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恐怖の口笛(きょうふのくちぶえ)

作者:未知  来源:青空文库   更新:2006-8-24 11:29:23  点击:  切换到繁體中文


   おそわれた裸女らじょ


 この突発事件が起ったところは、クラブハウスの中の噴泉浴室ふんせんよくしつのあるところだった。
 それより三十分ほど前、その婦人用の浴室の二つが契約された。もちろんそれは赤星ジュリアと矢走千鳥の二人が、汗にまみれた身体を噴泉で洗うためだった。当時この広い浴場は、二人の外に誰も使用を契約していなかった。
 ジュリアは第四号室を、千鳥の方はその隣りの第五号室を借りた。その浴室は、公衆電話函こうしゅうでんわばこを二つ並べたようになっていて、入口に近い仕切しきりの中で衣類を脱ぎ、その奥に入ると、白いタイルで張りつめた洗い場になっていて、せんをひねると天井からシャーッと温湯おんとうたきのように降ってくるのであった。婦人たちのためには、セロファンで作った透明な袋があって、これを頭からかぶってやれば、髪は湯にれずにんだ。
 二人はゴトゴトと音をさせながら、着物を脱いだ。
「お姉さま」と千鳥が隣室りんしつから呼んだ。
「なーに、いちゃん」
「あたし、何だか怖いわ。だってあまり静かなんですもの」
「おかしな人ネ。静かでいい気持じゃないの」
 そういってジュリアは奥に入ると、シャーッと白い噴泉を真白な裸身らしんびた。
「あの――お姉さま」と千鳥がトントンと間の板壁を叩いた。
「お姉さまが黙っていると、なんだか、ひとりぽっちでいるようで怖いのよ。あたし、お姉さまのところへ入っていってはいけないこと?」
「あらいやだ。まあ早くお洗いなさいよ。――そう、いいことがあるわ。じゃあ、あたしがここで歌を唄ってあげるわ。世話の焼ける人ネ」
 そういってジュリアは千鳥のために、美しい口笛を吹きならしたのであった。その歌はいわずと知れた彼女の十八番おはこの「赤い苺の実」の歌だった。
 千鳥もそれに力を得たか、騒ぐのをやめてシャーッと噴泉の栓をひねって、しなやかに伸びた四肢ししを洗いはじめた。
 それから何分のちのことだったかよく分らないが、この噴泉浴室の中から、突如として魂消たまぎるような若い女の悲鳴が聞えた。それは一人のようでもあり、二人のようでもあった。と、途端とたんにガチャーンといって硝子ガラスれるようなすさまじい音がして、これにはクラブハウスの誰もがハッキリと変事へんじに気がついたのだった。
 いつもは男子絶対禁制きんせいの婦人浴場だったけれど、誰彼だれかれの差別なく、入口から雪崩なだれこんだ。
「どうしましたッ」
 と真先まっさきに入ったのは、クラブの事務長の大杉おおすぎだった。しかし内部からはウンともスンとも返事がなかった。
 彼は手前にある四番浴室をサッと開いた。そこにはジュリアの衣服が脱ぎぱなしになっていた。ノックをして奥の仕切を押し開いたが、どうしたものかジュリアが居ない。噴泉はシャーッと勢いよく出ていた。
 彼は直ぐそこを飛び出すと、次の五番浴室に闖入ちんにゅうした。そこには派手な千鳥の衣類が花をいたように床上ゆかうえ散乱さんらんしていた。格闘があったのに違いない。事務長はそこで胸を躍らせながら、奥の仕切をサッと開いた。
ッ!」
 と叫ぶなり、彼は慌てて仕切を閉じた。彼は見るに忍びないものを見たのだ。そこには一糸もまとわないジュリアが、大理石彫だいりせきぼりの寝像であるかのように、あられもない姿をしてタイルの上に倒れていたのであった。
「オイ、退いた退いた」
 と背後に大きな声がした。雁金検事と大江山捜査課長とが入ってきたのだ。
 噴泉を停め、ジュリアを抱き起すと、彼女は失心しっしんからやっと気がついた。
「どうしたのです。そして千鳥さんは……」
「ああ、いちゃんは、……」とジュリアは白い腕を頭の方にあげて何か考えているようだったが、
