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恐怖の口笛(きょうふのくちぶえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 11:29:23  点击:  切换到繁體中文



   大団円だいだんえん、死の舞踊ぶよう


「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」
 と、あわただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。
「おう、どうしたかネ、大江山君」
 検事は書見しょけんをやめて、大きな机の陰から顔をあげた。
「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」
「ポントスを生捕りにしたのかネ」
「いえおっしゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」
「ほほう、それは出かしたネ」
「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、くぎでひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、しばらくは生きていたらしいですネ」
「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」
「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」
 といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上にべて、静かに読みくだした。
「ほほう、――」と彼は感歎かんたんの声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」
 と検事は悲痛ひつう面持おももちで、あらぬ方を見つめた。
「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」
 そこで課長はもどかしそうに叫んだ。
「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇さんげきで、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰やいんじょうじてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱どくしょうを聞かせられながら、頸部けいぶから彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁にほうり込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」
 検事は黙々もくもくとしてうなずいた。
「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。
「よろしい。――が、いま時刻は……」
「もう三分で午後九時です」
「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、わしが待っている電話があるのだから」
 大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、しょう九時を知らせる時計が鳴りだした。
ついに電話は来ない。――」と検事は低い声でうめくように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」
 そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋しょかんせんを取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色あずきいろのインキで、
「赤星ジュリア!」
 という文字が浮きだしていた。
「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思ってたずねた。
「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意をひょうする者だ!」
 といって検事は、大江山課長の手を強く握った。
「それで青竜王はどうしたんです」
 と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什いちぶしじゅうを手短かに物語り、九時までに彼の電話がかかって来る筈だったのだと説明した。
「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇ちゅうちょしている場合ではありません。ただちに私たちに踏みこませて下さい」
「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」
 そういって雁金検事は椅子から立ち上った。
 検察官は重大な決心を固めて、ふるい立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。
 一行の自動車が日比谷のかどを曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中ただなかに、燦然さんぜんかがやく百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂だいでんどうは、どこにむべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高くそびえている白色の円い壁体へきたいの上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の舞姫まいひめ赤星ジュリア一座」とか「堂々続演ぞくえん十七週間――赤き苺の実!」などとあざやかな文字で大書たいしょしてあるのが見えた。ああ真に一代の妖姫ようきジュリア!
 大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に戦慄せんりつすべき魔神まじんなりとも、もう袋の鼠同様だった。
「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」
 と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。
「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」
「そうかネ、フーム……」
 と検事は大きな吐息といきをした。そしてひそかにのぞき穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリとつまった座席の彼方かなたに、見覚えのある「赤い苺の実」の絢爛けんらんたる舞台面が展開していた。ドアの隙間を通じて、

「あたしの大好きな
 真紅まっかな苺の実
 いずくにあるのでしょう
 いま――
 欲しいのですけれど……」

 と、豊潤ほうじゅんな酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に急調きゅうちょうなステップを踏んでいた。
「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛びかかるんですか……」
「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。
「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が請合うけあいかねますよ。――」
 と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。
「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴きゃつのことなら、まあ大丈夫だよ」
 と検事は先刻せんこくとは打って変って、楽観説を唱えたのだった。
 それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服えんびふくの俳優は、まぎれもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。
 だが青竜王は、はたから見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもってかろうじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣かげろうの生命よりももっと果敢はかない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障ざいしょうをなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化じょうかしたいと願っている。――一つは大洪水だいこうずいのような司法の力、一つは硝子ガラスで作った羽毛うもうのようにまことに脆弱ぜいじゃくな魂――その二つの間にはさまれた彼、青竜王の心境は実につらかった。
 ――なんとかして、最後の舞台を力一杯につとめさせたい!
 と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。
「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」
「あたしも先刻さっきから、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」
 ――ジュリア、どうした!
 と、三階席から無遠慮ぶえんりょな声が飛んだ。
 それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、そのくびのあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。
 ――ジュリア、帰ってねむってこい!
 と、続いて二階から頓狂とんきょうな声が響いた。
 ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥だちょう羽毛はねで作った大きなおうぎがブルブルとふるえながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。

