「うん、あすこだ」
繁みの葉の間からは、向うに丸い芝地が見えた。近くに電灯がついているらしく、黄色く照し出されていた。その真中には、紛れもなく、力なく投げだされた青白い弟の腕が伸びていた。
すると、そのときだった。奇怪なことにも、その屍体の腕が生き物のようにスルスルと芝草の上を滑りだした。あの大傷を受けた弟が生きかえったのであろうか。いや絶対にそんなことがありよう筈がない。すると――
「あの怪人めが屍体にたかって、また破廉恥なことをやっているのだな。よオし、どうするか、いまに見ていろ!」
彼の全身は争闘心に燃えた。こうなってはもう誰の救いも要らない。愛する弟のために、この一身を投げだして、力一杯相手の胸許にぶつかるのだッ。
「さあ来いッ」
彼は一チ二イ三ンの掛け声もろとも、エイッと繁みの中から芝草の上へ躍りだした。
「さあ来いッ――」
……と躍りだしてはみたが、そこには思いもよらず――
「アレーッ」
という若い女の悲鳴があった。
「おお、貴女は……」
一郎はあまりの意外に、棒のように突立ったまま、言葉も頓には出なかった。意外とも意外、その芝草の上に立っていたのは誰あろう、いま都下第一の人気もの、竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアその人だったからである。
裂かれた日記帳
「あら、驚いた。……まア、どうなすったの、そんなところから現われて……」
ジュリアは唇の間から、美しい歯並を見せて叫んだ。
しかし彼女は、それほど驚いているという風にも見えなかった。それが舞台度胸というのであろうか。高いところから得意の独唱をするときのように、黒いガウンに包まれたしなやかな腕を折り曲げ、その下に長く裾を引いている真赤な夜会着のふっくらした腰のあたりに挙げ、そしてまじまじと一郎の顔を眺めいった。
「僕よりも、赤星ジュリアさんが、どうしてこんなところに現われたんです」
と、一郎は屍体に何か変ったことでもありはしないかと点検しながら訊ねた。
「あら、あたくしを御存知なのネ。まあ、どうしましょう」とジュリアは軽く駭いた身振りをして「あたくしは、いま劇場の昼の部と夜の部との間で、丁度身体が明いているのよ。一日中であたくしはそのときがいちばん楽しいの。……で、ドライヴしていたんですわ、ホラごらん遊ばせ、ここから見えるでしょう、あたくしの自動車が……」
なるほどジュリアの指す方に、一台の自動車が、小径を出たところに停っていて、座席には彼女の連れらしい、ずっと年の若い少女が乗っていた。それはジュリアの妹分にあたる矢走千鳥という踊り子であったけれど。
「貴女は自動車でここを通りかかったというのですか。よくこれが分りましたネ。……」
と弟の死骸を指した。
「ええ、それは誰かが叫んでいたからですわ。なにごとか大事件が起ったような叫び声でしたわ。だもんで、自動車を停めて、ここまで来てみると、この有様なんですのよ。貴方、たいへんだわ。この学生さん、死んでいましてよ」
「そうです。死んでいるというよりも、殺されているといった方がいいのです。これは僕の本当の弟なのです」
「ええ、なんですって。貴方がこの方の兄さんだと仰有るのですか」
「そのとおりです。僕は四郎の兄の一郎なんです」
「アラマアあたくし、どうしましょう」とジュリアは美しい眉を曇らせたが「とんだお気の毒なことになりましたわネ」
といって目を瞑じ、胸に十字を切った。
「そうだ、貴方はいまその辺に見なかったですか、怪しい男を……」
「怪しい男? 貴方以外にですか」
「ええ、もちろん僕のことではないです。こう顔の半面に恐ろしい痣のある小さい牛のような男のことです」
「いいえ。あたくしは今、車を下りて、真直にここまで歩いたばかりですわ」
ジュリアはまるでレビュウの舞台に立っているかのように、美しい台辞をつかった。側に立つルネサンス風の高い照明灯は、いよいよ明るさを増していった。
「その痣のある男がどうかしたのですか」
「いや、僕がいま追駈けていたのです。もしや犯人ではないかと思ったのでネ」と一郎は云ってあたりの木立を見廻わした。夕闇はすっかり蔭が濃くなって、これではもう追駈けてもその甲斐がなさそうに見えた。
そこへバラバラと跫音が入り乱れて聞えた。二人がハッと顔を見合わせる途端に、夕闇の中で定かに分らないが、十歳あまりの少年が駈けこんできた。そして後方をクルリとふりむいて大声に叫んだ。
「オーイ、早くお出でよ、大辻さーん」
向うの方からも、別な跫音がバタバタと近づいてきた。
「待て待て、勇坊、ひとりで駈けだすと、危いぞオ」
そういう声の下に、大入道のような五十がらみの肥満漢が、ゼイゼイ息を切りながら姿を現わした。――どうやら二人は連らしい。