「――誰かがさらって……」といって入口の方をゆびさしたと思うと、ガックリと頭をれた。ジュリアはまた失心してしまったのだった。
「ナニ、千鳥さんは攫われたというのか」
 課長はジュリアを検事に預けて、自分は浴室を飛びだした。見ると正面の窓硝子が上に開いて、しかも硝子がこわれている。さっきのひどい音はこれだったのだ。怪人物は千鳥を奪って、此処ここから逃げたのに違いない。
 彼はヒラリと窓を飛び越して、外へ出た。
 そしてあたりを見廻わしたが、クラブのかこいの外は、茫々ぼうぼうたる草原が見えるばかりで、怪人物の姿は何処にも見えなかった。ただはるか向うを、濛々もうもうたる砂塵さじんが移動してゆくのが目に入った。
「ああ、あれだッ。自動車で逃げたナ」
 彼は玄関に廻ってみると、そこでれて来た運転手とバッタリ出会った。
「課長さん。自動車を盗まれてしまいました」
 と運転手は青くなって云った。
 後には自動車が一台もなかった。だから向うを怪人物が裸身らしんの矢走千鳥を乗せたまま逃げてゆくのを望みながらも、何の追跡する方法もなかった。
「そうだ、電話をかけよう」
 事務室に飛びこんだ課長は、まどろこしい郊外電話に癇癪玉かんしゃくだまを爆発させながら、それでもようやく警察署を呼び出し、自動車取押とりおさかたの手配をするとともに、また至急しきゅう自動車をゴルフ場へ廻すように頼んだ。そして検事の待っている方へ歩いていった。
 ジュリアは事務室の中で、急拵きゅうごしらえのベッドの上に寝かされていた。枕頭ちんとうには医学博士蝋山教授が法医学とは勝手ちがいながら何くれとなく世話をしていた。雁金検事は腕をこまねいて沈思ちんししていたが、課長の入ってくるのを見るなり、
「矢走じょうは見つかったかネ」
 と聞いた。課長は一伍一什いちぶしじゅうを報告して、見失ったのを残念がった。
「ジュリアさんは、何か話をしましたか」
 と課長の問うのに対し、検事はまんで話をした。――ジュリアの話によると、彼女は噴泉を浴びているうちに、隣室の千鳥が只ならぬ悲鳴をあげたので、おどろいて隣室へ飛びこんでみると、どこから入ったか、一人の怪漢が千鳥を襲っているので、背後うしろから組みついたところ、たちまち振り倒されて気を失った。気がついたら、こんなところに寝ていたというのであった。
「その怪漢の顔とか、服装には記憶がありませんか」
咄嗟とっさの出来ごとで、何も分らないそうだ。背後うしろから組みついたので、顔も見えないというのだよ」
 そのときジュリアは目をパッチリ明いて、もう大丈夫だから、竜宮劇場の出場に間に合うよう帰りたい。西一郎を呼んでくれるようにと云った。
「ああ、西一郎。彼はどこへ行ったんです」
「一郎君が見えないネ。――」
 と不審ふしんをうっているところへ、ドアが明いて、彼がヌッと入って来た。
「オイ君はこの騒ぎの中、どこにいたのだい」
 と課長は目を光らせていった。
「ちょっと外へ出て、畠を見ていたのです。都会人はこんなときでなければ、野菜の生えているところなんか見られませんよ」と云ったけれど、何だかわざとらしい弁解のように聞えた。
 ジュリアは西の声を聞くと、一層いっそう帰りたがった。そこで西のほかに検事が附添って帰ることになり、大江山課長と蝋山教授は残ることになった。丁度警察から差し廻しの自動車が来ていたので、三人は直ぐ東京へ出発することが出来た。
「どうも西という男は曲者くせものだて」と、蝋山教授は頭を大きく左右へ振った。
「まさか西一郎が、千鳥を襲撃したのじゃあるまいな」と課長はひとごとをいった。
「それは何とも云えぬ。――」
 といっているところへ、警笛けいてきをプーッと吹き鳴らしつつ、紛失した大江山の自動車が帰って来た。課長は愕いて玄関へ走りだしたが、中からは意外にも、彼の連れていた運転手の怪訝けげんな顔が現れた。
「自動車がございました。二百メートルばかり向うの畠の中に自動車の屋根のようなものが見えるので行ってみました。すると、愕いたことに、これが乗り捨ててあったのです」
「フーン」
