってやしません――じゃ二十一匹の中から一匹のけて、二十匹としましょう。それならようがしょう」
「うむ、二十匹以下なら無税だ」
「じゃあ、そうしまさあ、二十匹で無税で、二十一匹となると課税一ルーブルは何う考えても割に合いませんよ」
そういいながらレッド老人は、金網の小さい口を開けてなかから一匹の鼠を取出しポケットに入れ、そしてまた元のように金網の入口を閉めた。
「さあ、これでいいでしょう。もう一度数えてみて下さい。籠の中の鼠は二十匹となりましたぜ」
ワイトマンは再び籠の中に顔を近づけ、念のためにもう一度、籠の中の鼠を数えた。ゴソゴソ匍いまわっている鼠は、確かに二十匹だった。
「よォし、二十匹だ。無税だァ」
「へえ、有難うござんす。それでいいんですね。じゃ通して貰いましょう」
レッドは籠を卓子の上から持ち上げた。
途端にワイトマンが叫んだ。
「オイ待て。――」
「なんですか、旦那」
「貴様は、もう許しておけんぞ。この卓子の上を見ろ」
ワイトマンが憤りの鼻息あらく指さしたところを見ると、彼の大事にしている丸卓子の上は、鼠の排泄した液体と固体とでビショビショになっていた。
レッドは鼠の籠をぶら下げたまま、頭を掻いた。そして腰にぶら下げてあった手拭を取って、卓子の上を綺麗に拭った。そしてワイトマンの宥恕を哀願したのだった。
「レッド。勘弁ならぬところだが、今日のところは大目に見てやる。一体こんな金網の籠に時を嫌わず排泄するような動物を入れて持ってくるのが間違いじゃ。この次から、卓子の上に置いても汚れないような完全容器に入れて来い。さもないと、もう今度は通さんぞ」
「へえい。――」
レッド老人は恐縮しきって、ワイトマンの前を下った。そして税関の横の小門から出ていった。そこはもう白国の街道であった。
街道を、レッド老人は大きなパイプからプカプカ煙をくゆらしながら歩いていった。そして思い出したように、鼠の籠の入口を開けて、ポケットに忍ばせて置いた員数外の鼠を中に入れてやったのである。
梅野十伍はペンを下に置いて、湯呑茶碗の中の冷えたる茶を一口ゴクリと飲んだ。
これは探偵小説であろうかどうか。
密輸入はたしかに探偵小説の題材になるが、今書いた小説は、探偵小説というよりも落語の方に近い。つまりそのヤマは、税関吏ワイトマンが籠の中の鼠の数ばかりに気を取られていたこと、それから犯人レッドが至極無造作に員数外の鼠を籠から除いて、ワイトマンに疑いを抱かせる遑もなく至極自然にそれをポケットに収いこんだことにある。これはナンセンスである。
ただ、税関吏ワイトマンが愛用する丸卓子の上を汚したことは、なんだか重要な探偵材料を提供したようでありながらその実わずかにワイトマンが員数外の鼠を思い出す虞あるのに対し、彼の精神を錯乱させる材料に使われたに過ぎない。事実ワイトマンは憤怒し、員数外の鼠がレッドのポケットのなかに入ったまま密輸入されるのに気を使う余裕がなかったのである。でも「愛用の卓子を汚す」ということは、なかなかハデな伏線材料であるから、そういうハデな材料はもっとハデに生かさなければ面白くない。況んや、この全篇を通じて探偵小説らしい伏線は、この卓子を汚すということだけなのであるから、それが生きんようでは探偵小説にならない。
作家梅野十伍は、拳固をふりあげて、自分の頭をゴツーンとぶん擲った。彼は沈痛な表情をして、またペンを取り上げた。
「旦那ァ。昨日は朝っぱらから来たと叱られたので、きょうはこうして午後になってやってきましたぜ」
「うむ、レッドだな。貴様は怪しからぬ奴だ。昨日儂を胡魔化して、鼠を一匹、密輸入したな。儂は今朝になって、それに気がついた」
「エヘヘ、手前はそんな悪いことをするものですか。旦那がいけないと仰有ったので、鼠を一匹籠から出してポケットに入れました。それはちゃんと自分の家まで持ってかえって放してやりましたよ。嘘はいいませんや」
「そんな口には乗らんぞ。員数外の鼠を自分の家に放したなんて怪しいものだ」
「いえ、本当ですとも、だから今日はちゃんとこの籠の中に入れて来ました。ごらんなせえ、アレアレ、あの腹が減ったような顔つきをしているやつがそうです」
「もういい。鼠が腹が減ったらどんな顔をするか、儂にゃ見分けがつかん。――で、籠は改造して来たろうな」
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