「大辻さん。赤星ジュリアの外に、もう一人若い男が殖えたぜ」
と、少年は小慧しい口を利いた。
「ほう、そうじゃなア」
そういうところを見ると、既に二人はジュリアが屍体のところへ来たのを知っていたらしい。
「皆さん。そこにある屍体を見るのはかまわないけれど、手で触っちゃ駄目だよ。折角の殺人の証拠がメチャメチャになると、警官が犯人を探すのに困るからネ」と少年は大真面目でいってから、大辻と呼ばれる大男の方に呼びかけた。「どうだい大辻さん。この殺人事件において、大辻さんは何を発見したか、それを皆並べてごらんよ」
「オイよさねえか、勇坊。みなさんが嗤っているぜ」
と大辻は頭を掻いた。
「まあ面白いこと仰有るのネ。あなた方は誰方ですの」
ジュリアは、眼のクルクルした少年に声をかけた。
「僕たちのことを怪しいと思ってるんだネ、ジュリアさん。僕たちは、ちっとも怪しかないよ。僕たちはこれでも私立探偵なんだよ。知っているでしょ、いま帝都に名の高い覆面探偵の青竜王ていうのを。僕たちはその青竜王の右の小指なんだよ」
「まあ、あなたが小指なの」
「ちがうよ。小指はこの大辻さんで、僕が右の腕さ」
「青竜王がここへいらっしゃるの?」
「ううん」と少年は急に悄気て、かぶりを振った。「青竜王がいれば、こんな殺人事件なんか一と目で片づけてしまうんだけれど。だけれど、青竜王はどうしたものか、もう十日ほど行方が分らないんです。だから僕と大辻さんとで、この事件を解決してしまおうというの」
「オイオイ勇坊。つまらんことを云っちゃいけないよ」
「そうだ。それよりも早く結論を出すことに骨を折らなければ……」と勇少年は再び大辻の方を向いていった。「大辻さんには分っているかどうかしらないけれど、この学生さんは始めその木の陰で向うを向いて腰を下ろしていたんだよ。するとネ、学生さんの背後の繁った葉の間から、二本の手がニューッと出て、細い針金でもって学生さんの首をギューッと締めつけたんだ。それでとうとう死んじゃったんだ」
「そのくらいのことは分っているよ」と大辻が痩せ我慢をいった。
「どうだかなア。――そこで犯人は、表へ廻って、この屍体の側に近よった。そして咽喉のところを喰っ切って血を出してしまったのさ。こうすると全く生きかえらないからネ」
「それくらいのこと、わしにだって分らないでどうする」
「へーン、どうだかな。――殺される前に、学生さんは一人の美しい女の人と一緒に話をしていたのに違いない。その草の間にチョコレートの銀紙が飛んでいる中に、口紅がついたのが交っている」
「ええ、本当かい、それは……」
「ほーら、大辻さんには分っていないだろう。――学生さんは女の人と話しているうちに、女の人はなにか用事が出来て、ここから出ていったのさ。すぐ帰ってくるから待っていてネといったので、学生さんはじっと待っていた。その留守に頸を締められちまったのさ」
「青竜王の真似だけは上手な奴じゃ」
「それからまだ分っていることがある……」
勇少年の饒舌は、まだ続いてゆく。赤星ジュリアは聞き飽きたものかスカートをひるがえして、待たせてあった自動車の方へ歩いていった。
西一郎の方は、さっきから黙って、青竜王の部下だという大男と少年の話を聞いていたが、これもジュリアの跡を追って、その場を立ち去った。彼はまだ怪人の行方をつきとめたい気があるのかも知れなかった。
勇少年と大辻とは、それに気づかない様子で、夢中になって饒りつづけていた。しかし二人の男女が立ち去ってしまうと、思わず顔を見合わせてニッコリと笑った。
「だが勇坊、お前はいけないよ、あんな秘密なことまで喋ったりして」
「あんなこと秘密でもなんでもありゃしない。僕はもっと面白いことを二つも知っているよ」
「面白いことって?」
「一つは赤星ジュリアの耳飾りのこと、それからもう一つは、いまのもう一人の男の顔にある変な形の日焼けのことだよ」
「ほほう。早いところを見たらしいネ。だがそんなことが何の役に立つんだネ」
「それは大辻さんが発見した日記帳以上に役に立つかも知れない」
「ほう、日記帳!」大辻は何を思ったか、屍体のところへ飛んでいった。そして屍体の背中をすこし持ちあげると、その下に隠されていた小さな黒革の日記帳をとりだした。彼はその日記帳の頁をパラパラと繰っていたが、突然吃驚して、大声で叫んだ。
「ああ大変じゃ。――オイ勇坊、誰かこの日記帳から何十頁を切り裂いて持っていったぞ。先刻調べたときには、こんなことがなかったのに……」
奇怪な挑戦状
その翌日の午さがり、警視庁の大江山捜査課長は、昨夜来詰めかけている新聞記者団にどうしても一度会ってやらねばならないことになった。
その日の朝刊の社会面には、どの新聞でもトップへもって来て三段あるいは四段を割き、
「帝都に吸血鬼現る?
