伝染病菌の容器
まだ暮れたばかりの夏の宵のことだった。不意に起った銃声に、近所の人々は、夕食の箸を放りだして、井戸端のところへ集ってきた。
「どうしたんです。強盗ですか」
「あッ、こんなところに、人間がたおれている。誰が殺したんだ」
と、たち騒ぐ人々の声。
「みなさん。静かにして下さい。こいつは僕を撃とうとして、僕に腕をおさえられ、自分で自分を撃ってしまったんです」
国彦中尉はすこしもあわてた様子もなく、人々に話をして聞かせた。
「こいつは、一体何者なんです?」
「ピストルを持っているなんておかしいね」
人々はおそるおそる死体のまわりをとりまいた。
「……ああ、あなた。血だらけよ。浴衣も……それから手も……」
驚きのあまり、中尉のうしろに呆然と立っていた露子が、このとき始めて口をひらいた。
「ナニ、血? 大丈夫だ。おれには怪我はない」
中尉は元気な声で答えた。
「あなた、いま水を汲みますから、水でお洗いになっては……」
と、露子が井戸の方によろうとすると、
「待て、露子……。しばらく井戸に触ってはならん」
「えッ」
「皆さんも、井戸には触らないでください。その前に、この死んだ男の身体を調べたいのだが……、誰か警官を呼んできて下さい」
国彦中尉は、なぜか井戸をたいへん気にしていた。そこへ剣をガチャつかせて、二人の警官が息せき切って駈けつけてきた。
「さあ、どいたどいた」
国彦中尉は警官を迎えると、なにか耳うちをした。警官は顔を見合わせて大きくうなずくと、人々を遠くへどかせた上、中尉と三人きりになって、井戸の横に倒れているきたない服装をした男の持物を、懐中電灯の明りで調べだした。人々は遠くから固唾をのんでひかえていた。
と、突然、
「……ああ、あった。これだッ」
国彦中尉が叫んだ。そして懐中電灯の光でてらしだしたのは、死人の腹にまいてある幅の広い帯革であった。それには猟銃の薬莢を並べたように、たくさんのポケットがついていた。しかし中尉がそのポケットから取りだしたものは、猟銃の薬莢ではなく、注射液を入れたような小さい茶色の硝子筒だった。それには小さいレッテルが貼ってあり、赤インキで何か外国語がしたためてあった。
「ほう、コレラ菌ですよ……」
国彦中尉は、警官の鼻の先に、その茶色の硝子筒をさしつけなが[#「さしつけなが」はママ]いった。
「ええッ、コレラ菌!」
警官の顔は見る見るまっさおになっていった。
「そうです。この死んだ男は、敵国のスパイに違いありません。この直江津の町におそるべきコレラを流行させるために、これを持ちまわって井戸の中に投げこんでいたのです」
「ああ、するとコレラ菌を知らないで飲んでしまった人もあるわけだ。さあ大変……」
警官は驚きのあまりよろよろとした。
「まあ、しっかりして下さい。今からでも、まだ遅くはない。すぐ手を廻して、町の人々に生水を飲むなと知らせるのですね」
「どうして知らせたらいいでしょう。こんなことがあるのだったら、サイレンか何かで『生水を飲むな』という警報が出せるようにきめておけばよかった」
警官は大きな溜息をついた。これを横から聞いていた人々も、全身の血が逆流するように感じた。なにも知らない町の人々は、今も盛んにコレラ菌を飲んでいるのだ。そしてやがてコレラ菌のため、ことごとく死に絶えてしまうのではなかろうか。なんというおそろしいことだ。スパイの持ってきた死神の風呂敷に、直江津の町全体が包まれてしまったのだ。
「義兄さん――」
と、旗男少年は列の中からとびだして来た。
「ぐずぐずしていないで、早く新潟放送局に電話をかけて放送してもらえばいいじゃありませんか。いま午後七時半の講演の時間をやっている頃だから、ラジオを持っている家には、井戸が使えないことをすぐ知らせられますよ」
「えらいッ……」
中尉と二人の警官とは、声を合わせて、同じことを叫んだ。そして三人は旗男の方を一せいにふりかえった。とたんに三人はアッといって目をむいた。
「うわーッ、旗男君。その恰好はなんだ。早く家へ入って猿股をはいてこんか」
と、国彦中尉が大喝した。それをキッカケに、井戸端からドッと爆笑がまきおこって、その場の暗い気持をふきとばしてしまった。――旗男は、すっぱだかなのをすっかり忘れていた。
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