大団円、死の舞踊
「――検事さん! 雁金さんは何処へ行かれた?」
と、慌ただしく、検事局の宿直室に飛びこんで来たのは、大江山捜査課長だった。
「おう、どうしたかネ、大江山君」
検事は書見をやめて、大きな机の陰から顔をあげた。
「ああ、そこにおいででしたか。喜んで下さい。とうとうポントスを探しあてましたよ。そして――大団円です」
「ポントスを生捕りにしたのかネ」
「いえ仰しゃったとおりポントスは死んでいました。やはりキャバレー・エトワールの中でした。ちょっと気がつかない二重壁の中に閉じ籠められていたのです」
「ほほう、それは出かしたネ」
「ポントスは素晴らしい遺品をわれわれに残してくれました。それは壁の上一面に、折れ釘でひっかいた遺書なんです。彼は吸血鬼に襲われたが、壁の中に入れられてから、暫くは生きていたらしいですネ」
「おや、すると彼は吸血鬼じゃなかったのだネ」
「吸血鬼は外にあります。――さあ、これが壁に書いた遺書の写しです。吸血鬼の名前もちゃんと出ています」
といって大江山はあまり綺麗でない紙を拡げた。検事はそれを机の上に伸べて、静かに読み下した。
「ほほう、――」と彼は感歎の声をあげ「これでみると、吸血鬼はパチノの曾孫である赤星ジュリアだというのだネ。おお、するとあの竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアがあの恐るべき兇行の主だったのか」
と検事は悲痛な面持で、あらぬ方を見つめた。
「昨日、玉川で一緒にゴルフをしたジュリアがそうだったか。……」
そこで課長はもどかしそうに叫んだ。
「キャバレーの主人オトー・ポントスはいつかの夜のキャバレーの惨劇で、ジュリアの殺人を見たのが、運のつきだったんですネ。ジュリアは夜陰に乗じてポントスの寝室を襲い、まずナイフで一撃を加え、それからあのレコードで『赤い苺の実』を鳴らしたんです。ポントスはジュリアの独唱を聞かせられながら、頸部から彼女に血を吸われたんです。それから秘密の壁に抛り込まれたんですが、あの巨人の体にはまだ血液が相当に残っていたため、暫くは生きていた――というのですネ」
検事は黙々として肯いた。
「ではこれから、逮捕に向いたいと思いますが……」と課長はいった。
「よろしい。――が、いま時刻は……」
「もう三分で午後九時です」
「そうか。ではもう三分間待っていてくれ給え、儂が待っている電話があるのだから」
大江山課長は、後にも先にも経験しなかったような永い三分間を送った。――ボーン、ボーンと遠くの部屋から、正九時を知らせる時計が鳴りだした。
「遂に電話は来ない。――」と検事は低い声で呻くように云った。「では不幸な男の手紙を開いてもよい時刻となったのだ」
そういって彼は、机のひき出しから、白い四角な封筒をとりだし、封を破った。そして中から四つ折の書簡箋を取出すと、開いてみた。そこには淡い小豆色のインキで、
「赤星ジュリア!」
という文字が浮きだしていた。
「それは誰が書いたのですか」大江山課長は不思議に思って尋ねた。
「これは青竜王が預けていった答案なのだ。君の答案とピッタリ合った。儂は君にも青竜王にも敬意を表する者だ!」
といって検事は、大江山課長の手を強く握った。
「それで青竜王はどうしたんです」
と大江山が不審がるので、雁金検事は一伍一什を手短かに物語り、九時までに彼の電話が懸って来る筈だったのだと説明した。
「では青竜王は、吸血鬼の犠牲になったのかも知れないじゃないですか。それなら躊躇している場合ではありません。直ちに私たちに踏みこませて下さい」
「うん。……それでは儂も一緒に出かけよう」
そういって雁金検事は椅子から立ち上った。
検察官は重大な決心を固めて、奮い立った。――そして丸ノ内の竜宮劇場へ――。
一行の自動車が日比谷の角を曲ると、竜宮劇場はもう直ぐ目の前に見えた。その名のとおり、夜の幕の唯中に、燦然と輝く百光を浴びて城のように浮きあがっている歓楽の大殿堂は、どこに忌むべき吸血鬼の巣があるかと思うほどだった。その素晴らしく高く聳えている白色の円い壁体の上には、赤い垂れ幕が何本も下っていて、その上には「一代の舞姫赤星ジュリア一座」とか「堂々続演十七週間――赤き苺の実!」などと鮮かな文字で大書してあるのが見えた。ああ真に一代の妖姫ジュリア!
