キンチャコフ
だが、この「火の玉」少尉の電信は、予期した応答が得られなかった。
変だなと思ってしらべてみると、マイクの紐線がいつの間にかぷつんと切られているのであった。これでは、地上から応答のないのも無理ではない。紐線は、さっきの格闘のときに切断したものにちがいない。彼は、すぐその修理にとりかかった。早いところ地上との通信連絡を回復しておかないと、気球がどこへ流れていったか、皆目手懸りがなくなる虞れがあるのである。
ちらりと地上へ目をやると、××陣地はもうマッチ箱の中に豆電球をつけたように小さくなっていた。高度はすでに三千メートル、方角がはっきりしないが、どうやら北の方へ押し流されている様子だ。
風はいよいよつよく、ゴンドラがひどく傾いているのが分った。
「火の玉」少尉は、マイクに紐線をつけなおすことに、つい注意を注ぎすぎたようであった。外に現れたその態度は、周章てているように見えなかったけれど、その心の中には狼狽の色がなかったとはいえない。なにしろ早いところ地上との無電通信を回復しなければ、一大事が起ると思いこんで、マイクの修理に一生けんめいになりすぎ、怪しいソ連人に注意を向けるのを怠ったのだ。
その怪しいソ連人は、依然として身体を逆さにしたまま叩きつけられたようになっていたが、彼の両眼は、うすく開いて、「火の玉」少尉の手許をみていた。
そのうちに、怪人の一方の手がそろそろとうごきだして、上衣のポケットの中をさぐりはじめた。
しずかに、再び彼の手首が現れたときには、逞しい形をした一挺のピストルが握られていた。怪人は、身体を逆さにしたまま、ピストルを持ち直して、「火の玉」少尉に狙いをつけた。
「火の玉」少尉は、そのときやっと気がついた。彼は、なにかゴンドラの中のものが動いたように思って、顔をあげてみると、この戦慄すべき武器が、こっちを向いていたのである。
「おいキンチャコフ。俺を撃つのはいいが、そんな無理な姿勢じゃ、命中しやしないよ」
「火の玉」少尉が、流暢なロシア語で一喝した。
「なに、どうしてこっちの名を……」
怪ソ連人は、相手の日本人がいきなりロシア語を喋りだしたうえに、自分の名前まで呼んだのであるから、びっくりしたのも無理ではない。尤も「火の玉」少尉としては、ロシア語なら得意中の得意だし、キンチャコフの名は、××陣地を出る前に庶務の老人から聞いたのを、このとき思い出しただけのことだ。
「おいキンチャコフ。貴様が××陣地で皆に追駈けられて、仕方なくここへとびこんだことは知っていたぞ」
「それがどうした。なにが仕方なくだ。わしはこの気球で脱れるつもりだから、繋留索をナイフで切ってしまったんだ」
「そんなことは云わなくとも分っているぞ。貴様は、この気球でうまく脱れられるつもりなのか」
「脱れなきゃならないんだ」
「脱れるといっても、この気球は風のまにまに流れるだけなんだ。どこへ下りるか、それとも天へ上ったきりで下りられないか、分ったものじゃない」
「出鱈目をいうな、日本人。気球はいつかは地上に下りるもんだ。天空に上ったきりなんてぇことはない」
と、キンチャコフが生意気な抗議を試みた。
「そこまで分っていれば、いいではないか。この気球が下におりるまで、貴様一人で風や雨と闘うつもりか、それとも貴様と俺と二人で闘った方がいいと思うか」
「火の玉」少尉は、話をうまいところへ追込んでいった。
「ふん」
「それが分ったら、ピストルなんざポケットへ収っとくことだ。下手な射撃をして、気球にでも当れば、どういうことになると思うんだ。たちまち気球は火に包まれ、俺たち二人は、火を背負いながら地上に飴のように叩きつけられて、この世におさらばを告げることになるだろうよ」
「……」
「おい、お前は思いきりのわるい奴だな、キンチャコフ。そのピストルなんか収って、これからどうすればわれわれは無事地上に下りられるかを研究して、すぐさま実行にかかるのだ。無駄なことはしないがいい」
そういわれて、キンチャコフはつい兜を脱いだ。彼は不承不承に、逞しい形のピストルをポケットの中に収いこんだ。そして達磨が起きあがるように、身体をごろんと一転させて、「火の玉」少尉と向いあった。
「ははあ、お前がキンチャコフか。だいぶん俺よりも年上らしいが……」
「火の玉」少尉は、どこまでも相手を呑んでかかった。
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