信じられない事件
月の明るい箱根の夜の出来事でした。空中をフワフワ飛んでゆく白衣の怪人が現れたかと思うと、間近くから救いを求める老婦人の金切声が起りました。救いに行った、私の兄の帆村荘六は、その洋館の一室で、足を天井につけ、身は宙ぶらりんに垂下っていました。ニュートンの万有引力の法則を無視したような芸当ですから私は驚きました。これは様子がおかしいと気がついて、やっと助け下ろしますと、「崩れる鬼影!」と不思議な言葉を呟いたまま人事不省に陥ってしまいました。
「崩れる鬼影」とは、あの老婦人も譫言のように叫んでいた言葉ではありませんか。これは一体どうしたというのでしょう。鬼影とはなんでしょう。それが崩れるとは、何のことだか一向見当がつきません。
「兄さん。兄さん――」
私は兄の荘六の耳元で、ラウドスピーカーのような声を張りあげました。でも兄はピクリとも動きません。反応がないのです。
「兄さん、しっかりして下さい――」
と今度は両手でゆすぶってみました。しかしやっぱり兄はまるで気がつきません。所は山深い箱根のことです。人里とては遠く、もう頼むべき人も近所にはないのです。私はどうしてよいのやら全く途方に暮れてしまいました。ポロポロと熱い泪が、あとからあとへ流れて出ます。私はもう怺えきれなくなって、ひしと兄の身体に縋りつき、オイオイと声をあげて泣き始めました。笑ってはいけませんよ。誰でもあの場合、泣くより外に仕方がなかったと思います。
「ああ、ひどい熱だ――」
兄の額は焼け金のようです。私はハッと思いました。兄をこの儘で放って置いたのでは死んでしまうかも知れないぞと思いました。そうなると、もうワアワア泣いてなど居られません。私は一刻も早く、兄の身体を医者に見せなければならないと気がつきました。
私は気が俄かにシッカリ引き締まるのを覚えました。
「日本の少年じゃないか」私は泪をふるい落としました。「非常の時に泣いていてたまるものか。なにくそッ――」
私はヌックと立ち上ると、お臍に有ったけの力を入れました。
「ウーン」
すると不思議不思議。気がスーゥと落付いてきました。鬼でも悪魔でも来るものならやってこい――という気になりました。
私は兄のために、さしあたり医者を迎えねばならないと思いました。この家のうちには電話があるのではないかと思ったので、兄の身体はそのままとし、階下へ降りてみました。階段の下に果して電話機がこっちを覗いていましたので、私は嬉しくなって飛びついてゆきました。だが電話をかけようとして、私はハタと行き詰ってしまいました。どこのお医者様がいいのだか判らないのです。そのとき不図気がついたのは所轄の小田原警察署のことです。
(まず警察へこの椿事を報告し、救いを求めよう。それがいい!)
警察の電話番号は、電話帳の第一頁にありました。私は自動式の電話機のダイヤルを廻しました。――警察が出ました。
「モシモシ。小田原署ですか。大事件が起りましたから、早く医者と警官とを急行して貰って下さい」
「大事件? 大事件て、どんな事件なんだネ」
向うはたいへん落付いています。
「兄が天井に足をついて歩いていましたが、下におっこって気絶をしています。いくら呼んでも気がつかないのです」
「なにを云っているのかネ、君は。兄がどうしたというのだ」
「兄が天井に足をつけて歩いていたんです」
「オイ君は気が確かかい。こっちは警察だよ」
ああ、これほどの大事件を報告しているのに、警察では一向にとりあってくれないのです。私はヤキモキしてきました。
「まだ大事件があるのです。ここの主人が、先刻フワフワと空中を飛んで門の上をとび越え、川の向うの森の方へ行って見えなくなりました」
「なアーンだ。そこは飛行場なのかい」
「飛行場? ちがいますよちがいますよ。ここの主人は飛行機にも乗らないで、身体一つでフワフワと空中へ飛び出したのです」
「はッはッはッ」と軽蔑するような笑い声が向うの電話口から聞えました。「人間が身体だけで空中へ飛び出すなんて、莫迦も休み休み言えよ。こっちは忙しいのだから、そんな面白い話は紙芝居のおじさんに話をしてやれよ」
「どうして警察のくせに、この大事件を信じて手配をして呉れないんです」わたしはもう怺えきれなくなって、大声で叫びました。
「オイ、これだけ言うのに、まだ判らないことを云うと、厳然たる処分に附するぞ。空中へ飛び出させていかぬものなら、縄で結わえて置いたらばいいじゃないか。広告気球の代りになるかも知れないぞ」
警官はあくまで冗談だと思っているのです。私はどうかして警官に早く来て貰いたいと思っているのに、これでは見込がありません。そこで一策を思いつきました。
「ヤイヤイヤイ」私は黄色い声を出して云いました。「ヤイ警官のトンチキ野郎奴。鼻っぴの、おでこの、ガニ股の、ブーブー野郎の、デクノ棒野郎の、蛆虫野郎の、飴玉野郎の、――ソノ大間抜け、口惜しかったらここまでやってこい。甘酒進上だ。ベカンコー」