 と大江山はうなった。一体何者の仕業しわざか。西一郎がやったのか、それとも例のポントスが現れたのか、或いはまたその辺を徘徊はいかいしている筈の覆面探偵の仕業か。――一方、矢走千鳥は天にけたか地にもぐったか、ようとして消息が入らなかった。
 だが、矢走千鳥は無事に生きていた。彼女は多摩川たまがわ眼下がんかに見下ろす、某病院の隔離病室かくりびょうしつのベッドの上で、院長の手厚い介抱かいほうをうけていた。
「もう大丈夫です。静かにしていれば、二三日でなおります。身体にはどこにも傷がついていません。ただおどろきが大きかったので、すこし心臓が弱っています。あまり昂奮しないのがよろしい」
「あたくし、誰かに逢いたいのですが」
「イヤもっともです。そのうち誰方どなたか見えましょう」
 そんな会話が繰返くりかえされているうちに、夜更よふけとなった。このとき病院の玄関に、一人の男が訪れた。院長の許可が出て、上へあげられた彼は、矢走千鳥の病室に通った。
「まあ、西さん。――よく来て下すったのネ」
 西はただニコニコ笑うだけだった。
「誰も来て下さらないので、悲しんでいたところですわ」
「僕は、ソノ青竜王から行って来るように頼まれたんです。当分ほかに誰も来ないでしょう。院長から許しが出るまで、一歩も寝台の上から降りないことですネ」
「ええ、貴方が仰有おっしゃることなら、あたくし何でも守りますわ。……ねえ、西さん」
「なんです、千鳥さん」
「あたくし、貴下あなたに、どんなにか感謝していますのよ。お分りになって……」
「感謝?――僕は何にもしませんよ。ああ、助けられたことですか。あれなら青竜王に感謝して下さい。……イヤ、そんなことを今考えるのは身体にさわりますよ。何ごともしばらくは忘れていることです。誰かが聞いても、何にもしゃべってはいけません。千鳥さんは当分、けるしかばねになっていなくちゃいけないんですよ、いいですか」
「生ける屍――貴下の仰有ることなら、屍になっていますわ」
 といってニッコリ微笑んだが、さらわれた千鳥は一体何を感謝しているのだろう。


   覆面探偵の危難きなん


 矢走千鳥やばせちどり誘拐事件ゆうかいじけんは、なんの手懸てがかりもなく、それから一日過ぎた。
 雁金検事はそのことで、大江山捜査課長を検事局の一室に招いた。
「君の怠慢にますます感謝するよ。いよいよわしたちは新聞の社会面でレコード破りの人気者となったよ。第一千鳥の神隠かみがくしはどうなったんだ。玉川ゴルフ場から十分ぐらいの半径はんけいの中なら、一軒一軒当っていっても多寡たかが知れているではないか。どうして分らぬのか、分らんでいる方がむついと思うが……」
「イヤそれが不思議にも、どうしても分らないのです。ひょっとすると、犯人は夜のうちに千鳥をもっと遠いところに移したかもしれないのです。しかし御安心下さい。あの犯人も吸血鬼も、同一人物だとにらんでいて、別途べっとから犯人を探しています」
「別途からというと、君のねらっている犯人というのは誰だい」
「ポントス――つまりキャバレーの失踪しっそうした主人ですネ。部下は懸命に捜索に当っています。今明日中こんみょうにちじゅうにきっと発見してみせますから」
彼奴きゃつはもう死んでいるのじゃないか」
「死んでいてもいいのです。ポントスの持っている秘密が、恐怖の口笛にまつわる吸血鬼事件の最後の鍵なんです」
「ほほう」と検事は目を丸くして「では儂が首をくくらん前に、事件の真相を報告するようにしてくれたまえ」
 大江山が帰ると間もなく、覆面探偵から電話がかかって来た。
「雁金さん。いよいよ犯人を決定するときが来ましたよ」
「ほほう。イヤこれはさかんなことだ」
「まぜかえしてはいけませんよ。それで一つ、お願いがあるのですけれど……」
「犯人を国外に逃がす相談なら、今からおことわりだ」
「そうではありません。実は今夜、たしかに吸血鬼と思われる怪人物から会見を申込まれているのです」
「うん、それはおあつらきだ。では新選組しんせんぐみを百名ばかり貸そうかネ」
