非常呼集
「おお、沼田の声だ」
国彦中尉は、従卒の声を玄関に聞いて、座からとびあがった。
「中尉どのは、御在宅でありますか」
沼田一等兵は、露子に迎えられて、玄関の前で挙手の敬礼をしていた。
「おい沼田。まだ休暇の時間中だぞ、迎えが早すぎる」
「ああ、中尉どの」
沼田の面はひきしまっていた。
「そうでありますが、非常呼集の連隊命令であります。サイド・カーをもってお迎えに参りました」
「ナニ非常呼集……」
中尉はハッとした面持で、露子の顔を見た。露子もハッとしたが、武人の妻だ取乱しもせず奥にかけこんで、軍服の用意にかかった。
「義兄さん、お出かけですか」
「ウン旗男君。これはひょっとすると、今夜あたりから、物騒なことになるかも知れんぞ」
「物騒って、これ以上に物騒というと……アーもしや空襲でも」
「そうだ。なんともいえんが、S国の爆撃機が行動を起したのかもしれない。早ければ、ここ二、三時間のうちに敵機がやってくるかもしれない」
「ええッ、本当ですか。たった二、三時間のうちに……」
「距離が遠いといっても、○○○○から七百五十キロばかりだ。時速三百キロで、まっすぐにくるなら二時間半しかかからぬ。……とにかく、敵もさる者で、全くの不意打らしいぞ」
敵の飛行隊の根拠地から、二時間半しかかからないと聞くと、さすがに距離の近さがハッキリ頭に入ったような気がした。
川村中尉は、露子の抱いてきた正坊の寝顔を、太い指先でちょっとついてみたがそのまま起しもせず、暗い戸外に出ていった。西空には、糸のように細い新月が冷たく光っていた。沼田一等兵はもうサイド・カーのエンジンをかけて、中尉の乗るのをいまやおそしと待っていた。
「待たせたなァ。……では飛ばしてくれい」
爆々たる音響を残して、サイド・カーは街道を矢のように走りさった。目ざしてゆくのはこの直江津から南へ五キロほどいった高田連隊の高射砲隊だった。
義兄が出てゆくと、間もなくラジオの演芸放送がプツンと切れ、それに代って騒然たる雑音が入って来た。なんだかキンキン反響しているらしい。かすかではあるが、電話にかかっているらしい話声がする。どうやらそれは軍人らしい。活発な声だ、とたんに爆発するようなアナウンサーの声。……
「ただいま、重大なる事態が起りましたため、マイクロフォンを東部防衛司令部に移して皆様に呼びかけます……」
重大なる事態発生? 旗男は思わず受信機のダイヤルを音の強い方にひねった。そして隣の部屋を向いて、大声で姉を呼んだ。
「姉さん。たいへんですよ。早くここへ来て、放送をお聞きなさい」
「あら、いよいよ始まったの……」
姉は正坊をソッと寝かしつけて、立ってきた。
拡声器からは、声なじみの中内アナウンサーの声が一句一句強くハッキリと流れてくる……。
「まず第一に、香取防衛司令官の告諭であります。司令官閣下を御紹介いたします」
しばらく間があって、やがて軍人らしい荘重な声がひびいてきた。――
「本日午後八時、全国に防空令がくだされました。その目的は、S国の強力なる空軍が、わが帝国領土内に侵入を開始したのに対し、適宜の防衛を行うためであります。皇軍の各部隊は既にそれぞれ勇猛果敢なる行動を起しました。銃後にある忠勇なる国民諸君も、十分沈着元気に協力一致せられて、防護に警備に、はたまたその業につくされ、もって暴戻なる外国S国軍の反撃に奮励していただきたい。昭和十×年七月二十五日。東部防衛司令官陸軍中将香取龍太郎」
S国空軍! いよいよやって来たか、世界第一を誇るその悪魔隊、……しかし香取司令官の声には何物をもおそれないような、決意と自信とがこもっていた。
「……つづいて、東部防衛司令部の重大な発表がありますから、そのままでお待ち下さい。……ああ、お待たせいたしました。東部防衛司令部発表第一号。ただいま、能登半島より、大井川に至る線より東の地域は、警戒警報が発令されました。直ちに警戒管制でございます。不用な灯火は消し、他の必要なる灯火は、屋外に灯がもれぬよう黒い被をかけて下さい……」
いよいよ警戒警報が出たのだ。今夜のは防空演習ではない。
放送とともに、戸外がにわかにそうぞうしくなった。青年団員や在郷軍人が、活発な行動を起したものらしい。自転車のベルが、しきりと鳴りひびくのが、旗男の耳にのこった。
高射砲陣地
高田の歩兵第三十連隊の本隊は、日本海を越えて其方面に出征していた。あとには留守部隊がのこっていたが、これには臨時に、三箇中隊の高射砲隊が配属されていた。