「コーラ、此の無礼者奴。警察と知って悪罵をするとは、捨てて置けぬ。うぬ、今に後悔するなッ」
警官は本気に怒ってしまいました。その様子では、間もなくカンカンになって頭から湯気を立てた警察隊がこの家へ到着することでしょう。
ところで病院は、小田原病院というのが見付かりました。私はそこへ電話をかけて、急病人であるから、自動車で飛んで来てくれるように頼みました。
さあ、これで一と安心です。警察隊と医者の来るのを待つばかりです。その間に私は現場を検べて、事件の手懸りを少しでも多く発見して置きたいと思ったのでした。私だって素人探偵位は出来ますよ。
少年探偵の眼は光る
兄の身体は重いので、絨氈の上に寝かしたままに放置するより仕方がありません。隣の寝室らしいところから、枕と毛布とをとって来て、兄にあてがいました。それから、金盥に冷い水を汲んで来て、タオルをしぼると、額の上に載せてやりました。こうして置いて私は、現場調査にとりかかったのです。
その室で、まず私の眼にうつる異様なものは、窓硝子の真ン中にあけられた大きい孔です。これは盥が入る位の大きさがあります。随分大きな孔があいたものです。何故この窓硝子が割れたのでしょうか。それを知らなければなりません。
調べてみると、その窓硝子の破片は、室内には一つも残らず、全部屋外にこぼれているのに気がつきました。どうして内側に破片が残らなかったか?
(うむ。これは窓硝子を壊す前に、この室内の圧力が室外の圧力よりも強かったのだ)
もし外の方が圧力が強いと窓硝子が壊れたときは、外から室内へ飛んでくる筈ですから室内に硝子の破片が一杯散乱していなければなりません。そういうことのないわけは、それが逆で、この室内の方が圧力が高かったわけです。
(室内の圧力が高いということは、どういう状態にあったのかしら?)
風船ではないのですから、この室内だけに特に圧力の高い瓦斯が充満していたとは考えられません。それに窓硝子の壊れる前に、私はこの室内へ入っていたのです。扉を破って入ったときに、室内に圧力の高い瓦斯と空気が充満していたものだったら、私は吃度強く吹きとばされた筈です。しかし一向そんな風もなく、普通の部屋へ入るのと同じ感じでありました。するとこの室内に高圧瓦斯が充満していたとは考えられません。
(すると、それは一体どうしたわけだろう)
こんな風に窓硝子が壊れるためには、もう一つの考え方があります。それは何か大きい物体を、この室から戸外へ抛げたとしますと、こんな大きな孔が出来るかも知れません。いつだか銀座のある時計屋の飾窓の硝子を悪漢が煉瓦で叩き破って、その中にあった二万円の金塊を盗んで行ったことがあります。あの調子です。しかし煉瓦位では、こんなに大きい孔はあきそうもありません。少くとも盥位の大きさのものを投げたことになります。
(だが、盥位の大きさのものを外に投げたとしたら、そのとき私は室の中に居たのだから、それが眼に映らなければならなかったのに――)
ところが私は、盥のようなものが、この窓硝子に打ちつけられたところなどを決して見ませんでした。いやボール位の大きさのものだってこの硝子板をとおして飛び出したのを見なかったのです。
(すると、この矛盾はどう解決すべきであろうか?)
全く不思議です。盥位の大きさのものをこの室内から外に投げたと思われるのに、それが見えなかったというのは、どうしたわけでしょう。――そうだ。こういうことが考えられるではありませんか。若し抛げられたものが、無色透明の物体だったとしたらどうでしょうか。仮に盥ほどもある大きい硝子の塊だったとしたら、そいつは私の眼にもうつらないで、この室から外へ抛げることが出来たでしょう。その外に解きようがありません。
しかしながら、そんな大きい無色透明の物体なんて在るのでしょうか。そいつは一体何者でしょうか。それは室内のどこに置いてあって、どういう風にして窓硝子へぶっつかったのでしょうか。こう考えて来ると、折角謎がとけてきたように見えましたが、どうしてどうして、答はますます詰ってくるばかりです。なぜなれば、そんな眼に見えないもの(又は眼に見え難いもの)で、莫迦に大きいもの、そして硝子を壊す力があるようなもの、そしてそれは誰が抛げたか――イヤそれはまるで化物屋敷の出来ごとでもなければ、そんな不思議は解けないでしょう。
「ム――」
と私は其の場に呻りながら腕組をいたしました。
眼に見えないか、見えにくいもので、盥位の大きさ、形は丸くて、硝子を壊す位の重いもので、その上、簡単に室内から投げられるようなものとは、一体何だろう。
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