「いえ、向うでは僕一人が会うという条件で申込んで来ているのです」
「そんな勝手な条件なんか、蹂躙じゅうりんしたまえ」
「そうはいかないですよ。――で僕はひとりで会うつもりなんですが、もし今夜九時までに、僕が貴下あなたのところへお電話しなかったら、貴下の一番下のひきだしの中に入っている手紙をよんで下さい」
「なんだ、手紙が入っているんだって?」なるほど誰がいつの間に入れたか、白い四角な封筒が入っていた。「あったあった。こんなものぐ明けられるじゃないか」
「明けても駄目です。或る仕掛がしてあるので、今夜九時にならないと、文字が出て来ません。今御覧ごらんになっても白紙はくしですよ」
 チェッと雁金検事が舌打ちをした途端とたんに、相手の受話機がガチャリと掛った。
 その日の夕刻、丁度黄昏たそがれどきのこと、丸ノ内にある化物ビルといわれる廃墟はいきょになっている九階建てのビルディングの、その九階の一室で、前代未聞ぜんだいみもんの奇妙な会見が行われていた。
 まずその荒れはてた部屋の真中には足の曲った一脚の卓子テーブルがあり、それをはさんで二人の人物が相対あいたいしていた。
 入口に遠い方にいる人物はまぎれもなく覆面探偵の青竜王だったが、彼は椅子に腰をかけたまま、身体を椅子ごと太い麻縄あさなわでグルグルに締められていた。それに対する人物は、卓子をへだてて立っていたが、その人物は頭の上から黒いきれをスッポリかぶっていた。そして右手には鋭い薄刃うすばのナイフをかまえて、イザといえば飛び掛ろうといういきおいを示していた。――これが雁金検事に報告された青竜王と吸血鬼との会見なのであった。すると、黒い布を被った人物こそ、恐るべき殺人犯の吸血鬼なのであろう。
「案外智恵のない男だねえ――」と黒布の人物は皺枯しわがれ声でいった。皺枯れ声だったけれども、確かに女性の声に紛れもなかった。
「……」青竜王は無言で、石のように動かない。
「そうやって椅子に縛りつけられりゃ、生かそうと殺そうと、私の自由だよ。この短刀で、心臓をグサリと突くことも出来るし、おこのみなら、指一本一本切ってもいい。苦しむのが恐ろしいのなら、ここにある注射針で一本プスリとモルヒネを打ってあげてもいいよ」と憎々にくにくしげに云った。
「約束をたがえるなんて、卑怯ひきょうだネ、君は」と青竜王は始めて口を開いた。
「お前は莫迦ばかだよ。――わたしの正体を知っている奴は、皆殺してしまうのだ。お前を今まで助けてやったのを有難いと思え。しかし今日という今日は、気の毒ながら生きては外へ出さないよ」
 と、まるで芝居がかりの妖婆ようばのような口調でいった。そして短刀をしてジリジリと青竜王の方へ近づいてくるのであった。
「まあ待ち給え。何時でも殺されよう。だがその前に約束だけは果させてくれ。というのは、僕は君に云いたいことがあるんだ」
「云いたいことがある。有るなら最期の贈り物に聞いてやろう。但し五分間限りだよ。早く云いな――」
「僕はこれまで、かなり君をかばってきてやったぞ。君は知らないことはないだろう。最近に玉川で矢走千鳥を襲ったのも君だった。僕が出ていって君を離したが。そのお陰で、君は吸血の罪を一回だけ重ねないでんだのだ。いや一回だけでない。いままでに君を邪魔じゃまして、吸血の罪を犯させなかったことが五度もある。それは君を呪いの吸血病から、何とかして救いたいためだった。……」
「なにを云う。……すると今まで、邪魔が飛びだしたのは、皆お前のせいだとおいいだネ」
 と、悪鬼あっきこぶしを固めて、青竜王を丁々ちょうちょうなぐった。探偵は歯を喰い縛ってこらえた。
「君に悔い改めさせたいばかりに、パチノ墓地からも君を伴って逃がしてやった」
 ああ、すると吸血鬼というのは、もしや……。
「お黙り」と悪鬼は、またもや探偵の胸をなぐった。探偵はウムとうなってもだえた。
「僕には君の正体が、もっと早くから分っていたのだよ。思い出してみたまえ。君が四郎少年を殺したとき、死にもの狂いで探していたものは何だったか覚えているだろう。それが官憲かんけんに知れると、立ちどころに君は殺人魔として捕縛ほばくされるところだった。僕はそれを西一郎の手をて君の手に戻してやった」