大江山捜査課長の指揮下に、整然たる警戒網が張りまわされた。こうなれば如何に戦慄すべき魔神なりとも、もう袋の鼠同様だった。
「赤星ジュリアは、ちゃんと居るのかい」
と、雁金検事は入口にいた銀座署長に尋ねた。
「はア、すこし元気がないようですが、ちゃんと舞台に出ています。一向逃げ出す様子もありません」
「そうかネ、フーム……」
と検事は大きな吐息をした。そして秘かに覗き穴から、舞台を注視した。なるほど、ギッシリと詰った座席の彼方に、見覚えのある「赤い苺の実」の絢爛たる舞台面が展開していた。扉の隙間を通じて、
「あたしの大好きな
真紅な苺の実
いずくにあるのでしょう
いま――
欲しいのですけれど……」
と、豊潤な酒のような歌声が響いてくるのであった。――ジュリアは確かにいた。同じような肢体をもったダンシング・チームの中央で一緒に急調なステップを踏んでいた。
「幕を締めさせましょうか。そして舞台裏から一時に飛び掛るんですか……」
「うん、――」と、雁金検事は覗き穴から目を離さなかった。
「検事さん。早くやらないと、青竜王の生命が請合いかねますよ。――」
と、大江山も日頃の競争意識を捨てて、覆面探偵の身の上を案ずるのであった。
「うん。もうそう永いことではない。エピローグまで待つことにしようじゃないか。――それから青竜王のことだが、彼奴のことなら、まあ大丈夫だよ」
と検事は先刻とは打って変って、楽観説を唱えたのだった。
それには訳があった。――いま舞台の上に、赤星ジュリアの右側の方に、軽いタップダンスを踊っている燕尾服の俳優は、紛れもなく西一郎だった。つまり覆面をしていない青竜王は何事もなかったように、たいへん楽しげに舞台に跳ねまわっているのだった。雁金検事は前からそれをよく知っていたればこそ、青竜王の肩を持ったのであった。
だが青竜王は、傍から見るほど楽しく踊っているわけではなかった。真実彼の胸の中を切り開いてみると、九つの苦悩を一つの意志の力でもって辛うじて支えているのだった。彼は既に非常警戒の網が敷かれたことも、舞台の上から見てとった。しかも舞台では、赤星ジュリアが蜉蝣の生命よりももっと果敢ない時間に対し必死の希望を賭け、救おうにも救いきれない恐ろしき罪障をなんとかして此の一瞬の舞台芸術によって浄化したいと願っている。――一つは大洪水のような司法の力、一つは硝子で作った羽毛のようにまことに脆弱な魂――その二つの間に挿まれた彼、青竜王の心境は実に辛かった。
――なんとかして、最後の舞台を力一杯に勤めさせたい!
と彼は思った。だがジュリアの舞台は、もう誰の目にもそれと分るほど光りを失っていた。
「どうも変だな。ジュリアはいまにも倒れてしまいそうじゃないか」
「あたしも先刻から、そう思っていたところよ。どうしたんでしょうネ。きっとジュリアは疲れたんでしょう」
――ジュリア、どうした!
と、三階席から無遠慮な声が飛んだ。
それが耳に入ったのか、ジュリアはハッと顔をあげたが、その頸のあたりは短時間のうちにアリアリと痩せ細ってみえた。
――ジュリア、帰って睡ってこい!
と、続いて二階から頓狂な声が響いた。
ジュリアはいつの間にか力なく下に垂れた顔を、またハッとあげた。彼女はギリギリと上下の歯を噛み合わせた。が――右手に持った真白な鴕鳥の羽毛で作った大きな扇がブルブルと顫えながら、その悲痛きわまりない顔を隠してしまった。
「別れの冬木立
遺品にちょうだいな
あなたの心臓を
ええ――
あたしは吸血鬼……」
という合唱につられたかのように、ジュリアの顔を隠した羽毛の扇がピクピクと宙を喘いだ。――そこで曲目は断層をしたかのように変化し、奔放にして妖艶かぎりなき吸血鬼の踊りとなる――この舞台のうちで、一番怪奇であって絢爛、妖艶であって勇壮な大舞踊となる。今夜のジュリアの無気力では、その辺で一と溜りもなく舞台の上に崩れ坐るかと思われたが、なんという意外、なんという不思議! 彼女は生れ変ったように溌剌として舞台の上を踊り狂った。
ウワーッ! という歓声、ただもう大歓声で、シャンデリヤの輝く大天井も揺ぎ落ちるかと思うような感激の旋風が、一階席からも二階席からも三階席からも四階席からも捲き起った。
「ジュリア! 世界一のジュリア!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリア!」
「殺してくれい、ジュリア!」
「百万ドルの女優!」
と、後はなにがなんだか、破れかえるような騒ぎで、合唱も器楽も揉み消されてしまった。実に空前の大喝采、空前の昂奮だった。――何がジュリアをこうも元気づけたか?
