海野十三全集 第12巻 超人間X号 |
三一書房 |
1990(平成2)年8月15日 |
1990(平成2)年8月15日第1版第1刷 |
こんな文章
およそ世の中には、人にまだ知られていない、ふしぎなことがずいぶんたくさんあるのだ。
いや、ほんとうは、今の人々に話をして、ふしぎがられる話の方が、ふしぎがられない話よりもずっとずっと多いのだ。それは九十九対一よりも、もっととびはなれた比であろうと思う。
つまり、世の中は、ふしぎなことだらけなのだ。しかし、そう感じないのは、みなさんがたがどこにそんなふしぎなことがあるか知らないからだ。また、じっさいそのふしぎなものに行きあっていても、それがふしぎなものであることに、気がつかない場合が多い。
それからもうひとつ――。
人間の力では、どうにもならないことがある。それは運命ということばで、いいあらわされる。この運命というやつが、じつにふざけた先生である。運命に見こまれてしまうと、お金のない人が大金持になったり、またはその反対のことが起こったり、いや、そんなことよりも、もっともっと意外なことが起こるのだ。
宝くじの一等があたる確からしさを、いわゆる確率の法則によって計算することができる。その法則によって出てきたところの「宝くじの一等があたる確からしさ」の率は、万人に平等である。その当せん率のあまりにも低いことを知って、万人は宝くじを買うことをやめるはずになっている。その確率の法則を作った学者や、それを信奉する後続の学究学徒の推論によれば……。
だが、事実はそうでなくて、宝くじがさかんに売れている。それはなぜであろうか。それは、とにかく事実一等にあたって二十万円とか百万円とかの賞金をつかむ人が、毎回十人とか二十人とか、ちゃんと実在するので、自分もそのひとりになれないこともないのだと、さてこそ宝くじを買いこむのである。
その人たちの感じでは、当せん率は、確率の法則が算定してくれる率よりも、何百倍か何千倍か、ずっと多いように感ずる。これはいったいなぜであろうか。
一言でいうと、世の中の人々は、確率論をまもる学者よりは、ずっと正しく、運命を理解しているからだ。すなわち運命がおどけ者であるということを、わきまえているのである。とうぜんとっぴょうしもない出来事をおこさせるおどけ者の運命は、案外わたくしたちの身近に、うろうろしているのだ。奇蹟といわれるものは、案外たびたび起こるもので、わたくの感じでは、一カ月にいっぺんずつぐらいの割合で、奇蹟がおこっているのでないかと思う。
ふしぎと運命と、そしてひんぱんに起こる奇蹟とに「世の人々よ、どうぞ気をおつけなさい」と呼びかけたい。
一月十日
金属Qを創造する見込みのつきたる日しるす
理学博士 針目左馬太
次の語り手
右にかかげた日記ふうの感想文は、その署名によって明らかなとおり、針目博士がしたためたものである。
これは博士の書斎にある書類棚の、原稿袋の中に保存せられていたもので、後日これを発見した人々の間に問題となった一文である。
みなさんは、針目左馬太博士のことについて、今はもうよくご存じであろうから、べつに説明をくわえる必要はない。だが、この事件の起こった当時においては、この若き天才博士のことを、世の人々はほとんど知らなかったのである。
博士は、わずか二十三歳のときに博士号をとっている。その論文は「重力の電気的性質、特に細胞分子間におけるその研究」というのであった。これは劃期的な論文であったが、またあまりにとっぴすぎるというので、にがい顔をした論文審査委員もあった。しかしけっきょく、これまでにこれだけのすぐれた綿密な境地を開いた学者はいなかったので、この博士論文は通過した。そのかわり、審査に一年以上を要したのであった。
その間に針目博士――いや、まだ博士にはなっていない針目左馬太学士は、大学の研究室を去って、みずから針目研究室を自分の家につくり、ひたむきな研究に没頭した。
さいわいにも、針目博士の家は、曾祖父の代からずっと医学者がつづいており、曾祖父の針目逸斎、祖父の針目寛斎、父の針目豹馬と、みんな医学者であり、そして邸内に、古めかしい煉瓦建ではあるが、ひじょうにりっぱな研究室や標本室、図書室、実験室、手術室などがひとかたまりになった別棟の建物があったのである。当主である彼、左馬太青年がそこを仕事場にえらんだことは、しごく自然であった。
不幸なことに――他人が見たら――かれは、もっか身よりもなく、ただひとりであった。両親と弟妹の四人は、戦争中に疎開先で戦災にあって死に、東京で大学院学生兼助手をして残っていた、かれ左馬太だけが生き残っているのである。そういう気の毒なさびしい身の上であったが、かれ自身はいっこう気にかけていないように見え、その広い邸宅に、四人の雇人とともに生活していた。
博士論文が通過するまでの約一年間に、かれがまとめあげた研究論文は五つ六つあった。その中に、特にここでごひろうしておきたいのは「細胞内における分子配列と、生命誕生の可能性、ならびにその新確率論による算定について」というのであった。
この論文といい、また博士論文に提出したあの論文といい、かれが研究の方向を、細胞の分子に置いていることが、これによってうかがわれる。こういう研究の領域は、わが国はもちろん、世界においても今までに手がつけられたことがなく、じつに研学の青年針目左馬太によってはじめて、メスを入れられたところのものであった。
しかもかれは、すこぶる大胆にも「生命の誕生」という問題を取り上げているのだった。はたしてかれの論文が正しいかどうかは別の問題として、かれはつぎのようなことを結論している。
(――細胞内における分子が相互にケンシテイションをひき起こし、そのけっか仮歪のポテンシャルを得たとすると、これは生命誕生の可能性を持ったことになる)云々。
これが重大なる結論なのである。生命が誕生する可能性をもつ条件が、要約せられているのである。
