警官の紛失
「化物は何をしているんでしょ。ねエ警部さん」
と私は白木警部の腕を抑えて云いました。
「なんだか、ガタガタいってたのが、すこしも音がしなくなったようだネ」
そういって警部は、注意ぶかく頭をもちあげて、戸口の方を、見ました。月光は相変らず明るく硝子戸を照らしていましたが、先刻見えた怪しい鬼影は、まったく見当りません。唯空しく開いた入口の外は木立の影でもあるのか真暗で、まるで悪魔が口を開いて待っているような風にも見えました。
「さっき戸口がゴトゴト云ってたが、みな外へ逃げ出したのかも知れない」
警部の声を聞きつけたものか、あちらこちらから、部下の警官が匍いよってきました。
「警部どの。あれは一体人間なんですか」
「人間ですか。それとも人間でないのですか」
部下のそういう声は慄えを帯びていました。
「さア、私にはサッパリ見当がつかん」
警部も、今は匙を投げてしまいました。それから沈黙の数分が過ぎてゆきました。その間というものは建物の中がまるで死の国のような静けさです。
「オイみんな。元気を出せ」と警部が低いが底力のある声で云いました。「この機に乗じて一同前進ッ」
警部は左手をあげて合図をすると、自ら先頭に立ってソロソロと匍い出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へ躙り出てゆきます。息づまるような緊張です。
「オヤオヤ」
戸口のところまで達すると、警部は意外な感に打たれて身を起しました。
「どうしましたどうしました」
私も警官たちと一緒にガタガタと靴を鳴らして戸口へ飛び出しました。外は水を打ったように静かな眺めです。月光は青々と照り亙り、虫がチロチロと鳴いています。まるで狐に化かされたような穏かな風景です。
「居ないようだネ」と警部が云いました。その声から推して大分落着いてきたようです。「では全員集まれッ」
全員は直ちにドヤドヤと整列しました。私は恥かしかったので、横の方で気を付けをしました。
「番号ッ」
一、二、三、……と勇しい呼び声。
「オヤ、一人足りないじゃないか」
「一人足らん。誰が集まらんのだろう」
警官たちは不思議そうに、お互いの顔をジロジロ眺めました。
「ああ、あの男が居ない。黒田君が居ない」
「そうだ、黒田君が見えんぞ」
黒田君、黒田クーンと呼んで見たが、誰も返事をするものがありません。
「これは穏かでない。では直ちに手分けして黒田を探してこい。進めーッ」
警部は命令を下しました。一同はサッと其の場を散りました。家の中に引かえすもの、門の方へ行くもの、木立の中へ入るもの――僚友の名を呼びつつ大捜索にかかりました。しかし黒田警官の姿は何処にも見当りません。
「警部どの、見当りません」
「どうも可笑しいぞ。どこへ行ったんだろう」
そうこうしているうちに、庭の方を探しに行った組の警官が、息せき切って馳せ帰ってきました。
「警部どの。向うに妙な場所があります」
「妙な場所とは」
「池がこの旱魃で乾上って沼みたいになりかかっているところがあるんです。その沼へ踏みこもうという土の柔いところに、格闘の痕らしいものがあるんです。靴跡が入り乱れています。あんなところで、誰も格闘しなかった筈なんですが、どうも変ですよ」
「そうか、それア可笑しい。直ぐ行ってみよう」
警部さんはその警官を先頭に、急いで乾上った池のところへ駈けつけてみました。
なるほど入り乱れた靴の跡が、点々として柔い土の上についています。
警部さんは、懐中電灯をつけて、その足跡を検べ始めました。
「オヤこれは変だな。足跡が途中で消えているぞ」
「消えているといいますと」
「ほら、こっちから足跡がやってきて、ほらほらこういう具合にキリキリ舞いをしてサ、向うへ駈け出していって、さア其処で足跡が無くなっているじゃないか」
「成る程、これア不思議ですネ」
「こんなことは滅多にないことだ。おお、ここに何か落ちているぞ。時計だ。懐中時計でメタルがついている。剣道優賞牌、黒田選手に呈す――」
「あッ、それは黒田君のものです。それがここに落ちているからには……」
「うん、この足跡は黒田君のか。黒田君の足跡は何故ここで消えたんだろう?」
蘇生した帆村探偵
そのとき、門の方に当って、けたたましい警笛の音と共に、一台の自動車が滑りこんできました。
「何者かッ」
というんで、自動車の方へ躍り出てみますと、車上からは黒い鞄をもった紳士が降りてきました。待ちに待った小田原病院のお医者さんが到着したのです。
「なァーンだ」
警官は力瘤が脱けて、向うへ行ってしまいました。私はそのお医者さまの手をとらんばかりにして、兄の倒れている二階の室へ案内しました。
