覚醒のあと
或るときは、月光の下に、得体の知れぬ鬼影を映しだす怪物、また或るときは、変な衣裳を着て闊歩する怪物、その怪物を、うまく隧道の中に閉じこめたつもりであった警官隊でありましたが、隧道の上に、なんとしたことか、大きい穴が明いていたのです。もしやこれが、怪物の逃げ出した穴ではないかしらと、白木警部はじめ一同が、その穴の縁に近づいたとき、傍らの盛土の中から、二本の足がニョッキリ出ているのを発見して大騒ぎになり、私は、その足の主が、きっと兄の帆村荘六だろうと考え、なんという浅ましい光景を見るものかなと思ったとき、気を失ってしまいました。――と、そこまではお話しましたっけネ。
それから、どのくらい経ったのか、私には時間の推移がサッパリ解りませんでした。フッと気がついたときには、あの凄惨な小田原の隧道の上かと思いの外、身はフワリと軟いベッドの上に、長々と横になっているのでありました。
「ああーッ」
私は思わず、声を放ちました。(ああ、気がついたようだ)(もう大丈夫)などという囁きがボソボソと聞えます。ハッと気がついて周囲をキョロキョロと見廻すと、これはどうしたというのでしょう。傍らに立って、こちらへ優しく笑額を向けているのは、あの悲歎の主、谷村博士の老夫人だったのです。いや駭きと意外とは、そればかりではありません。いまのいままで、惨死したとばかり思っていた兄の荘六までが、警官や手術衣の人達の肩越しに、私の方を向いてニコニコ笑っているではありませんか。ああ私は何か夢を見ていたのでしょうか。
「に、にいさん――」
「おお、気がついたナ、民ちゃん」
兄は私の手を握ると、顔を寄せました。
「どうしたんです。兄さん。――博士夫人も笑っていらっしゃるじゃありませんか」
「はッはッ。では夫人に訳を伺ってごらん」
「イエあたくしからお話申しましょうネ。早く申せば、私のつれあい――つまり谷村が無事で帰って来たのです。兄さんたちのお骨折りの結果です」
「どうして無事だったんです。誰か死んでいましたよ、隧道の上で……」
「あれなら大丈夫。あれは僕だったんですよ」
と、そういって脇から逞しい男が出て来ました。見れば、どこかで見たような顔です。
「僕――黒田巡査です」
「ああ、黒田さん」
「僕が土に埋められたところを、皆さんで掘り出して下すったのです。僕だけではなく、博士も助かったんです。これは怪物が隧道から飛び出すときに、私達を土と一緒に跳ねとばして埋めてしまったんです」
「ああ、すると怪物はやはり隧道から逃げてしまったのですネ」
「そうです、逃げてしまったのです――但し一匹を除いてはネ」
「一匹ですって?」私は思わず大声に訊きかえしました。「一匹は逃げなかったんですか」
「そうなんだよ、民ちゃん」と今度は兄が横から引取って云いました。「一匹だけ、僕等の手に捕えることができたんだよ。それも、お前の手柄から来ているんだ」
「手柄ですって? なんだか、なにもかも判らない尽しだナ」
「そうだろう。いや、夜が明けると、何も彼もが、まるで様子が違っちまったのだからネ」
そういって、やがて兄が顛末を話してくれました。それはまったく思いもかけなかったような新事実でありました。
谷村博士の研究録
兄は、私から渡された例の白毛のことを思い出し、それの正体を一刻も早く知りたい気持で一ぱいで、小田原の警備隊の中からひとり脱け出でると、この谷村博士邸へ帰ってきたのだそうです。私はいま、博士邸に来ているのだそうですから、驚きますネ。
兄はこの怪物について、きっと博士の研究があるものだと考え、博士夫人の力を借りて研究室をいろいろ探したのです。すると果して書類函の一つの抽出に、「月世界の生物について」と題する論文集を発見いたしました。
怪物が月に関係のあることは、兄はすでに感づいていたそうです。それでパラパラと論文を開いてゆくうちに、次のような文面を発見しました。
「月世界には、一つの生物がいるが、それは殆んど見わけがつかない。それは人間の眼では透明としか見えない身体をもっているからだ。その生物は形というものを持っていない。まるで水のように、あっちへ流れ、こっちへ飛びする。そして思いのままの形態をとることができる。液体的生物だ。アミーバーの発達した大きいものだと思えばよい。この生物は、もし地球上で大きくなったとしたら、必ず人間や猿のように固体となるべきものであるが、月世界の圧力と熱との関係で、液体を保って成長したのである。
