「要注意」の信号
「火の玉」少尉が、空中の異変に気がついたのは、それからしばらくして、風の中に××陣地のサイレンの響を聞き、それに続いて××陣地にありったけの照空灯が、彼の乗った気球の方に向けられたときだった。
それまでのところは、彼は地上員が多忙の中を駈けつけて、彼のために繋留気球第一号の綱をゆるめてくれたものとばかり考えていた。
ところが、それから後のサイレンやら照空灯のものものしい騒ぎがはじまるに及んで、彼はやっと或る疑惑を持ったのである。
「おかしいなあ。一体地上ではなにを騒いでいるのだろう」
彼の外に、誰も乗らないといっていたが、やはりまだ乗る者があったのではなかろうか。それで「要注意」などと騒いでいるのではなかろうか。
だが、それにしては、なぜ「出発待て」の信号を発しなかったのであろうか。「要注意」の信号は、どうも腑におちない。
いや、腑におちないのは、こうして××陣地ありったけの照空灯が、こっちの気球のあとを追駈けてくることだ。こっちの出発が、陣地の方に都合がわるければ、綱を引張ってこの気球を引きおろせばいいではないか。なぜそうやらないのであろうか。
さすがの「火の玉」少尉も、すこし不安な気持になって、照空灯の眩しい光芒を手でさえぎりながら、地上の騒ぎをじっと見下していた。
そのうちに、彼ははじめてたいへんなことに気がついた。それは彼の乗っている気球の綱のことであった。綱が一本、ぷつんと短く切れて、照空灯の光の中にぶらぶらしていたのである。
「おや、あの綱は切れているぞ」
思わず彼は、声をあげて愕いたが、それから更に他の綱に眼をうつしたとき、もっと大きな愕きが彼を待っていたのである。
「呀っ、あの綱も切れている!」
彼はゴンドラの縁にしがみついたまま、一本の綱から他の綱へと、後を追っていった。その結果、気球を繋留していた六本の綱が悉く切断されていることを発見したのである。言葉をかえていえば、もはやこの気球を地上に繋いでいる一本の綱も無いのであった。ああ繋留索のない気球は、一体どこへ行くのであろうか。
「うん、こいつは失敗った!」
「火の玉」少尉の全身を、熱湯のような血が逆流した。
「失敗った、失敗った、失敗った!」
彼はゴンドラの縁をつかんで、動物園の猿のようにゆすぶった。時刻がたつに従って、大きくなる災禍であった。
地上では、こんどは照空灯が、十文字にうごいて、「要注意」を知らす。
「要注意」も、今さら遅いという外ない。
そのとき彼は、ゴンドラの中に、無電器械がありはしないかと気がついたので、腰をかがめて、あたりをふりかえった。
「うむ、あるぞ。あれがそうらしい」
ゴンドラの中の、微かな灯火のうちに、無電器械の黒ぬりのパネルが眼についたのだ。彼は飛行将校として、一応無電器械の知識もあったから、どっちが受信器のパネルで、またどっちが送信器のパネルか、見分けがついた。彼はいそいで受話器を頭にかけるとスイッチを入れた。真空管が、ぱっと明るくついた。
しばらくすると、受話器の奥から、声がとびだした。
「ハア、××繋留気球第一号。こっちは××陣地です。ハア、××繋留第一号。こっちの声が聞えますか。只今○○飛行隊と連絡をとり、飛行機隊が追跡してくれることになりましたから、安心して下さい。ハア、××繋留気球第一号! こっちの声が聞えましたら、そっちから電波を出して下さい」
××陣地の通信員の声だ。
それを聞くと、六条は勇気百倍の思いがした。地上でも、この気球が繋留をはずれて空中に漂流しだしたことをちゃんと気づいているのだ。そして飛行隊が急遽出動して、この気球の救援に赴くことになったそうだ。このうえは、こっちの所在を地上なり救援の飛行機に知らせることさえ忘れなければいいのだ。それは無電器械の送信器を働かせてマイクへこっちの声をふきこめばいいのである。
六条は、左手をのばして、無電器械の送信器にスイッチを入れた。パイロット・ランプが明るくついた。真空管はキャビネットの中で光っている。彼は揚げ蓋をひいて、その中から長い紐線のついたマイクをとりだし、口のところへ持っていった。
「ハア、こっちは繋留気球第一号です。六条壮介が送信をしています。いま気球は、風に流されつつ、ぐんぐん上昇しています。気圧は只今、七百……」
といって、六条が傍の夜光針のついた気圧計に眺め入ったとき、突然何者とも知れず、マイクを握った彼の左手をぎゅっと掴んだ者があった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 下一页 尾页