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崩れる鬼影(くずれるおにかげ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 15:59:02  点击:  切换到繁體中文


   警官の紛失ふんしつ


「化物は何をしているんでしょ。ねエ警部さん」
 と私は白木警部の腕をおさえて云いました。
「なんだか、ガタガタいってたのが、すこしも音がしなくなったようだネ」
 そういって警部は、注意ぶかく頭をもちあげて、戸口の方を、見ました。月光は相変あいかわらず明るく硝子戸ガラスどを照らしていましたが、先刻さっき見えたあやしい鬼影おにかげは、まったく見当りません。ただむなしく開いた入口の外は木立こだちの影でもあるのか真暗まっくらで、まるで悪魔が口をいて待っているようなふうにも見えました。
「さっき戸口がゴトゴト云ってたが、みな外へ逃げ出したのかも知れない」
 警部の声を聞きつけたものか、あちらこちらから、部下の警官がいよってきました。
「警部どの。あれは一体人間なんですか」
「人間ですか。それとも人間でないのですか」
 部下のそういう声はふるえをびていました。
「さア、わしにはサッパリ見当がつかん」
 警部も、今はさじを投げてしまいました。それから沈黙の数分が過ぎてゆきました。その間というものは建物の中がまるで死の国のような静けさです。
「オイみんな。元気を出せ」と警部が低いが底力そこぢからのある声で云いました。「この機にじょうじて一同前進ッ」
 警部は左手をあげて合図あいずをすると、みずから先頭に立ってソロソロとい出しました。ゆっくりゆっくり戸口の方へにじり出てゆきます。息づまるような緊張です。
「オヤオヤ」
 戸口のところまで達すると、警部は意外な感に打たれて身を起しました。
「どうしましたどうしました」
 私も警官たちと一緒にガタガタと靴を鳴らして戸口へ飛び出しました。外は水を打ったように静かなながめです。月光は青々とわたり、虫がチロチロと鳴いています。まるで狐に化かされたようなおだやかな風景です。
「居ないようだネ」と警部が云いました。その声からして大分だいぶ落着おちついてきたようです。「では全員集まれッ」
 全員は直ちにドヤドヤと整列しました。私ははずかしかったので、横の方で気を付けをしました。
「番号ッ」
 一、二、三、……と勇しい呼び声。
「オヤ、一人足りないじゃないか」
「一人足らん。誰が集まらんのだろう」
 警官たちは不思議そうに、おたがいの顔をジロジロ眺めました。
「ああ、あの男が居ない。黒田君が居ない」
「そうだ、黒田君が見えんぞ」
 黒田君、黒田クーンと呼んで見たが、誰も返事をするものがありません。
「これはおだやかでない。ではただちに手分けして黒田を探してこい。進めーッ」
 警部は命令を下しました。一同はサッとを散りました。家の中に引かえすもの、門の方へ行くもの、木立こだちの中へ入るもの――僚友りょうゆうの名を呼びつつ大捜索だいそうさくにかかりました。しかし黒田警官の姿は何処どこにも見当りません。
「警部どの、見当りません」
「どうも可笑おかしいぞ。どこへ行ったんだろう」
 そうこうしているうちに、庭の方を探しに行った組の警官が、息せき切ってかえってきました。
「警部どの。向うに妙な場所があります」
「妙な場所とは」
「池がこの旱魃かんばつ乾上ひあがって沼みたいになりかかっているところがあるんです。その沼へ踏みこもうという土のやわらかいところに、格闘かくとうあとらしいものがあるんです。靴跡がみだれています。あんなところで、誰も格闘しなかったはずなんですが、どうも変ですよ」
「そうか、それア可笑しい。ぐ行ってみよう」
 警部さんはその警官を先頭に、急いで乾上った池のところへ駈けつけてみました。
 なるほど入り乱れた靴の跡が、点々として柔い土の上についています。
 警部さんは、懐中電灯をつけて、その足跡をしらべ始めました。
「オヤこれは変だな。足跡が途中で消えているぞ」
「消えているといいますと」
「ほら、こっちから足跡がやってきて、ほらほらこういう具合にキリキリ舞いをしてサ、向うへ駈け出していって、さア其処そこで足跡が無くなっているじゃないか」
ほど、これア不思議ですネ」
「こんなことは滅多めったにないことだ。おお、ここに何か落ちているぞ。時計だ。懐中時計でメタルがついている。剣道優賞牌ゆうしょうはい、黒田選手にていす――」
「あッ、それは黒田君のものです。それがここに落ちているからには……」
「うん、この足跡は黒田君のか。黒田君の足跡は何故ここで消えたんだろう?」