恐らくこの生物は、アミーバーから出発したもので、人間より稍すぐれた智慧をもっているものと思われる。それは、今日盛んに、この地球へ向って、信号を送っているからである。人間界には、この生物のあることを知っている者が殆んど居ない。それはあの透明な月の住民たちの身体を見る方法がなかったからだ。然るに予は、特殊の偏光装置を使って、これを着色して認めることに成功した。その装置については、別項の論文に詳解しておいた。
ここに注意すべきは、このルナ・アミーバーとも名付くべき生物は、地球の人類に先んじて月と地球との横断を試みたい意志のあることである。おそらく、それは成功することであろう。彼等は地球へ渡航したときに、身体の変質変形をうけることを恐れて、何かの手段を考え出すことであろうと思われる。予の考うるところでは、多分そのルナ・アミーバーは身体を耐熱耐圧性に富み、その上、伸縮自在の特殊材料でもって外皮を作り、その中に流動性の身体を安全に包んで渡航してくるであろう。その材料について、予は左記の如き分子式を想像するが、この中には、地球にない元素が四つも交っているので、もしルナ・アミーバーが渡来したときには、面白い研究材料が出来ることであろう、云々」
ルナ・アミーバーという、透明で、流動性の生物があることは、博士の論文を見て始めて知ったのです。これは恐らく、博士夫妻の外に知った人間は、兄が最初だったことでしょう。兄は勇躍して、その白毛のようなものをポケットから取り出しました。これは私が曾て、壊れた窓硝子の光った縁から採取したものでした。あの怪物が室内から飛び出すときに、鋭い硝子の刃状になったところで、切開したものと思います。
兄は理学士ですから、スペクトル分析はお手のものです。博士の研究室のスペトロスコープを使って、その白毛みたいなものを、真空容器の中で熱し、吸収スペクトルを測定してみました。すると、どうでしょう。その結果が、博士の論文に掲げられた分子式と、ピッタリ一致したのです。
「ああ、ルナ・アミーバーだッ。ルナ・アミーバーの襲来だッ」
兄は、気が変になったように、その室の中をグルグル廻って歩いたのです。
「どうしたのです、帆村さん」
と博士夫人が階下から駈けつけられる。説明をしているうちに、夜がほのぼのと明けはなれ、そこへ白木警部一行が、掘り当てた谷村博士と黒田警官とを護って、急行で引っかえして来たのでありました。
博士も黒田警官も、殆んど死人のように見えましたが、博士の用意してあった回生薬のお蔭で、極く僅かの時間に、メキメキと元気を恢復することが出来たのだそうです。
この不思議な話を聞いて、私はもう寝ているわけにはゆかなくなりました。そして皆の停めるのも聞かず、ガバと床の上に、起き直りました。
室の向うは、博士の研究室です。なんだかモーターがブルンブルンと廻っているような音も聞え、ポスポスという喞筒らしい音もします。イヤに騒々しいので、私は眉を顰めました。
「だから無理だよ。もっと寝ていなさい」と兄はやさしく云いました。
「イヤ身体はいいのです。もう大丈夫。――それよりも向うの部屋で、一体なにが始まっているんですか」
「はッはッ、とうとう嗅ぎつけたネ」と兄は笑いながら、「あれはネ、たいへんな実験が始まっているのだ」
「大変て、どんな実験ですか」
「実はルナ・アミーバーを一匹掴えたんだ。そいつは、この門の近くの沼に浮いているのを見付けたんだ。なにしろ沼の水面が、なんにも浸っていないのに、一部分が抉りとったように穴ぼこになっていたのだ。地球の上ではあり得ない水面の形だ。それで、この所にルナ・アミーバーが浮いているんだなということが判ったんでいま引張りあげ、博士が先頭に立って実験中なんだ」
「私にも見せて下さい――」
私はもうたまらなくなって、寝台の上から滑り下りました。
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