怪しい白毛(?)
私はそのときに、「崩れる鬼影」という謎のような言葉を思い出しました。
ああいう非常時に、人間というものは、驚きのなかにも案外たいへんうまい形容の言葉を言うものです。「鬼影」というも「崩れる」というも、決して出鱈目の言葉ではありますまい。ことに此の家の老婦人も兄も、全く同じ「崩れる鬼影」という言葉を叫んだのですから、いよいよ以て出鱈目ではありますまい。
影というからには、どこかに映ったものでありましょう。あのときは――そうです、満月が皎々と照っていました。今はもう屋根の向うに傾きかけたようです。月光に照らされたものには影が出来る筈です。影というのは、その影ではないでしょうか。あの場合、満月の作る影と考えることは、極めて自然な考えだと思いました。すると――
(あの満月に照らされて出来た影なのだ。それはどこへ映ったか?)
私は首をふって、改めて室内を見まわしてみましたが、
(ああ、この窓に鬼影が映ったのだッ)
と思わず叫び声をたてました。そうだ、そうだ。兄はこの部屋に入る前までは「鬼影」などと口にしなかったではないですか。これはこの室に入って始めて鬼影を見たとすれば合うではありませんか。しかもこの室の、この窓硝子の上に……
私はツカツカと窓硝子の傍によりました。そして改めて丸く壊れた窓硝子を端の方から仔細に調べて見ました。破壊したその縁は、ザラザラに切り削いだような歯を剥いていました。私はそこにあったスタンドを取上げてどんな細かいことも見遁すまいと、眼を皿のようにして観察してゆきました。
しかし別に手懸りになるようなものも見えません。台をして上の方もよく見ました。だんだんと反対の側を下の方へ見て行きましたが、
「オヤ」
と思わず私は叫びました。
「これは何だろう?」
硝子の切り削いだような縁に、白い毛のようなものが二三本引懸っているではありませんか。ぼんやりして居れば見遁してしまうほどの細いものです。余り何も得るところがなかったので、それでこんな小さなものに気がついたわけでした。
これを若し見落していたならば、この怪事件の真相は、或いはいまだに解けていなかったかも知れません。それは後の話です。
私はハンカチーフを出して、その白い毛のようなものを硝子の縁から取りはなしました。そしてそのまま折り畳んで、ポケットに仕舞いこんだのでした。
丁度そのときです。
戸外に、やかましいサイレンの音が鳴り出しました。
ブーウ、ウ、ウ。ブーウ、ウ、ウ。
まるで怪獣のような呻り声です。
破れた窓から外に首を出してみますと、どうでしょう、遥か下の街道をこっちへ突進して来る自動車のヘッドライトが一イ、二ウ、三イ、ときどきパッと眩しい眼玉をこっちへ向けます。いよいよ警察隊がやって来たのです。頭からポッポッと湯気を出して怒っている警官の顔が見えるようでした。
ふりかえってみると、兄は依然として絨氈の上に長くなったまま、苦しそうな呼吸をしていました。
私は階段をトントンと下って、老婦人の室の扉を叩きました。
「おばさん。いよいよ警官が来ましたよ。もう大丈夫ですよ」
そう云いながら、私は扉を開いて室内へ一歩踏み入れました。
「や、や、やッ――」
私の心臓はパッタリ停ったように感じました。私は一体そこで、何を見たでしょうか?