――日比谷公園の怪屍体――」
とデカデカに初号活字をつかった表題で、昨夕の怪事件を報道しているところを見ても、敏感な新聞記者たちは早くもこれが近頃珍らしい大々事件だということを見破ったものらしい。
大車輪で活動を続けている大江山課長は五分間だけの会見という条件でもって、新聞記者団を応接室へ呼び入れた。ドヤドヤと入ってきた一同は、たちまち課長をグルッと取巻いてしまった。
「五分間厳守! あとは云わんぞ」
と、課長は先手をうった。
「すると本庁では事件を猛烈に重大視しているのですネ」
と、早速記者の一人が酬いた。
「犯人は精神病者だということですが、そうですか」
と、他の一人が鎌をかけて訊いた。
「犯人はまだ決定しとらん」
課長は口をへの字に曲げていった。
「法医学教室で訊くと被害者の血は一滴も残っていなかったそうですね」
「莫迦!」課長は記者の見え透いた出鱈目を簡単にやっつけた。
「犯人は、被害者の実兄だと称している西一郎(二六)なのでしょう」
「今のところそんなことはないよ」
「西一郎の住所は?」
「被害者と同じ家だろう?」
「冗談いっちゃいけませんよ、課長さん。被害者は下宿住居をしているのですよ。本庁はなぜ西一郎のことを特別に保護するのですか」
「特別に保護なんかしてないさ」
課長は椅子にふん反りかえった。
しかし被害者の実兄の住所を極秘にしていることは、何か特別のわけがなければならなかった。課長がすこし弱り目を見せたところを見てとった記者団は、そこで課長の心臓をつくような質問の巨弾を放ったのだった。
「三年ほど前、大胆不敵な強盗殺人を連発して天下のお尋ね者となった兇賊痣蟹仙斎という男がありましたね。あの兇賊は当時国外へ逃げだしたので捕縛を免れたという話ですが、最近その痣蟹が内地へ帰ってきているというじゃありませんか。こんどの殺人事件の手口が、たいへん惨酷なところから考えてあの痣蟹仙斎が始めた仕業だろうという者がありますぜ。こいつはどうです」
「ふーむ、痣蟹仙斎か」課長は眉を顰めて呻った。「本庁でも、彼奴の帰国したことはチャンと知っている。こんどの事件に関係があるかどうか、そこまで言明の限りでないが、近いうち捕縛する手筈になっている」
と云ったが、大江山課長は十分痛いところをつかれたといった面持だった。痣蟹仙斎の、あの顔半分を蔽う蟹のような形の痣が目の前に浮んでくるようだった。
「それでは課長さん。これは新聞には書きませんが、痣蟹の在所は目星がついているのですね」
「もう五分間は過ぎた」と課長はスックと椅子から立ちあがった。「今日はここまでに……」
課長が室を出てゆくと、記者連は大声をあげて露骨な意見の交換をはじめた。結局こんどの吸血事件と帰国した痣蟹仙斎のこととを結びつけて、本庁は空前の緊張を示しているが、実は痣蟹の手懸りなどが十分でなくて弱っているものらしいということになった。そしてこのことを今夜の夕刊にデカデカ書き立てることを申合せたのだった。
夕刊の鈴の音が喧しく街頭に響くころ、大江山課長はにがりきっていた。
「しようがないなア。こう書きたてては、痣蟹のやつ、いよいよ警戒して、地下に潜っちまうだろう」
そこへ一人の刑事が入ってきた。
「課長さん。お手紙ですが……」
と茶色のハトロン紙で作った安っぽい封筒をさしだした。
課長は何気なくその封筒を開いて用箋をひろげたが、そこに書いてある簡単な文句を一読すると、異常な昂奮を見せて、たちまちサッと赭くなったかと思うと、直ぐ逆に蒼くなった。そこには次のような文句が認められてあった。
「大江山捜査課長殿
啓。しばらくでしたネ。しばらく会わないうちに、貴下の眼力はすっかり曇ったようだ。日比谷公園の吸血屍体の犯人を痣蟹の仕業とみとめるなどとは何事だ。痣蟹は吸血なんていうケチな殺人はやらない。嘘だと思ったら、今夜十一時、銀座のキャバレー、エトワールへ来たれ。きっと得心のゆくものを見せてやる。必ず来れ!
