飛ぶ兇器か
ふたりの係官の負傷の手当はすんだ
川内警部はかなり出血したが、この家のお松とおしげが持ってきたブドー酒をのんだあと、すっかり元気をとりもどした。
「ああ、検事さん。かんじんの用むきを忘れていましたが、さっき針目の室まで行って博士に会い、あなたが会いたいといっていられることをつたえようとしたんですが、博士は入口のドアをあけもせず、“会ってもいいが、いま仕事で手がはなせないから、あとにしてくれ。あとからわたしの方で行くから”といって、さっぱりこっちの申し入れを聞き入れないんです」
「なるほど」
「わたしはいろいろ、ドアをへだててくりかえしいってみたんですが、博士はがんとして応じません。ろくに返事もしないのですからねえ、係官を侮辱していますよ」
田口警官は、ふんがいのようすであった。
「向うでいま会いたがらないのなら、会わないでもいいさ」
と検事はさすがにおちついていた。
「しかしこの怪事件について、博士はじぶんの上に疑惑の黒雲を、呼びよせるようなことをしている」
「ねえ、長戸さん」
と川内警部がいった。
「わしはこの邸にはふつうでない空気がただよっているし、そしてふつうでないからくりがあるように思うんですがな……。で、例のするどい刃物を、何か音のしない弓かなんかで飛ばすような仕掛けがあるのではないでしょうか。博士というやつは、いろいろなからくりを作るのがじょうずですからね」
「きみの足首を斬った犯人が姿を見せないので、きみはからくり説へ転向したというわけか」
検事はやや苦笑した。
「どこか天じょう穴があるとか、壁の下の方に穴があるとかして、そこからぴゅーッと刃物のついた矢をうちだすのじゃないですかな。この家の博士なら、それくらいの仕掛けはできないこともありますまい」
「刃物を矢につけて飛ばすとは、きみも考えたものだ。しかしその刃物も、見あたらないじゃないか」
「いや、まだわれわれの探しかたがたりないのですよ。兇器がなくて、ぼくや田口がこんな傷をおうわけはないですからね」
そういっているところへ、戸口からのっそりとこの室内へはいってきた者があった。
近眼鏡をかけた三十あまりの人物だった。あおい顔、ヨモギのような長髪がばさばさとゆれている。下にはグリーンの背広服を着ているが、その上に薬品で焼け焦げのあるきたならしい白い実験衣をひっかけている。
紫色の大きなくちびるをぐっとへの字にむすんで、お三根の死体をじろりと見たが、べつにおどろいたようでもなく、かれは視線を係官の方へうつす。
「ぼくが針目です。ぼくに会いたいといっていられたのはどなたですか」
検事はさっきからこの家の主人公である針目博士か入ってきたことを知っていたが、博士がどんな挙動をするかをしばらく見定めたいと思ったので、今まで知らぬ顔をしていたのである。
「ああ、それはわたしです。わたしが会見を申しこんだのです。検事局の長戸検事です」
検事ははじめて声をかけた。
「検事! ふーン。お三根の死因はわかりましたか」
博士はひややかに聞く。
「わかりました。頸動脈をするどい刃物で斬られて、出血多量で死んだと思います」
「自殺ですか。それとも……」
「自殺する原因があったでしょうか」
検事は、ちょっとしたことばのはしにも、職業意識をはたらかして、突っこむものだ。
「知らんですなあ」
博士は、両手をうしろに組んで、ぶっきらぼうにものをいう。
「わたしどもは、他殺事件だと考えています」
「他殺? ふーン。下手人は誰でしたか」
博士はおなじ調子できく。
「さあ、それがもうわかっていれば、われわれもこんな顔をしていないのですが……」
と検事はちょっと皮肉めいたことばをもらし、
「真犯人をつきとめるためには、ぜひとも、あなたのお力ぞえを得なくてはならないと思いまして、会見をお願いしたわけです」
「ぼくは、何もあなたがたの参考になるようなことを持っていないのです。生き残った者に聞いてごらんになるほうがいいでしょう」
「それはもうしらべずみです。あとはあなたにおたずねすることが残っているだけです」
「ああ、そうですか。それなら何でもお聞きなさい」
あざ笑う博士
そこで検事は、型のとおりに昨夜お三根が殺される前後の時刻において、博士はどんなことをしていたか、叫び声を聞かなかったか。格闘の物音を耳にしなかったか。犯人と思われる者のすがたを見、または足音を聞かなかったか。それから最初にこの事件に気がついたのは何時ごろだったか、などについて訊問していった。
これに対する博士の答えは、かんたんであり、そして明瞭であった。