妖怪屋敷
この室の扉を開くまでは、私は老婦人ひとりが、静かに寝台の上に睡っていることと思っていました。ところがどうでしょう。いま扉を押して見て駭きました。なんでもそのときの気配では、婦人の外に十人近くの人間がウヨウヨと蠢いているのを直感しました。
「オヤッ」
一体この大勢の人間は何処から入ってきたのでしょう? ここの主人の谷村博士とこの老婦人以外には、せいぜい一人二人のお手伝いさんぐらいしか居ないだろうと思った屋敷に、いつの間にか十人近くの人間が現れたのです。しかも大して広くもない此の婦人の室に、ウヨウヨと集っていたのですから、私は胆を潰してしまいました。
ですけれど、私の駭きはそれだけでお仕舞いにはなりませんでした。おお、何という恐ろしい其の場の光景でしょうか。その十人近くの人間と見えたのは、実は人聞だかどうだか解りかねる奇怪なる生物でした。そうです。生物には違いないと思います、こうウヨウヨと蠢いているのですから。
彼等は変な服装をしていました。時代のついた古い洋服――それもフロックがあるかと思えば背広があり、そうかと思うと中年の婦人のつけるスカートをモーニングの下に履いています。しかしそのチグハグな服装はまだいいとして、この人達の顔が一向にハッキリしないのは変です。
私は眼をパチパチとしばたたいて幾度も見直しました。ああ、これは一体どうしたというのでしょう。彼等の顔のハッキリしないのも道理です。全くは、顔というものが無いのです。頭のない生物です。頭のない生物が、まるで檻の中に犇きあう大蜥蜴の群のように押し合いへし合いしているのです。
「ばッ、ばけもの屋敷だ!」
私はそう叫ぶと、室内に死んだようになって横たわっている老婦人を助ける元気などは忽ち失せて、室外に飛び出しました。うわーッと怪物たちが、背後から襲いかかってくる有様が見えるような気がしました。
「助けてくれーッ」
私はもう恐ろしさのために、大事な兄のことも忘れ、一秒でも早くこの妖怪屋敷から脱出したい願いで一杯で、サッと外へ飛び出しました。
「たッ助けてくれーッ」
ああ、眩しい自動車のヘッド・ライトは、二百メートルも間近に迫っています。警察隊が来てくれたのです。あすこへ身を擲げこめば助かる! 私はもう夢中で走りました。
「オイ何者かッ。停まれ、停まれ」
私の顔面には突然サッと強い手提電灯の光が浴せかけられました。おお、助かったぞ!
怪しき博士の生活
「この小僧だナ、さっき電話をかけてきたのは」
無蓋自動車の運転台に乗っていた若い一人の警官が、ヒラリと地上に飛び降りると、私の前へツカツカと進み出てきました。
「僕です」私はもう叱られることなんか何でもないと思って返事しました。「トンチキ野郎などと大変な口を利いたのもお前だろう」
「僕に違いありません。そうでも云わないと皆さん来てくれないんですもの」
「オイオイ、待て待て」そこへ横から警部みたいな立派な警官が現れました。「それはもう勘弁してやれ」
私はホッとして頭をペコリと下げました。
「それでナニかい。一体どう云う事件なのかネ。君が一生懸命の智慧をふりしぼって僕等を呼び出した程の事件というのは……」
警部さんには、よく私の気持が判っていて呉れたのです。これ位嬉しいことはありません。私は元気を取戻しながら、一伍一什を手短かに話してきかせました。
「ウフ、そんな莫迦なことがあってたまるものか。この小僧はどうかしているのじゃないですか」
例の若い警官黒田巡査は、あくまで私を疑っています。
「まアそう云うものじゃないよ、黒田君」分別あり気な白木警部は穏かに制して、「なるほど突飛すぎる程の事件だが、僕はこの家を前から何遍も見て通った時毎に、なんだか変なことの起りそうな邸じゃという気がしていたんだ」
「そうです、白木警部どの」とビール樽のように肥った赤坂巡査が横から口を出しました。「ここの主人の谷村博士は、年がら年中、天体望遠鏡にかじりついてばかりいて他のことは何にもしないために、今では足が利かなくなり、室内を歩くのだってやっと出来るくらいだという話です」
「可笑しいなア、その谷村博士とかいう人は、確かに空中をフワフワ飛んでいましたよ」私は博士が足が不自由なのにフワフワ飛べるのがおかしいと思ったので、口を出しました。
「それは構わんじゃないか」黒田巡査が大きな声で呶鳴るように云いました。「足が不自由だから、簡単に飛べるような発明をしたと考えてはどうかネ」
「ほほう、君もどうやら事件のあったことを信用して来たようだネ」と警部は微笑しながら「だが兎に角、当面の相手は何とも説明のつけられない変な生物が居るらしいことだ。そいつ等の人数は大約十四五人は発見されたようだ。それも果して生物なのだか、それとも博士の発明していった何かのカラクリなのだか、これから当ってみないと判らない。博士の行方が判ると一番よいのだが、とにかく様子はこの少年の話で判ったから、一つ皆で天文学者谷村博士邸を捜査し、一人でもよいからその訳のわからぬ生物を捕虜にするのが急務である。判ったネ」
「判りました」「判りました」と凡そ二十人あまりの警官隊員は緊張した面を警部の方へ向けたのでした。彼等はいずれも防弾衣をつけ、鉄冑をいただき、手には短銃、短剣、或いは軽機関銃を持ち、物々しい武装に身をととのえていました。これだけの隊員が一度にドッと飛びかかれば、流石の妖怪たちも忽ち尻尾を出してしまうことであろうと、大変頼もしく感ぜられるのでした。
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