痣蟹仙斎」
課長は駭いて、手紙を持ってきた刑事を呼びもどした。誰がこのような手紙を持ってきたのかを訊ねたところ、受付に少年が現れてこれを置いていったということが分ったが、探してみてももう使いの少年の行方は知れなかった。だがこれは痣蟹の手懸りになることだから、厳探することを命じた。そしてその奇怪な挑戦状を握って、総監のところへ駈けつけた。
その夜のことである。
銀座随一の豪華版、キャバレー・エトワールは日頃に増してお客が立てこんでいた。客席は全部ふさがってしまったので、已むを得ず、太い柱の陰にはなるが五六ヶ所ほど補助の卓子や椅子を出したが、これも忽ちふさがってしまった。
酒盃のカチ合う音、酔いのまわった紳士の胴間声、それにジャズの喧噪な楽の音が交りただもう頭の中がワンワンいうのであった。
この喧噪の中に、室の一隅の卓子を占領していたのは大江山捜査課長をはじめ、手練の部下の一団に、それに特別に雁金検事も加わっていた。いずれも制服や帯剣を捨てて、瀟洒たる服装に客たちの目を眩ましていた。なお本庁きっての剛力刑事が、あっちの壁ぎわ、こっちの柱の陰などに、給仕や酔客や掃除人に変装して、蟻も洩らさぬ警戒をつづけていた。かれ等一行の待ちかまえているものは、奇怪なる挑戦状の主、痣蟹仙斎の出現だった。痣蟹はいずこから現れて、何をしようとするのであろうか。
ところがその夜の客たちは、検察官一行とは違い、また別なものを待ちかまえていた。それは今夜十時四十分ごろに、このキャバレーに特別出演する竜宮劇場のプリ・マドンナ、赤星ジュリアを観たいためだった。ジュリアの舞踊と独唱とが、こんなに客を吸いよせたのであった。
夜はしだいに更けた。屋外を行く散歩者の姿もめっきり疎らとなり、キャバレーの中では酔いのまわった客の吐き出す声がだんだん高くなっていった。時計は丁度十時四十五分、支配人が奥からでてきてジャズ音楽団の楽長に合図をすると、柔かいブルースの曲が突然トランペットの勇ましい響に破られ、軽快な行進曲に変った。素破こそというので、客席から割れるような拍手が起った。客席の灯火がやや暗くなり、それと代って天井から強烈なスポット・ライトが美しい円錐を描きながら降って来た。
「うわーッ、赤星ジュリアだ!」
「われらのプリ・マドンナ、ジュリアのために乾杯だ!」
「うわーッ」
その声に迎えられて、真黒な帛地に銀色の装飾をあしらった夜会服を着た赤星ジュリアが、明るいスポット・ライトの中へ飛びこむようにして現われた。
そこでジュリアの得意の独唱が始まった。客席はすっかり静まりかえって、ジュリアの鈴を転ばすような美しい歌声だけが、キャバレーの高い天井を揺すった。
「どうもあの正面の円柱が影をつくっているあたりが気に入りませんな」
と大江山捜査課長が隣席の雁金検事にソッと囁いた。
「そうですな。私はまた、顔を半分隠している客がないかと気をつけているんだが、見当りませんね。痣蟹は顔半面にある痣を何とかして隠して現われない限り、警官に見破られてしまいますからな」
「イヤそれなら、命令を出して十分注意させてあります」
ジュリアの独唱のいくつかが終って、ちょっと休憩となった。嵐のような拍手を背にして彼女がひっこむと、客席はまた元の明るさにかえって、ジャズが軽快な間奏楽を奏しはじめた。警官隊はホッとした。