それによると、博士は昨夕いらい、徹夜実験をつづけていたこと。犯行の音も聞かず、犯人のすがたも見なかったこと。そして博士はその徹夜のうち、二度ばかり実験室を出てかわやへいっただけで、他は実験室ばかりにいたことを述べた。
検事は、博士のことばについて、いろいろとものたりなさを感じた。あれだけの殺人が、十間ほどはなれているにしても、同じ屋根の下で行なわれたのに、被害者の声も耳にしなかったというのはおかしく思われた。
「じゃあ、誰がお三根を殺したと思われますか。ご意見を参考までにお聞きしたいのですが」
「知らんです。人の私行については興味を持っていません」
「まさかあなたがその下手人ではありますまいね」
検事のこのことばは、はじめてこの無神経な冷血動物のような博士を、とびあがらせる力があった。
「な、何ですって。ぼくが殺したというのですか。どこにぼくがこの女を殺さねばならない必要があるのです。さあ、それをいいたまえ、早く……」
長身の博士が、髪をふりみだして、両手をひろげて検事の方へせまったかっこうは、とてもものすごいものだった。
長戸検事はたじたじとうしろへ二、三歩さがってから、博士をおしもどすように手をふった。
「なぜそんなに興奮なさるんですか。わたしとしては、今の質問にイエスとかノウとか、かんたんにお答えくださればそれでよかったんです」
「失敬な……」
と博士はやせた肩を波うたせて、ふうふう息を切っていたが、
「もちろん、ぼくはこんな女を殺したおぼえはない」
「この邸にはみょうな仕掛けがあるといっている者があるんですがね、お心あたりはありませんか。たとえば、するどい刃物を矢のさきにとりつけたものを、弓につがえて飛ばせる。そして人間に斬りけるという……」
「はっはっはっ」博士は笑いだした。
「きみはずいぶんでたらめなことを聞くですなあ。それはおとぎばなしにある話ですか」
「いや、大まじめで、あなたのご意見をうかがっているのです。……そしてその恐るべき兇器は人目にもはいらない速さで、遠くへ飛んでいってしまう……」
「おとぎばなしならもうたくさんだ。ぼくはいそがしいからだだ。もうこれぐらいにしてくれたまえ」
「お待ちなさい」
検事は手を前に出して博士を引き止めた。
「お三根さんがそのような兇器で殺されたばかりでなく、きょうここへきたわれわれの仲間がふたりまで、その同じ凶器によって重傷を負っているのです。これでもおとぎばなしでしょうか」
「本当ですか」
博士は、はじめて真剣な顔つきになった。
「本当ですとも。川内警部と田口巡査のあの傷を見てやってください」
「ああなるほど。それでその矢はどこにあるんですか」
「それがあるなら、事件はかんたんになります。それがどこにも見えないから、われわれは苦労しているのです。あなたにうかがえば、その恐るべき兇器のからくりがわかるだろうと思って、おたずねしているわけです」
「そんなことをぼくに聞いてもわかる道理がない。捜査するのはあなたたちの仕事でしょう。徹底的にさがしたらいいでしょう。かまいませんから、邸内どこでもおさがしなさい」
「そういってくださると、まことにありがたいですが、どうぞそれをお忘れなく――」
と検事はほくそ笑んで、
「では、あなたの実験室も拝見したいですし、それからこの天じょう裏をはいまわってさがさせていただきたい」
「天じょう裏はいいが、ぼくの研究室をさがすことはおことわりする」
「今のお約束のことばとちがいますね。それはこまる。そしてあなたに不利ですぞ」
「……」
「研究室をさがすために強権を使うこともできますが、なるべくならば――」
「よろしい。案内しましょう。しかしはじめにことわっておくが、後できみたちが後悔したって知りませんよ」
博士は何事かを考え、気味のわるいことばをはなった。さて博士の研究室の中に、何があるのか。
待っていた奇々怪々
係官の一行は、うすぐらい廊下を奥の方へと進んでいった。
先頭には、かなりきげんのわるそうな針目博士が肩をゆすぶって歩いている。そのすぐうしろに右頬を斬られ大きなガーゼをあてて、ばんそうこうで十字にとめた田口巡査がついていく。もしも博士が逃げだすようすを見せたら、そのときはすぐうしろからとびついて、その場にねじ伏せる覚悟をしている田口巡査だった。
それから少し歩幅をおいて、長戸検事を先に、残り係官一行が五、六名つきしたがっている。
検事の顔色は青黒い。細く見ひらいたまぶたのうしろに、眼球がたえずぐるぐる動いている。
それはかれが気持わるく悩んでいることを意味する。
(手がかりらしいものは、なんにもない。犯行だけが、二つ、いや三つもある。こんなことではこの事件はいつとけるかわからない。ぼやぼやするなよ、長戸検事)