しかし、ケンシテイションとはどんな現象なのか、仮歪のポテンシャルとはどんな性質のものか、それについてはこの論文を読んだ者はひじょうな難解におちいる。だが針目青年には、これがよくわかっていて、論文中いたるところにこれを駆使している。思うに、この二つの専門語を知るためには、これよりもまえに書いた、彼の他の論文を読破しなければならないのであろう。
それはともかく、かれの研究は生命誕生の可能性にまで達していると思われる。これはこれまでの生物学者も医学者も、まったくふれることのできなかった難問題である。それを二十歳を越えたばかりの白面の青年学徒が、みごとに手玉にとっているのであるから、なんといってよいか、じつに原子力行使につぐ劃期的な文明開拓だといわなければならない。もっとも、世の多くの頑迷な学者たちは、にわかにこの青年学徒のしめすところの結論を信用しないであろうけれど……。そして読者諸君はこれからくりひろげられる物語の事実により、はたしてかれの研究が本ものか、それとも欠陥があるかを判定されればよいのである。
さてここで、さきにかかげた博士の日記ふうの随筆にもどるが、その内容は、さほど奇抜すぎるというものではない。あそこに述べられたような感じは、われわれとても、ふだんふと心の中にいだくことがある。
じつは、右の内容について、大いに気にしなければならぬことがあるのであるが、ここにはふれないでおく、それはいずれ先へ行ってから、いやでもむきになって掘りかえさなければならない時がくるのであるから。
ただ、ここにはその文章の最後のところに書いてある一文について、読者の注意をうながしておきたいのだ。
すなわち、こうである。
(一月十日、金属Qを創造する見込みのつきたる日しるす)
とある。
おかしいとは思われないか。これまでずっと細胞分子の問題や、それに関連しての生命誕生のことなどばかりを取りあげていた針目博士が、こんどは急にがらりと目先をかえて、金属の製造研究に没頭していることである。
金属製造――と書いては、いけないかもしれない。博士は“金属Qを創造”としたためている。製造と創造とは、なるほどすこしく意味がちがう。しかし創造ということには製造することがふくまれているのだ。はじめて製造することが創造なのである。してみれば、ぞくっぽく金属製造といってもさしつかえないであろう。
いや、金属というものは、精錬され、あるいは別のものに化成され、または合金にされることはあるが、金属そのものを製造することはない――というひともあろう。つまり金属である銅とか鉄とかは、はじめからそういう形でこの地球に存在しているのであって、銅とか鉄などが製造または創造されるというのはおかしい。そういう抗議が出そうな気配がする。
しかし、たしかに針目博士は“金属を創造する”と書いてあるのだ。ウラニュウムをぶちこわしてカルシュウムを製造または創造するとはいわないであろうか。
いや、それは潔癖にいうと、製造ではないし、もちろん創造ではない。アダムのからだから肋骨を一本取り去ったとき、その直後のアダムのことを、前のアダムから製造したといわないのと同様である。
そうなると、針目博士が使用した“金属の創造”というのは、いったいどんな意味なのか、深い謎のベールに包まれているように感ずる。――まあ、そのことは、今は大目に見のがすこととして、“金属Q”というものはいったい何だと、ちょっと考えてみなければなるまい。
Qなどという記号の元素は、九十二または九十三の元素表の中にまったく見出されない。そうすると、金属Qなるものは、それ以外の新元素かもしれないと考えられる。これは誰でもそう考えるだろう。
つまり針目博士は、新金属Qをはじめて作りだす研究をやっていたものであるとするのである。元素表はもういっぱいであるのに、新元素があってたまるものかとも考えたくなる。どんな奇抜な方法によって、新元素を作り出したつもりでも、けっきょくは元素表にある元素の一つであるか、あるいはその同位元素であるというところに、収斂してしまうのがおちであろう。
だが、ここにもう一度よく考えてみなければならないことがある。
それは、われわれのような俗人が論ずるから右のようになるが、しかし非凡なる頭脳と深遠なる学識をそなえた針目博士自身としては、新しい金属の創造などということは、けっして不可能なことではないと思われるのではあるまいか。そのへんのことは、われわれのうかがい知ることのできない領域だと、一時しておこう。
そこでもう一度、本筋へもどって考える。なぜ針目博士は、あのすばらしい生命誕生の研究をやりっぱなしにして、新金属などの創造にくらがえをしたのであろうか。惜しいではないか。
さあ、この答は、まったくむずかしい。博士は金属製造ということに、よほど強い魅力を感じたのであるかもしれない。だが、金属製造などということが、生命誕生の研究いじょうにそんなに魅力があるとは思われないではないか。けっきょく察しられることは、二つである。かの生命誕生の研究がまったく行きづまってしまい、研究の方向をかえなくてはならなかったものか。それともひじょうに特別な場合として、金属製造という研究の命題が、特に博士をすっかりひきつけてしまうほどの、ある出来事があったのではなかろうか。
たぶん、あとの方があたっていると思う。なぜといって、前の方のように、あれだけ研究をつんだ生命誕生の研究が、一夜でばったり行きづまるようなことは、まずもって考えられないからである。
そうなると、博士をきゅうに金属Q製造の方へひきつける動機となった、そのある出来事なるものはいったい何であったか、はなはだ興味をひかれる。――とにかくこの問題は、じつはまだ解けていない。それで、それはそれとして、針目博士がとつぜんわれわれの前へ脚光をあびてあらわれた、そのお目見得の事件について、これから述べようと思う。
それは恐ろしいなぞにみちた殺人事件であった。針目博士邸において、お手伝いさん谷間三根子が密室においてのどを切られて死んでいた事件である。
申しおくれたが、わたしは探偵蜂矢十六という者である。
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