「きょうは貴下の御親友である名探偵青竜王は現われないのですか」
と大江山は莨に火を点けながら、雁金検事に尋ねた。
「さあ、どうですかな。先生この頃なにか忙しいらしく、一向出てこないです。しかし今夜のことを知っていれば、どこかに来てるかも知れませんな」
覆面の名探偵は、検事の親友だった。覆面の下の素顔を知っているものは、少数の検察官に止まっていた。青竜王に云わせると、探偵は素顔を事件の依頼者の前でも犯人の前でも曝すことをなるべく避けるべきであるという。だから一度雑誌に出た彼の素顔の写真というのがあったが、あれももちろん他人の肖像だったのである。
再び、トランペットの勇ましい音が始まって、客席の灯火はまたもや薄くなった。いよいよこんどこそは、痣蟹が現れるだろう。
「もう十一時に五分前です」
課長は卓子の下で、拳銃の安全装置を外した。
検察官一行の緊張を余所に、客席ではまた嵐のような拍手が起った。美しい光の円錐の中に、ジュリアを始め三人の舞姫たちが、絢爛目を奪うような扮装して登場したのであったから。カスタネットがカラカラと鳴りだした。一座の得意な出しもの「赤い苺の実」のメロディが響いてくる。……
「こいつはいかんじゃないですか。三人の女優が、みな覆面をしとる」
と雁金検事が隣席の大江山課長に囁いた。
「これは舞台でもこの通りやるんです。それに真逆痣蟹があの美しい女優に化けているとは思いませんが……」
「だが見給え。この夜の十一時という問題の時刻に、女優にしろ、あのような覆面が出てくるのはよくないと思いますよ。それにあの長い衣裳は、女優の頤と頸のあたりと、手首だけを出しているだけで、殆んど全身を包んでいますよ。よくない傾向です」
「じゃあ命じて女優の覆面を取らせましょうか」
そういった瞬間だった。予告なしに、突然室内の灯火が一せいに消えて、真暗闇となった。客席からはワーッという叫びがあがった。そのとき出口の闇の中から、大きな声で呶鳴る者があった。
「皆さん、われ等は警官隊です、危険ですから、すぐに卓子の下に潜って下さアい!」
その声が終るが早いか、叫喚と共に卓子と椅子とがぶつかったり、転ったりする音が喧しく響いた。
(なにかこれは大事件だ!)
客の酔いは一時に醒めてしまった。
すると、こんどは騒ぎを莫迦にしたようにパーッと室内の電灯が煌々とついた。
室内の風景はすっかり変っていた。客の多くは卓子の下に潜りこみ、ただすっかり酔っぱらって動けない連中が椅子の上にダラリとよりかかっていた。出口にはどこから現れたのか、武装した三十名ほどの警官隊がズラリと拳銃を擬して鉄壁のように並んでいる。
「頭を出すと危い!」
警官が注意した。
「あッはッはッはッ」
思いがけない高らかな哄笑が、円柱の影から聞えた。
素破! 雁金検事も大江山課長も、卓子を小楯にとって、無気味な哄笑のする方を注視した。
正面の太い円柱の陰から、蝙蝠のようにヒラリと空虚な舞台へ飛び出したものがあった。皮革で作ったような、黄色い奇妙な服を着た痩せこけた男だった。グッと出口の警官隊を睨みつけたその顔の醜怪さは、なにに喩えようもなかった。左半面には物凄い蟹の形の大痣がアリアリと認められた。ああ、遂に痣蟹が現れたのだ!