そんな声が、検事の頭の中でどなり散らしている。これまで彼が現場へのぞめば、事件解決のかぎとなる証拠物を、たちどころに二つや三つは見つけたものである。そして犯人はすぐさま図星をさされるか、そうでないとしても、犯人のおおよその輪廓はきめられたものである。
しかるに、こんどの場合にかぎり、そうではなく、さっぱり犯人の見当がつかないのである。そればかりか、事件そのものの性質がよくのみこめないのだ。
が、そんなことで考えこんで、多くの時間をつぶすわけにはいかない。事件の性質がどうあろうと、お三根はむごたらしく斬殺されて冷たいむくろとなって隣室によこたわっているんだし、部下の川内警部は足を斬られて、げんに足をひいてうしろからついてくる。田口巡査はほおを切られて、あのとおり、かっこうのわるいガーゼを顔にはりつけているのだ。検事はいよいよくさらないでいられなかった。
だから検事としては、このうえは、あやしい針目博士の研究室の中を徹底的に家探しをして、犯人としての、のっぴきならぬ証拠物件を手に入れたいものと熱望していた。
かぎをまわす音が検事の胸をえぐった。
気がつくと、針目博士が研究室のドアの錠をはずし、そこを開いた。そして博士はゆっくりと部屋の中へすがたを消した。検事は全身がかっとあつくなるのをおぼえた。取りおさえるか逃がすか、それはこれからの室内捜査のけっかできまる。
「なぜ、すぐはいらんのだ。しりごみしていてどうする」
検事は、入口のところに足をとめてしまった田口巡査を、低い声で叱りつけた。しかし検事は冷汗をもよおした。ぐずぐずしている自分の方を、もっときびしく叱りつけたいことに気がついたからである。
田口巡査は、はっとおどろいて、ウサギのようにぴょんとひとはねすると、研究室の中へとびこんだ。とたんにかれは、
「あっ」
という叫び声を発した。
長戸検事の顔は、いっそう青ざめた。そしていそいで部下のあとを追って中へはいった。
「うむ」
検事はうなった。あやうく大きな叫び声が出そうになったのを、一生けんめいに、のどから下へおしこんだ。
かれらはいったいなにを見たのであろうか。
それはなんともいいようのない奇妙な光景であった。窓のないこの部屋の四つの壁は、隣室につうずる二つのドアをのぞいたほかは、ぜんぶが横に長い棚になっていた。下は床のすこし上からはじまって、上は高い天じょうにまでとどいて、ぜんぶで十段いじょうになろう。
そしてこの棚の上に、厚いガラスでできた角型のガラス槽が、一定のあいだをおいてずらりとならんでいるのだったが、その数は、すくなくとも四、五百個はあり、壮観だった。
しかもこのガラス槽の中には、それぞれ活発に動いている生物がはいっていた。検事が最初に目をとどめたガラス槽の中には、頭のない大きなガマが、ごそごそはいまわっていた。もっともそのガマは、背中にマッチ箱ぐらいの大きさの、透明な箱を背おっていた。その箱の中には、指さきほどの灰白色のぐにゃぐにゃしたものがはいっていたが、検事はそこまで観察するよゆうがなく、ただふしぎな頭のない大きなガマがガラス槽の中で、あばれまわっているのにびっくりしたのであった。
検事は、おどろきの目を、つぎつぎのガラス槽に走らせた。その結果、かれのおどろきはますますはげしくなるばかりだった。かれはもうひとつのガラス槽の中において、たしかに木製おもちゃにちがいない人形が、やはり透明な小箱を背おってあるきまわっているのを見た。
それはゼンマイ仕掛けの人形とはちがい、どう見ても昆虫のような生きものに思えた。
つぎのガラス槽の中では、やはり頭のないネズミが、透明の小箱を背おって、人間のように直立し、のそりのそりと中を散歩しているのを見た。またそのお隣のガラス槽の中では、一本足のコマが、ゆるくまわりながら、トカゲのように、あっちへふらふら、こっちへちょろちょろと走りまわっているのを見た。なんという奇怪な生物の展覧会場であろう。
いや、展覧会場ではない、これは針目博士が、他人にのぞかせることをきらっている密室のひとつなのであるから、極秘の生きている標本室といった方がいいのだろう。
検事はこのふしぎな生きものの世界へとびこんで、あまりの奇怪さに自分の頭がへんになるのをおぼえた。それから後、かれは一言も発しないで銅像のように立ちつづけた。するとその部屋が急に遠くへ離れてしまったような気がした。音さえ、遠くへ行ってしまった。かれは自分が卒倒の一歩手前にあることをさとった。が、どうすることもできなかった。
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