ルナ・アミーバーの実験
なんだか訳のわからない器械が並んだ実験室には、東京からこの珍らしい実験を見ようと駈けつけた学者で、身動きも出来ません。
真中に立っていた谷村博士は、私の入って来たのに気がついて、こっちを向かれました。
「おお民彌君。もう元気になりましたか」
「はい」
「いやア、あなた方ご兄弟のお蔭で、ここにいる一匹のルナ・アミーバーが手に入りましたよ」
そういって博士は、前に横わっている大きい硝子製のビール樽のようなものを指しました。しかしその中は透明で、博士の云うものは何も見えません。
「いまはまだ見えますまい」と博士はすぐ私の顔色を見て云いました。「しかし今に見えますよ。偏光作用がうまく行ったらネ」
「偏光作用といいますと」
「この硝子器の中に、ルナ・アミーバーが居るのです。この中をすっかり真空にして、こっちの方から偏光をかけてやると、肉眼でも見えてくるのですよ」
「こいつはどうして捕ったんでしょうネ。大変強い動物でしたのに」
「動物じゃなくて、植物という方がいいかも知れませんよ。――弱っているわけは、あの硝子窓を通るときに、外皮を大分引裂いたので、地球の高い温度がこたえるのです。そしてこのルナ・アミーバーは、兄さんを胴締めにしていた奴です。あのとき此奴は、兄さんに苦められたのです。兄さんは護身用に、携帯感電器をもっていらっしゃる。あの強烈な電気に相当参っているところへ、あの硝子の裂け目へつっかかったんで、二重の弱り目に祟り目で、沼の中へ落ちこんだまま、匍い上りも飛び上りも出来なくなったんですよ。つまり荘六君と民彌君とのお二人が、この怪物を捕えたも同様ですネ」
私はそのとき、目に見えぬルナ・アミーバーと闘ったことを思いだしました。
「この一匹の外はどうしたのですか」
「もう月の世界へ逃げかえったことでしょう。今夜月が出ると、その天体鏡でのぞかせてあげましょう」
「すると、あの小田原の町に現れていたサーベルを腰に下げた老人や、白衣を着た若者なども、逃げかえったんですか」
「いや、あれは……」と博士はすこし赧くなって云いました。「あれは私と黒田さんなんです。二人はルナ・アミーバに捕って、あのとおり彼奴の身体に捲きこまれていたのです。だからいかにも私たちは空中に飛んでいるように見えましたが、実はルナが飛んでいたわけで、私たちは、ルナの上に載っているようなものでした。そして彼奴は、私たちを勝手に裸にしたり、そして間違ってサーベルや白衣を着せたりしたのです」
「ああ、そうでしたか」
私は始めて、空中を飛ぶ男の謎がとけたのを感じました。
「では、小田原や隧道で暴れたのも、先生たちの力ではなかったのですネ」
「そうですとも。あれは皆ルナ・アミーバーの一隊がやったことです。たまたま中で見える私たちだけが騒がれたわけです」
「しかし先生、あの崩れる鬼影はどうしたのです。硝子窓に、アリアリと鬼影がうつりましたよ」
「あれはこのルナの流動する形が、うっすりと写ったのです。月の光に透かしてみると、ほんの僅か、形が見えます。それはあの月光に、一種の偏光が交っているから、月光に照らされて硝子板の上にうつるときは、ルナの流動する輪廓が、ぼんやり見えたのですよ」
「ははーん」
私は、この大きな謎が一時に解けたので、思わず大きな溜息をつきました。
そのとき一座が俄かにドヨめきました。
「ああ、いよいよ、ルナ・アミーバーが見えて来ましたよ」
大団円
ああ何という不思議!
硝子樽の中には、いままで何も無いように思っていましたが、ジリジリブツブツと、なんだか紫色の霧のようなものが動揺を始めたと思う間もなく色は紅に移り、次第次第に輪廓がハッキリして来ました。やがてのことに、青味を帯びたドロンとした液体が、クネクネとまるで海蛇の巣を覗いたときはこうもあろうかというような蠕動を始めました。なんという気味のわるい生物でしょう。覗きこんでいる人々の額には、油汗が珠のように浮かび上ってきました。
「ああ、いやらしい生物だッ」
誰かがベッと、唾を吐いて、そう叫びました。それが聞えたのか、ルナ・アミーバーは、草餅をふくらませたように、プーッと膨脹を始め、みるみるうちに、硝子樽一ぱいに拡がりました。
「これはッ――」
と思って、一同が後退りをしたその瞬間、がちゃーンという一大音響がして、サッと濛々たる白煙が室内に立ちのぼりました。
「呀ッ――」
私達は壁際にペタリと尻餅をついたことにも気が付かない程でした。バラバラとなにか上から落ちてくるので、気がついて天井を見ますと、そこには大きな穴がポッカリ明いていました。
「オヤオヤ。ルナが逃げたッ」
「どうして逃げたんだッ」
「弱っていたと思っていたがな」
「いや、これは私の失敗でした」と博士は別に駭いた顔もせずに、静かに口を切りました。
「どうしたんです」
「いえ、彼奴の入っている容器を真空にしたのがいけなかったんです」
「なぜッ」
「真空は、彼奴の住む月世界の状態そっくりです。だから弱っている彼奴は、たちまち元気になって、器を破って逃走したのです。ああ、失敗失敗」
こんなわけで、折角生捕ったたった一匹のルナ・アミーバーでありましたが、惜しくも天空に逸し去ってしまったのです。
いやはや、残念なことでありましたが、谷村博士を責めるのもどうかと思います。ルナが逃げてしまったのですから、「崩れる鬼影」について私の申上げる話の種も、もうなくなりました。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 尾页