意外な犠牲
待ちに待たれていた大胆不敵な挑戦状の主は、とうとう皆の前に姿を現わしたのだった。怪賊痣蟹は二た目と見られない醜悪な面をわざと隠そうともせず、キッと武装警官隊の方を睨みつけた。
武装隊を指揮しているのは金剛部長だったが、ヌックと立って部下に号令した。
「あの怪物がすこしでも動いたら、撃ち殺してしまえッ」
痣蟹はそれを聴くと、薄い唇をギュッと曲げて冷笑した。そして突然、背後に隠しもった彼の手慣れた武器をとりだした。それは恐るべき軽機関銃だった。彼が和蘭にいたとき、そこの秘密武器工場に注文して特に作らせたという精巧なものだった。――その機関銃の銃口が、警官たちの胸元を覘った。
「急ぎ撃てッ」
武装隊長は咄嗟に射撃号令をかけた。
ドドーン。ドドーン。
カタ、カタ、カタ、カタ。
どっちが先へ撃ちだしたのか分らなかった。忽ち室内の電灯はサッと消えて、暗黒となった。阿鼻叫喚の声、器物の壊れる音――その中に嵐のように荒れ狂う銃声があった。正面と出口とに相対峙して、パッパッパッと真紅な焔が物凄く閃いた。猛烈な射撃戦が始まったのだ。
警官隊は銃丸を浴びながら、ひるまず屈せず、勇敢に闘った。前方に火竜が火を噴いているような真赤な火の塊の陰に痣蟹がいる筈だった。それを目標に、拳銃の弾丸の続くかぎり覘いうった。ときどき警官たちは胸のあたりを丸太ン棒で擲りつけられたように感じた。それは防弾衣に痣蟹の放った銃丸が命中したときのことだった。防弾チョッキがなかったら、彼等はとうの昔に、全身蜂の巣のように穴が明いてしまったであろう。
だが軽機関銃の偉力は素晴らしかった。物凄い速さで飛びだしてくる銃丸は、大部分防弾衣で防ぎとめられはしたものの、だんだんに防弾鋼の当っていない肘を掠めたり手首に流れ当ったりして、さすがの警官隊もすこしひるみ始めた。卓子の陰から、眼ばかり出してこの猛烈な暗黒中の射撃戦を凝視していた雁金検事や大江山捜査課長などの首脳部一行は、早くも味方の旗色の悪いのを見てとった。
「大江山君、この儘じゃあ危いぞ。警官隊に突撃しろと号令してはどうだ」
「突撃したいところですが、駄目です。卓子だの椅子だの人間だのが転がっていて、邪魔をしているから突撃できません」
「でもこのままでは……」と検事は悲痛な言葉をのんだ。
と、そのときだった。誰か、検事の腕をひっぱる者があった。
「雁金さん、雁金さん――」
「おう、誰だッ」
「落付いて下さいよ、僕です。分りませんか」
「ナニ……そういう声は」
と雁金検事は相手の男の腕をグイと握ってひきよせて、低声で囁いた。
「――青竜王だナ」
青竜王! それはかねて雁金検事の親友として名の高い覆面探偵青竜王だったのである。どうしたわけか、このところ十日ほど、所在の不明だった探偵王だった。彼のところへやった通信が届いて、このキャバレーへやってきたものらしい。
青竜王は闇の中で雁金検事と何事かを低声で囁きあった。その揚句、話がすんだと見えて、
「じゃ、しっかり頼むぞ」
という検事の激励の言葉とともに、青竜王はコソコソとまた闇の中に紛れこんでしまった。――検事はこんどは大江山課長を引きよせると、何かを耳打ちした。
「よろしい。命令しましょう」
課長はそういって、卓子の陰から匍いだした。彼は銃丸の中をくぐりぬけながら、力戦している警官隊の方へ進んでいった。
間もなく何か号令が発せられて、武装警官隊の射撃は更に猛烈になった。天井から何かガラガラと墜ちてくる物凄い音がした。
「前面を注視していろ!」
隊長が叫んでいる――
と、正面に怪物のように火を吐いていた痣蟹の軽機関銃が、どうしたものか急に目標を変えた。ダダダダダッと銃丸は天井に向けられ、シャンデリアに当って、硝子の砕片がバラバラと墜ちてきた。
「おや?」と思う間もなく、ワッという悲鳴が聞えて、いままで呻りつづけていた機関銃の音がハタと停った。そしてドサリという重い機械が床上に叩きつけられる音がした。――これは勇敢な青竜王が、ひそかに痣蟹の背後にまわり、機関銃を叩き落したのだった。痣蟹は正面から警察隊の猛射を受けていたので、その撃退に夢中になっていたところをやっつけられたのであった。しかし本当は警官隊は猛射をしていたことに違いないけれど、天井ばかり撃っていたのであった。それは突入した青竜王に怪我をさせることなく、しかも痣蟹を牽制するためだった。すべては名探偵青竜王の策戦だったのである。
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