出鱈目でたらめをお云いでないよ。妾は知らないことだよ。――さあ、もう時間はあますところ一分だよ」
「君にあらためさせたいばかりに、僕は君の自由になっているのが分らないのか」
感傷かんしょうはよせよ。みっともない」
「ああ、到頭とうとう僕の力には及ばないのか。……では僕は一切をあきらめて殺されよう。だが只一つ最後にきたい。君はなぜ吸血の味を知ったのだ。なにが君を、そんなに恐ろしい吸血鬼にしたのだ」
「そんなことなら、あの世への土産みやげに聞かせてあげよう。――それは先祖から伝わる遺伝なのだよ。パチノを知っているだろう。あれは九人の部下が死ぬと、一人残らず血を吸いとったのだよ。妾はそれを遺書の中から読んだ。……ああ、その遺書が手に入らなかったら、妾は吸血鬼とならずに済んだかもしれない。恐ろしい運命だ」
「そうか、パチノが先祖からけついだ吸血病か、そうしてついに君にまで伝わったのか、パチノの曾孫そうそんにあたるが……」
「お黙り!――」と、悪鬼は足をげて、青竜王の脾腹ひばらをドンと蹴った。
「ウーム」
 と彼が呻きながら、その場に悶絶もんぜつした。
「ああ、それ以上の悪罵あくばに妾が堪えられると思っているのかい。約束の五分間以上しゃべらせるような甘い妾ではないよ。お前さんはよくもこの妾の邪魔をしたネ」と憎々しげに拳をふりあげながら「さあこれから久し振りに、生ぬるい赤い血潮をゴクゴクと、お前さんの頸笛くびぶえから吸わせて貰おうよ」
 と云ったかと思うと、悪鬼の女は頭の上から被っていた黒布こくふに手をかけるとサッと脱ぎ捨てた。すると、驚くべし、その下から現れたのは、髪も灰色の老婆かと思いのほか、意外にも意外、それは金髪を美しくくしけずった若い洋装の女だった。その顔は――生憎あいにく横向きになっているので、見定みさだめがたい!
 毒のはなのような妖女ようじょの手が動いて、黄昏の空気がキラリとひかったのは、彼女のかざした薄刃のナイフだったであろう。いまやその鋭い刃物は、不運なる青竜王の胸に飛ぶかと見えたが、そのとき何を思ったか、妖女は空いていた左手をグッと伸べて、青竜王の覆面に手をかけた。
「そうだ。誰も知らない青竜王の覆面の下を、今際いまわの際に、この妾が見て置いてあげるよ……」
 そう独言ひとりごとをいって、彼女はサッと覆面を引き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしった。その下からは思いの外若い男の顔が現れた。両眼を力なく閉じているが、そのあまりにも端正たんせいな容貌!
「ああ、貴下は……西一郎!」
 そう叫んだのは同じ妖女の声だったが、咄嗟とっさの場合、作り声ではなく、彼女の生地きじの声――たまのように澄んだ若々しい美声びせいだった。――ああ、とうとう探偵の覆面は取り去られたのだった。いま都下に絶対の信用をはくしている名探偵青竜王の正体は、白面はくめんの青年西一郎だったのだ。そして吸血鬼にほふられた四郎少年こそは、彼と血を分けた愛弟あいていだったのだ!
「ああ、あたしは……」と妖女は胸を大濤おおなみのように、はげしくふるわせた。思いがけない大きな驚きに全く途方とほうに暮れ果てたという形だった。
「やっぱり、刺し殺すのだ!」
 と叫んで、妖女は再び鋭いナイフをふりあげたが、やがて力なく腕が下りた。
「どうして貴下が殺せましょう。妾の運命もこれまでだ!」
 そういった妖女は、青竜王の身近くによると、いましめの縄をズタズタに引き切った。しかし青竜王は覆面をとられたことさえ気がつかない。――妖女はいつの間にか、この荒れ果てた部屋から姿を消してしまった。
 かくて風前ふうぜんともしびのようにあやうかった青竜王の生命は、僅かに死の一歩手前で助かった。

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