川村国彦中尉は、その第三中隊長だった。敵機をうち落す高射砲、プロペラの音によって、敵機の位置をさがす聴音機、空を昼間のようにあかるくパッと照らす照空灯などが、この中隊に附属していた。それらは川村中尉の自慢のたねだった。兵員と機械とがまるで一人の人間の手足のように、うまく動くのであったから。
営門をくぐるのも遅しとばかり、中尉はサイド・カーから下りた。そして、いそぎ足で、連隊長の室に入った。
「おお、川村中尉か」
留守連隊長の牧山大佐は椅子から立ちあがった。
「せっかくの休暇が台なしになったのう。……さあ、そこで連隊命令を伝える」
川村中尉は不動の姿勢で、連隊長の命令書を読むのをまった。
「第○野戦高射砲隊ハ、既定計画ニ基キ陣地ヲ占領シ主トシテ高田市附近ノ防空ニ任ゼントス。各中隊は速カニ出発シ、第一中隊ハ鴨島ニ、第二中隊ハ柳島ニ、第三中隊ハ板倉橋附近ニ、陣地ヲ占領スベシ。終」
いよいよ出動命令が発せられたのである。川村中尉は、固い決心を太い眉にあらわして、おごそかに挙手の敬礼をした。そして廻れ右をすると、活発な足どりで連隊長の室を出ていった。
「高射砲第三中隊あつまれ!」
中尉の号令を待ちかねていたかのように、部隊はサッと小暗い営庭に整列した。点呼もすんだ。すべてよろしい。そこで直ちに部隊は隊伍をととのえて、しゅくしゅくと行進をはじめた。
市街を南へぬけて左へ曲ると、そこは板倉橋だった。――中隊は橋を中心として左右に散って陣地をつくった。――聴音機の大ラッパは暗黒の空に向けられ、ユラリユラリと重そうな頭をふった。敵機の来る方向はいずこだろう?
不気味な夜は、音もなく更けていった。
午後九時になると、とうとう非常管制が布かれた。サイレンの唸、ラジオの拡声器から流れてくるアナウンサーの声。「空襲、空襲!」と叫びながら走ってゆく防護団の少年。「灯火をかくして下さァい!」と消し忘れた家の戸を叩くけたたましい音。……そんなものがゴッチャになって、町や村は必死の非常管制ぶりだ。
午後九時半、○○海に出動していた第四艦隊から報告が来た。
「艦隊ハ午後九時二十分北緯四十度東経百三十七度ノ洋上ニ於テ、高度約二千米ヲ保チ、南東ニ飛行中ノ敵超重爆撃機四機ヲ発見セリ、直チニ艦上機ヲ以テ急追攻撃セシメタルモ、天暗ク敵影ヲ逸スルオソレアリ」
これで敵機の強さがわかった。やはりS国が世界に誇る超重爆撃機をもって攻めてきたのだ。それは、一台にすくなくとも五トンの爆弾を積んでいるはずだ。爆弾にもいろいろあるが一トンの破甲弾なら、十階の鉄筋コンクリートのビルディングも、屋上から一階まで抜けてメチャメチャになる。しかし敵機の持ってくるのは大部分が焼夷弾であろう。これには一キロ以下のや二十キロ位のやいろいろある。落ちて来るとたちまち三千度の熱を出し、鉄でもなんでもトロトロに焼き熔かしてしまうのだ。この焼夷弾をドンドン落して、日本の燃えやすい市街を焼きはらってやろうというのが、敵の作戦なのだ。
また、なかには恐ろしい毒瓦斯弾も交っているかも知れない。その毒瓦斯にもいろいろある。
それをまかれると、やたらにクシャミがでて、しまいには頭痛嘔吐になやむジフェニール、クロールアルシンなど、また涙がポロポロ出てきて、眼があけられず、胸が痛みだすというピクリン瓦斯。また嗅げば肺臓がはれだし、息がとまって死ぬようなことになるホスゲン瓦斯、もっとひどいのはイペリット瓦斯で、身体に触れるとひどくただれ、大きな水ぶくれができ、だんだん目や肺や胃腸をわるくしてゆくという恐ろしいものだ。その外にもまだ秘密にしている新毒瓦斯があるというから、それも持ってきて撒くにちがいない。――ああ、地獄の世界は、見まいとしても、もう一時間か二時間のうちに、見られるのではないか。われらの準備はできているかしら。……
突如、高射砲陣地に、連隊からの警報電話が入ってきた。
「第四艦隊発警報。――敵ノ超重爆撃機二機ヲ、遂ニ南方ニ見失エリ。他ノ一機ハ高角砲ニヨリ粉砕シ、他ノ一機ハ海中ニ墜落セシメタリ。本艦隊モ駆逐艦一隻損傷ヲ受ケタリ」
「超重爆撃機二機ヲ南方ニ見失エリ」――ああ、それではいよいよやって来るぞ。
おお、憎むべき空魔!
その空魔は、いまや刻一刻、わが海岸に近づきつつある。……
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