一番前の列にいた勇少年は、隣りの大辻の腕をひっぱって叫んだ。
「ああ、たいへんだ。あれ御覧よ。白い鴕鳥の扇から、真赤な血が飛び散っているよ」
「呀ッ。――これはいけない。ホウあのようにジュリアの衣裳の上から血がタラタラと滴れる!」
しかし他の者は、昂奮の渦巻の中に酔って、そんなことに気のつく者は一人もなかった。ワーッワーッと、まるで闘牛場のような騒ぎだった。――その嵐のような歓呼の絶頂に、わが歌姫赤星ジュリアはパッタリ舞台に倒れて虫の息となってしまった。間髪を入れず、舞台監督の機転で、大きな緞帳がスルスルと下りた。それがジュリアの最後の舞台だった。
青竜王の西一郎は、誰よりも真先に飛んで来て、ジュリアを抱き起した。
「ジュリアさん。どうしたんです。しっかりしなさい、ジュリアさん」
ジュリアはまるで意識がなかった。
「早く医者を呼んで……」
青竜王は誰にともなく命じると、そのままジュリアを抱えあげて、とっとっと三階の彼女の部屋にまで運んだのであった。
扉をあけて入ると、室の中央にはいつになく大きなソファが出してあり、その上には真白の絹の布がフワリと掛けてあった。
「ああ、これがジュリアの覚悟だったんです」
そういって青竜王は、ジュリアをソッとその白絹の上に横たえた。――右の上膊に、喰い切ったような傷口があって、そこから鮮かな血を噴いているのが発見されたのもこの時だった。傷口は直ちに結ばれたけれど、それは彼の深傷にとって、何の足しにもならなかった。
近所の医師が、看護婦を連れて飛びこんで来て、早速診察をしたけれど、その後で医師は不機嫌に首を振って、一語も喋ろうとはしなかった。
「ジュリアさん。僕が分るかい。僕は一郎だよ」
といって、青竜王はジュリアの額を撫でてやった。その声が感じたのか、ジュリアは微かに目を開いた。そして苦しそうに口を動かしていたが、やっとのことで、
「千鳥さんにも、詫びてちょうだい。……お二人して……祈ってネ……」
とまで云ったかと思うと、俄かに胸を大きく波うたせて、息を引取ってしまった。
「ああ、お気の毒なことをしました。最早、御臨終です」
と医師は脈を握っていた手を離して、ジュリアの遺骸に向い恭しく敬礼をした。
先ほどから、ジュリアの身体より遠くの方に遠慮していた雁金検事と大江山捜査課長とは、このとき目交せをすると、静かにジュリアの枕許に歩をうつして、ジュリアの冥福を祈念した。
「ジュリアさんの最後の舞台を見てくれましたか」と一郎は二人に声をかけた。
二人は軽く肯いた。
「あの最後を飾った素晴らしい踊は、ジュリアが吾れと吾が血潮を吸って、その勢いでもって踊ったのです。今日という今日まで、まさか自分の血潮を啜ろうとは思っていなかったでしょうに……」
といって、一郎は暗然と涙を嚥んだ。そして懐中を探ぐると一と揃いの覆面を出して、ソッとジュリアの枕辺に置いた。――これを見た大江山は始めて気がついたらしく、ハッと一郎の顔を睨んだ。
「ジュリアの死と共に、覆面探偵も死んでしまったのです。もう探偵をするのが厭になりました」
そういって青竜王ならぬ一郎は、卓越した手腕を自ら惜し気もなく捨ててしまった。
ジュリアの遺骸は、彼女と仲のよかった舞姫たちが、何処からともなく持ってくる白い百合やカーネイションやマガレットの花束で、見る見るうちに埋もれていった。
* * *
一郎は臨終のジュリアから頼まれたとおりの謝罪のことを矢走千鳥に伝えることを忘れなかった。そして、これもジュリアの望んでいたように、彼は千鳥と結婚をした。二人の仲は極めて円満である。
「君は(――と一郎は愛妻のことを今もこう呼んでいた)青竜王と一郎とが同じ人物だったということを、ジュリアさんの亡くなった時まで知らなかったろう」
「アラ自惚れていらっしゃるのネ。一郎さんが青竜王だってことは、ゴルフ場の浴室から素ッ裸のあたくしを伯父さんの病院に運んで下さった、そのときから知ってましたわ」
「へえ、そうかネ」
「へえそうかネ――じゃありませんわ。あのとき自動車の中であたくしは薄目を開いてみたんですの。貴下の覆面は完全でしたけれど、その下から覗いているネクタイが一郎さんのと同じでしたわ。そこでハハンと思っちゃったのよ」
「そうかネ、それは大失敗だ。……しかし僕が自分より一枚上手の名探偵を妻君にしたことは大成功だろう。はッはッはッ」
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