兄は依然として、長々と寝ていました。医者は一寸暗い顔をしましたが、兄の胸を開いて、聴診器をあてました。それから瞼をひっくりかえしたり、懐中電灯で瞳孔を照らしていましたが、
「やあ、これは心配ありません。いま注射をうちますが、直ぐ気がつかれるでしょう」
小さい函を開いて、アンプルを取ってくびれたところを切ると、医者は注射器の針を入れて器用に薬液を移しました。そして兄の背中へズブリと針をさしとおしました。やがて注射器の硝子筒の薬液は徐々に減ってゆきました。その代りに、兄の顔色が次第に赤味を帯びてきました。ああ、やっぱり、お医者さまの力です。
三本ばかりの注射がすむと、兄は大きい呼吸を始めました。そして鼻や口のあたりをムズムズさせていましたが、大きい嚔を一つするとパッと眼を開きました。
「こン畜生」
兄は其の場に跳ね起きようとしました。
「やあ気がつきましたネ。もう大丈夫。まァまァお静かに寝ていらっしゃい」
医者は兄の身体を静かに抑えました。
「おお、兄さん――」
私は兄のところへ飛びついて、手をとりました。不思議にもう熱がケロリとなくなっていました。
「やあ、お前は無事だったんだネ。兄さんはひどい目に遭ったよ」
兄は医者に厚く礼を云って、まだ起きてはいけないかと尋ねました。医者はもう暫く様子を見てからにしようと云いました。
その間に、私が見たいろいろの不思議な事件の内容を兄に説明しました。
「そうかそうか」だの「それは面白い点だ」などと兄はところどころに言葉を挟みながら、私の報告を大変興味探そうに聞いていました。
「兄さん。この家は化物の巣なのかしら」
「そうかも知れないよ」
「でも、化物なんて、今時本当にあるのかしら」
「無いとも云いきれないよ」
「どうも気味の悪い話ですが」と小田原病院の医師が側から口を切りました。「ここの谷村博士の研究と何か関係があるのではないでしょうか。博士と来たら、二十四時間のうち、暇さえあれば天体を覗いていられるのですからネ。殊に月の研究は大したものだという評判です」
「月の研究ですって」と兄は強く聞き返しました。今夜も大変月のいい夜でありました。
「博士が空中を飛んだり、あの窓から眼に見えないそして大きなものが飛び出したり、それから洋服の化物のようなものがウロウロしていたり、あれはどこからどこまでが化物なのかしら」
「それは皆化物だろう」
「兄さんは化物を本当に信じているの」
「化物か何かしらぬが、僕がこの室で遭ったことはどうも理屈に合わない。あれは普通の人間ではない。眼には見えない生物が居るらしいことは判る。しかし月の光に透かしてみると見えるんだ。僕はこの部屋に入ると、いきなり後からギュッと身体を巻きつけられた。呀ッと思って、身体を見ると、何にも巻きついていないのだ。しかし力はヒシヒシと加わる。僕は驚いてそれを振り離そうとした。ところがもう両腕が利かないのだ。何者かが、両腕をおさえているのだ。僕は仕方なしに、足でそこら中を蹴っとばした。すると何だか靴の先にストンと当ったものがある。しかし注意をしてそこらあたりを見るが、何にも見えないことは同じだった。そのうちに、呀ッと思う間もなく、僕の身体は中心を失ってしまった。身体が斜めに傾いたのだ。僕はズデンドウと尻餅をつくだろうと思った。ところが尻餅なんかつかないのだ。身体は尚も傾いて身体が横になる。そこで僕はもう恐怖に怺えきれなくなって、お前を呼んだのだ」
「ああ、あのときのことですネ」
「すると今度はイキナリ宙ぶらりんになっちゃった。足が天井にピタリとついた。不思議な気持だ。尚も叫んでいると、今度は頸がギュウと締まってきた。苦しい、呼吸が出来ない――と思っているうちに、気がボーッとしてきてなにが何だか、記憶が無くなってしまった。こんな不思議なことがまたとあろうか」
と兄は始めて、この博士の室で遭ったという危難について物語りました。
「眼に見えない生物が、兄さんに飛びかかったんだ」
「そうだ。そう考えるより仕方がない。僕はお医者さまが許して下されば、もっと検べたいことが沢山あるんだ……」
「そうですネ」と医者は時計を見ながら云いました。「大分元気がおよろしいようですが、では無理をしないように、すこしずつ動くことにして下さい」
「じゃ、もう起きてもいいのですネ」
兄は嬉しそうに身体を起しました。そして両腕を体操のときのように上にあげようとして、ア痛タタと叫びました。
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