「別れの冬木立ふゆこだち
 遺品かたみにちょうだいな
 あなたの心臓を
 ええ――
 あたしは吸血鬼……」

 という合唱につられたかのように、ジュリアの顔を隠した羽毛の扇がピクピクと宙をあえいだ。――そこで曲目は断層だんそうをしたかのように変化し、奔放ほんぽうにして妖艶ようえんかぎりなき吸血鬼の踊りとなる――この舞台のうちで、一番怪奇であって絢爛、妖艶であって勇壮な大舞踊となる。今夜のジュリアの無気力むきりょくでは、その辺でたまりもなく舞台の上にくずれ坐るかと思われたが、なんという意外、なんという不思議! 彼女は生れ変ったように溌剌はつらつとして舞台の上を踊り狂った。
 ウワーッ! という歓声、ただもう大歓声で、シャンデリヤの輝く大天井だいてんじょうゆるぎ落ちるかと思うような感激の旋風が、一階席からも二階席からも三階席からも四階席からもき起った。
「ジュリア! 世界一のジュリア!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリア!」
「殺してくれい、ジュリア!」
「百万ドルの女優!」
 と、後はなにがなんだか、れかえるような騒ぎで、合唱も器楽もみ消されてしまった。実に空前くうぜん大喝采だいかっさい、空前の昂奮だった。――何がジュリアをこうも元気づけたか?
 一番前の列にいた勇少年は、隣りの大辻の腕をひっぱって叫んだ。
「ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ」
ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラとしたたれる!」
 しかし他の者は、昂奮の渦巻の中に酔って、そんなことに気のつく者は一人もなかった。ワーッワーッと、まるで闘牛場のような騒ぎだった。――その嵐のような歓呼の絶頂ぜっちょうに、わが歌姫赤星ジュリアはパッタリ舞台に倒れて虫の息となってしまった。間髪かんぱつを入れず、舞台監督の機転で、大きな緞帳どんちょうがスルスルと下りた。それがジュリアの最後の舞台だった。
 青竜王の西一郎は、誰よりも真先まっさきに飛んで来て、ジュリアを抱き起した。
「ジュリアさん。どうしたんです。しっかりしなさい、ジュリアさん」
 ジュリアはまるで意識がなかった。
「早く医者を呼んで……」
 青竜王は誰にともなく命じると、そのままジュリアをかかえあげて、とっとっと三階の彼女の部屋にまで運んだのであった。
 ドアをあけて入ると、室の中央にはいつになく大きなソファが出してあり、その上には真白の絹のきれがフワリと掛けてあった。
「ああ、これがジュリアの覚悟かくごだったんです」
 そういって青竜王は、ジュリアをソッとその白絹しろぎぬの上に横たえた。――右の上膊じょうはくに、喰い切ったような傷口があって、そこから鮮かな血をいているのが発見されたのもこの時だった。傷口は直ちに結ばれたけれど、それは深傷ふかでにとって、何の足しにもならなかった。
 近所の医師が、看護婦を連れて飛びこんで来て、早速さっそく診察をしたけれど、その後で医師は不機嫌に首を振って、一語もしゃべろうとはしなかった。
「ジュリアさん。僕が分るかい。僕は一郎だよ」
 といって、青竜王はジュリアの額をでてやった。その声が感じたのか、ジュリアはかすかに目を開いた。そして苦しそうに口を動かしていたが、やっとのことで、
「千鳥さんにも、びてちょうだい。……お二人して……祈ってネ……」
 とまで云ったかと思うと、にわかに胸を大きく波うたせて、息を引取ってしまった。
「ああ、お気の毒なことをしました。最早もはや御臨終ごりんじゅうです」
 と医師は脈を握っていた手を離して、ジュリアの遺骸いがいに向いうやうやしく敬礼をした。
 先ほどから、ジュリアの身体より遠くの方に遠慮していた雁金検事と大江山捜査課長とは、このとき目交めくばせをすると、静かにジュリアの枕許まくらもとに歩をうつして、ジュリアの冥福を祈念きねんした。
「ジュリアさんの最後の舞台を見てくれましたか」と一郎は二人に声をかけた。
 二人は軽くうなずいた。
「あの最後を飾った素晴らしい踊は、ジュリアが吾れと吾が血潮を吸って、その勢いでもって踊ったのです。今日という今日まで、まさか自分の血潮をすすろうとは思っていなかったでしょうに……」
 といって、一郎は暗然あんぜんと涙をんだ。そして懐中をぐると一と揃いの覆面を出して、ソッとジュリアの枕辺に置いた。――これを見た大江山は始めて気がついたらしく、ハッと一郎の顔をにらんだ。
「ジュリアの死と共に、覆面探偵も死んでしまったのです。もう探偵をするのがいやになりました」
 そういって青竜王ならぬ一郎は、卓越たくえつした手腕しゅわんみずから惜し気もなく捨ててしまった。
 ジュリアの遺骸は、彼女と仲のよかった舞姫まいひめたちが、何処からともなく持ってくる白い百合ゆりやカーネイションやマガレットの花束で、見る見るうちにうずもれていった。
     *   *   *
 一郎は臨終のジュリアから頼まれたとおりの謝罪のことを矢走千鳥やばせちどりに伝えることを忘れなかった。そして、これもジュリアの望んでいたように、彼は千鳥と結婚をした。二人の仲は極めて円満えんまんである。
「君は(――と一郎は愛妻あいさいのことを今もこう呼んでいた)青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんのくなった時まで知らなかったろう」
「アラ自惚うぬぼれていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ」
「へえ、そうかネ」
「へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは薄目うすめを開いてみたんですの。貴下あなたの覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ」
「そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を妻君さいくんにしたことは大成功だろう。はッはッはッ」





底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「富士」
   1934(昭和9)年8月号~11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「青竜王」と「青龍王」、「竜宮劇場」と「龍宮劇場」の混在は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年9月26日作成
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