   蘇生そせいした帆村探偵ほむらたんてい


 そのとき、門の方に当って、けたたましい警笛けいてきの音と共に、一台の自動車がすべりこんできました。
「何者かッ」
 というんで、自動車の方へおどり出てみますと、車上からは黒いかばんをもった紳士が降りてきました。待ちに待った小田原病院おだわらびょういんのお医者さんが到着したのです。
「なァーンだ」
 警官は力瘤ちからこぶけて、向うへ行ってしまいました。私はそのお医者さまの手をとらんばかりにして、兄の倒れている二階の室へ案内しました。
 兄は依然いぜんとして、長々と寝ていました。医者は一寸ちょっと暗い顔をしましたが、兄の胸を開いて、聴診器ちょうしんきをあてました。それからまぶたをひっくりかえしたり、懐中電灯で瞳孔どうこうを照らしていましたが、
「やあ、これは心配ありません。いま注射をうちますが、ぐ気がつかれるでしょう」
 小さいはこを開いて、アンプルを取ってくびれたところを切ると、医者は注射器の針を入れて器用に薬液やくえきを移しました。そして兄の背中へズブリと針をさしとおしました。やがて注射器の硝子筒ガラスとうの薬液は徐々に減ってゆきました。その代りに、兄の顔色が次第に赤味あかみびてきました。ああ、やっぱり、お医者さまの力です。
 三本ばかりの注射がすむと、兄は大きい呼吸を始めました。そして鼻や口のあたりをムズムズさせていましたが、大きいくさめを一つするとパッと眼を開きました。
「こン畜生」
 兄はね起きようとしました。
「やあ気がつきましたネ。もう大丈夫。まァまァお静かに寝ていらっしゃい」
 医者は兄の身体を静かに抑えました。
「おお、兄さん――」
 私は兄のところへ飛びついて、手をとりました。不思議にもう熱がケロリとなくなっていました。
「やあ、お前は無事だったんだネ。兄さんはひどい目にったよ」
 兄は医者に厚く礼を云って、まだ起きてはいけないかとたずねました。医者はもうしばらく様子を見てからにしようと云いました。
 その間に、私が見たいろいろの不思議な事件の内容を兄に説明しました。
「そうかそうか」だの「それは面白い点だ」などと兄はところどころに言葉をはさみながら、私の報告を大変興味探そうに聞いていました。
「兄さん。この家は化物の巣なのかしら」
「そうかも知れないよ」
「でも、化物なんて、今時いまどき本当にあるのかしら」
「無いとも云いきれないよ」
「どうも気味の悪い話ですが」と小田原病院の医師いしが側から口を切りました。「ここの谷村博士の研究と何か関係があるのではないでしょうか。博士と来たら、二十四時間のうち、ひまさえあれば天体をのぞいていられるのですからネ。ことに月の研究は大したものだという評判です」
「月の研究ですって」と兄は強く聞き返しました。今夜も大変月のいい夜でありました。
「博士が空中を飛んだり、あの窓から眼に見えないそして大きなものが飛び出したり、それから洋服の化物のようなものがウロウロしていたり、あれはどこからどこまでが化物なのかしら」
「それは皆化物だろう」
「兄さんは化物を本当に信じているの」
「化物か何かしらぬが、僕がこの室でったことはどうも理屈に合わない。あれは普通の人間ではない。眼には見えない生物が居るらしいことは判る。しかし月の光にかしてみると見えるんだ。僕はこの部屋に入ると、いきなり後からギュッと身体を巻きつけられた。ッと思って、身体を見ると、何にも巻きついていないのだ。しかし力はヒシヒシと加わる。僕は驚いてそれを振り離そうとした。ところがもう両腕がかないのだ。何者かが、両腕をおさえているのだ。僕は仕方なしに、足でそこらじゅうを蹴っとばした。すると何だか靴の先にストンと当ったものがある。しかし注意をしてそこらあたりを見るが、何にも見えないことは同じだった。そのうちに、呀ッと思う間もなく、僕の身体は中心を失ってしまった。身体がななめにかたむいたのだ。僕はズデンドウと尻餅しりもちをつくだろうと思った。ところが尻餅なんかつかないのだ。身体はなおも傾いて身体が横になる。そこで僕はもう恐怖にこらえきれなくなって、お前を呼んだのだ」
「ああ、あのときのことですネ」
「すると今度はイキナリ宙ぶらりんになっちゃった。足が天井てんじょうにピタリとついた。不思議な気持だ。尚も叫んでいると、今度はくびがギュウと締まってきた。苦しい、呼吸が出来ない――と思っているうちに、気がボーッとしてきてなにが何だか、記憶が無くなってしまった。こんな不思議なことがまたとあろうか」
 と兄は始めて、この博士の室でったという危難きなんについて物語りました。
「眼に見えない生物が、兄さんに飛びかかったんだ」
「そうだ。そう考えるより仕方がない。僕はお医者さまが許して下されば、もっとしらべたいことが沢山あるんだ……」
「そうですネ」と医者は時計を見ながら云いました。「大分元気がおよろしいようですが、では無理をしないように、すこしずつ動くことにして下さい」
「じゃ、もう起きてもいいのですネ」
 兄は嬉しそうに身体を起しました。そして両腕を体操のときのように上にあげようとして、ア痛タタと叫びました。

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