怪しい男
「まあ、おそいのねェ……」
汀のところで、女の声がした。姉の露子が一誕生を迎えたばかりの正彦坊やを抱いて迎えに来ていた。義兄はそれを見ると、とびついていった。
「ああ、正坊。お父ちゃまと、チビ叔父ちゃまのお迎えかい。おお、よく来たね。オロオロオロオロ、ばァ」
旗男も続いて砂地にあがると、照れかくしに正坊のところへ行って、
「オロオロオロオロ、ばァ」
とやった。
「じいタン。ばァばァ」
正彦坊やは、まわらぬ口を動かしてキャッキャッと若い母の腕の上ではねた。
「さあ旗男君。早いところ行軍を始めようぜ。――分隊前へ……」
国彦中尉はふざけた号令をかけると、正彦坊やを露子の手からうけとり、先頭に立った。浜から義兄の家まではすぐだった。
すっかり打水をした広い庭に面した八畳の間に、立派な食卓が出ていて、子守の清がひとりで番をしていた。
「ああ、咽喉がかわいた。何よりも西瓜をはやく出せ」
義兄は洗い場で身体を洗いながら大声で叫んだ。ホホホと、お勝手の方で姉の露子と子守の清のほがらかに笑う声がした。まったく和やかな光景だった。旗男も知らぬ間に自分ひとりで笑っているのに気がついた。
――こんな平和な家庭、こんな平和な国。……それだのに、遠く離れたS国の爆撃機をおそれなければならないのか。
国彦中尉は浴衣姿となり、正坊を抱いてニコニコしながら座敷へはいってきた。入れちがいに旗男は、湯殿の方に立った。途中台所をとおると、大きな西瓜が、俎の上にのっていた。旗男はのどから手が出そうだった。
風呂槽からザアザアと水をかぶっていると、隣の台所で、清の脅えたような声が、ふと、旗男の耳にひびいた。
「……アノ奥さま。いま変な男が、井戸のところをウロウロしているのでございますよ。……故紙業のような男で……」
「アラそう?」
「いえ奥さま。それが変なんでございますよ。ジロジロと井戸の方を睨んでいるのでございますよ。……ああ、わかりましたわ。あのひと、井戸の中の西瓜を狙っているのでございますわ。西瓜泥棒……」
「これ、静かにおし……」
西瓜泥棒と聞いて、旗男はソッと硝子戸のすきまから外を覗いてみた。なるほど、いるいる。暗いのでよくは分からないが、頬被をした上に帽子をかぶり、背中にはバナナの空籠を背負っている男が、ソロソロ井戸端に近づいてゆく。……
――怪しからん奴だ。……しかし、西瓜ならもう家の中に取りこんであるからお生憎さまだ。ハハンのフフンだ。――
と、旗男はなおも眼をはなさないでいると、かの男は、見られているとも知らず、井戸の上に身体をもたせかけると、右手をつとのばして何か井戸の中へ投げいれた様子、カチンと硝子が割れるような音が聞えた。一体何を入れたんだろう?
と、とたんにあらあらしく玄関の格子戸が開いて、
「コラ待て……」
と、飛びだしていったのは国彦中尉。怪漢はギョッと驚いたらしく、まるで猫のように素早く、井戸端の向こうにまわって身を隠した。その素早さが、どうもただの男ではない。
「さあ出てこい。怪しからん奴だ」
と、中尉のどなりつける声。怪漢は、しゃがんだままゴソゴソやっていたが、何かキラリと光るものを懐中から取出した。ピストルか短刀か?
「あッ危い……」
旗男は義兄を助けるために、なにか手頃の得物がないかと、湯殿の中を見まわした。そのとき眼にうつったのは、斜に立てかけてある長い旗竿だった。よし、すこし長すぎるけれど、これを使って加藤清正の虎退治とゆこう。
「うおーッ、大身の槍だぞォ……」
いきなり湯殿の戸をガラリとあけると、旗男は長い旗竿を、怪漢の隠れている井戸端のうしろへ突きこんだ。
「うわーッ」
それが図にあたって、怪漢は隠れ場所からピョンと飛びあがった。そしてなおも逃げようとするところを、旗男はエイエイと懸声をして、旗竿の槍を縦横にふりまわした。
「しまった!」
と叫んで、怪漢はその場にたおれた。旗竿が向脛にあたったものらしい。
「ウヌ、この奴……」
と、国彦中尉が飛びこんでいって怪漢の上に折重なろうとしたとき、
ダーン……
と一発、凄い銃声がひびいた。その銃声の下に、ウームと苦悶する人の声。――旗男はハッとその場に立ちすくんだ。
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