鋭い牙
「ねえ、六条。気球が上昇をストップしたようだぞ」
寒そうに身体を叩いていたキンチャコフが、送信器の解体に夢中になっている六条にいった。
「ふん、なんだか動きもしなくなったようではないか」
六条が相槌をうった。高度計を見ると、実に八千メートルの高空だ。いくら夏でも、これは寒いはずだ。
気球は、ぴーんと膨れきっている。
「これじゃ天井にくっついた風船みたいで、一向面白くない」
キンチャコフが呑気そうな口を叩いた。
「おい、貴様は無電の知識をもっとらんのかね」
六条がたずねた。
「さあ、さっぱり駄目だねえ」
と、キンチャコフは気のなさそうな返事をした。キンチャコフの方が、六条よりも死生を超越しているらしく見える点があって、「火の玉」少尉も少々癪にこたえている。しかし、単にぐうたらに生きるものと、帝国軍人としてその本分に生きるものとは、どうしてもちがうのがあたり前で、六条の方が臆病だというわけではない。
「おおっ、気球が下りだしたぞ。ああ、ありがたい。温くなるだろう。ふん、あの辺の雲の中へとびこむな」
キンチャコフがはしゃぎだした。
六条は、とうとう無電器械のことをあきらめてしまった。空中漂流以来、戦友戸川のことを思い出し、こっちもこんどは一つ細心且沈着にいこうと努力をつづけてきたわけだが、たかが無電器械一つと思うのが、どうしたってこうしたって、うんともすんとも直りはしないのだ。
(やっぱり、自分の柄にないことは、駄目なんだ)
彼ははじめて悟りに達したような気がした。と同時に、今までの妙な気鬱が、すうっと散じてしまったようであった。
「ほう、なるほど下るわ下るわ。いよいよ墜落の第一歩か」
「あまり嚇すなよ」
と、キンチャコフがいって、
「へんなことをいうと、きっとそのとおりになるという法則がある。ちと慎めよ」
「なあに、今のうちにこれでも喰っておけ。そうすれば元気になるだろう」
六条は、携帯口糧をゴンドラの戸棚の中からひっぱりだして、キンチャコフにも分けてやった。戸棚の中には熱糧食だとか、固形ウィスキーなども入っていた。なにしろ予め六人分の食糧が収めてあったので、食糧ばかりは当分困らない。
ただ困ったのが水だ。水は、ゆうべ庶務の老人が持ちこんでくれたが、一人一日分しか入れてない。
携帯口糧は口の中で一杯になった。水を上から注ぎこまなければ、とても咽喉をとおらない。といって水は大事にしなければ、この先どんなことになるか分らない。六条は、目を白黒させながら、これも同様に目を白黒させて携帯の口糧をぱくついているキンチャコフの顔を見やった。
「おう、雲だ。いよいよ下るぞ」
ほんの僅かの間に、気球は密雲の中に包まれてしまった。見る見るうちに、服はびっしょり水玉をつけ、やがてそのうえを川のように流れおちる。二人の頭のうえからも、小さい滝がじゃあじゃあと落ちてくる。仰げども見えないけれど、気球に溜った水滴が集って、上からおちてくるのであろう。が、なにしろなにも見えない。ゴンドラの中まで、磨硝子を隔てて見ているような調子だ。キンチャコフは、このときとばかりに、顔のうえを流れおちる雨水を、長い舌でべろべろ嘗めまわしている。
密雲が下にある間や、その密雲の中をくぐりぬけている間は、そうでもなかったけれど、気球が密雲をすりぬけて、それを上に仰ぐようになったとたんに、俄かに墜落感がつよく感ぜられた。眼下はひろびろとした一面の海原であった。そして海面までは案外近くて、ものの四五百メートルしかない。
「ああ、海だ」
「おお海だ。どこの海だろうか」
「この色は、日本海だ」
六条のいったことは、間違いでなかった。
「日本海なら、船がたくさん通るだろう。墜落しても大丈夫助かる」
とキンチャコフは、俄かに喜色をうかべていったが、なに思ったか、ポケットから例のピストルを出して六条につきつけた。
「なにをするんだ、キンチャコフ」
「いや、嚇しではない、本気なんだ。船が見えたら、貴様は綱をひいて、気球の瓦斯を放出して下におりて、助けられるつもりだろうが、それについて、ちと注文があるんだ」
「それはどういうことか。早くぬかせ」
「日本の船舶が通っても下りないことさ。つまり日本以外の船舶に救助されることをもって条件とするのさ。もちろん、貴様に異議はいわせないがね」
と、キンチャコフはピストルの引金にしっかと指をかける。
「火の玉」少尉は、別に愕いた顔もしなかった。
「そんなものを握っているよりは、下を船が通りやしないかどうかが、生命びろいのためにはその方が肝腎のことだぜ」
「ふん、うかうかそんな手にのるもんかい。飛び道具の方が勝にきまってらあ」
キンチャコフは、本性を露骨にあらわして、「火の玉」少尉に擬したピストルをひっこめようとはしない。
(うるさい奴だ)
と思ったが、六条は別にピストルがこっちを向いているのを気にするようでもなく、ゴンドラの中から朝霧のかかった海面をじっと見下していた。
キンチャコフの方が、かえってふうっと溜息をついた。
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